大正から昭和の始めにかけてアララギは巨大結社となった。「アララギの歌壇制覇」と呼ばれるが、それには島木赤彦・齊藤茂吉・土屋文明の三人の役割が大きかった。ともに伊藤左千夫の弟子であるが、作風を異にしそれぞれ違う役割を果たした。その役割は、根岸派をまとめた伊藤左千夫の死(1913年・大正2年)の後に発揮された。
アララギの編集発行人という視点で見ると、伊藤左千夫の死後の雑誌の編集発行を古泉千樫が担当(会計・斎藤茂吉)したものの上手く行かず、斎藤茂吉が編集発行人となる。(「中村憲吉あて斎藤茂吉書簡」)
ところがこれは島木赤彦がすべてを投げうって上京するまでの「つなぎ」。1915年(大正4年)2月よりは島木赤彦が編集発行人となる。すでにアララギには、島木赤彦が率いる「比牟呂」が合流しておりアララギは会員制になるなど、巨大化しつつあった。
その島木赤彦は1926年(昭和元年)に死去。再び斎藤茂吉が編集発行人となったが、それは土屋文明が編集発行人となる1930年(昭和5年)までのつなぎである。
編集発行の中心人物の死は雑誌の発行にとってのひとつの危機である。その危機を、斎藤茂吉・島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明とつないでアララギは存続してきた。土屋文明は編集発行人を終戦まで続ける。
歌風の違う三人の見事なリレーである。それぞれが一派を構えられるほどの実力者だったから、アララギが巨大結社となっていったのも、ある意味必然だったのだろう。
実は「写生論」にも三人三様のものがあるのだが、それは次回。(続く)