岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「運河」392号 作品批評(斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論に学ぶ)、1

2016年03月10日 23時00分13秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
「運河」392号 作品批評(1)


 短歌は抒情詩であり文学である。日常生活の記録や報告、感想文ではない。このことを前提として批評文を書く。


 (アルバムを整理する歌)

 過去の写真の整理は、とりも直さず心の整理である。みずからの来し方を振り返っているのだろう。この自己を見詰める姿勢の上に詩が成立した。「追憶の心」という表現が気になるが、結句の表現が作者の心情をあらわしている。


 (倒産した工場の改装の歌)

 会社が倒産した。世の不景気の為である。おそらく建物には錆も顕れているだろう。だから侘しいのだ。そこに改装工事が始まった。倒産した会社のあとに、新たな会社が社屋を構えるのだろう。経済上のこととはいえ、栄枯盛衰を思わせる。社会詠のひとつのあり方だろう。前作が作者という人間を掘り下げているとすれば、この作品は社会を掘り下げていると言えよう。


(柿の木を様々に捥ぎ分ける歌)


 二句目と三句目のリズム感が心地よい。詩の条件のひとつにリズムがある。声に出せば声調である。声調は大らかでなだらかなものだけではない。スピード感やゴツゴツ感があってもよい。正岡子規の歌論にもあるが、斎藤茂吉は、「内的流転」を経た言葉を使えと言った。そこに作者の個性や独自性がある。また素材や内容によっても、リズム感(声調)は様々であるはずだ。


 (垣根の若竹を見る歌)

 若竹はみずみずしい。、生命力に満ちている。そこに作者は普遍性を感じた。それを作者一人が噛みしめているのも味わいがある。他の5首を読むと御子息が亡くなったようだが、そういう境遇だからこそ、感じられたものだろう。


 (秋まきが終わって朝の雨の音を聞く歌)

 労働歌である。秋蒔きは野菜だろうか。作物は何でもよい。農作業が一段落したところに安堵しているのだ、普通はうっとうしい朝の雨の音も、作者の充実した心には心地よいのだ。作物名を省略したところに、佐太郎の言った「単にして純」の妙がある。


 (80歳を越えた作者が田を見てまわる歌)

 八十歳を越えた作者。しかし愚痴を言わないのがいい。腰が痛い、肩が痛いと言うだけでは単なる愚痴だ。佐太郎の病床の歌、老境の歌を読めばわかること。初句と二句目に老いへの詠嘆がある。詠嘆は嘆きだが、泣きごとや愚痴、皮肉ではない。


 (以下続く)




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