大正から昭和初期にアララギが大集団となるにあたり、島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明という伊藤左千夫の三人の弟子が協力して活動したことと、その三人がそれぞれ異なった「写生論」と作風をもっていたことを述べてきた。
ではその後はどうなっただろうか。戦後の話である。終戦と同時に佐藤佐太郎は五味保義・吉田正俊とともにアララギ編集にあたった。編集発行人は五味保義。しかし、全体の号令は群馬県の土屋文明から出ていた。
当然、文明門下が前面に出てくる。選者も徐々に入れ替わり、麓門下・赤彦門下・茂吉門下の会員は後方にさがるか、アララギを去ることとなる。
すでに麓門下・赤彦門下・茂吉門下・文明門下といった割拠鼎立の時代は終わっていた。
またこの時期、アララギの地方誌が創刊される。関東の「新泉」・関西の「高槻」・東北の「群山」。また山口茂吉の「アザミ」・高田波吉の「川波」・結城哀草下の「山塊」・佐藤佐太郎の「歩道」など有力歌人の個人主宰誌も創刊された。
このように、アララギ本誌・自立したアララギ地方誌・有力歌人の主宰誌といった複雑な関係が現出した。会員の移動もあったであろう。今西幹一・長沢一作著「佐藤佐太郎」によれば、
「相互の力関係・守備範囲が安定し、それなりに出入りがあった人々の帰趨、所属が決定するまでには、(昭和)20年代いっぱいを要した。」
ということである。アララギという雑誌の名称は続いているが、内容的・人的にはかなりの変容があったようである。
短歌の総合誌を開くと「写生・写実」を掲げる結社の広告が目に付く。それぞれの「写生・写実」はリアリズムから象徴主義に近いものまでさまざまあろう。
このうち佐太郎短歌は「象徴主義に近い写実」と規定できると思う。岡井隆のいう「象徴的写実主義」とはこのような状況下で成立した。(終り)