「運河」392号 作品批評(1)
短歌は抒情詩であり文学である。日常生活の記録や報告、感想文ではない。このことを前提として批評文を書く。
(アルバムを整理する歌)
過去の写真の整理は、とりも直さず心の整理である。みずからの来し方を振り返っているのだろう。この自己を見詰める姿勢の上に詩が成立した。「追憶の心」という表現が気になるが、結句の表現が作者の心情をあらわしている。
(倒産した工場の改装の歌)
会社が倒産した。世の不景気の為である。おそらく建物には錆も顕れているだろう。だから侘しいのだ。そこに改装工事が始まった。倒産した会社のあとに、新たな会社が社屋を構えるのだろう。経済上のこととはいえ、栄枯盛衰を思わせる。社会詠のひとつのあり方だろう。前作が作者という人間を掘り下げているとすれば、この作品は社会を掘り下げていると言えよう。
(柿の木を様々に捥ぎ分ける歌)
二句目と三句目のリズム感が心地よい。詩の条件のひとつにリズムがある。声に出せば声調である。声調は大らかでなだらかなものだけではない。スピード感やゴツゴツ感があってもよい。正岡子規の歌論にもあるが、斎藤茂吉は、「内的流転」を経た言葉を使えと言った。そこに作者の個性や独自性がある。また素材や内容によっても、リズム感(声調)は様々であるはずだ。
(垣根の若竹を見る歌)
若竹はみずみずしい。、生命力に満ちている。そこに作者は普遍性を感じた。それを作者一人が噛みしめているのも味わいがある。他の5首を読むと御子息が亡くなったようだが、そういう境遇だからこそ、感じられたものだろう。
(秋まきが終わって朝の雨の音を聞く歌)
労働歌である。秋蒔きは野菜だろうか。作物は何でもよい。農作業が一段落したところに安堵しているのだ、普通はうっとうしい朝の雨の音も、作者の充実した心には心地よいのだ。作物名を省略したところに、佐太郎の言った「単にして純」の妙がある。
(80歳を越えた作者が田を見てまわる歌)
八十歳を越えた作者。しかし愚痴を言わないのがいい。腰が痛い、肩が痛いと言うだけでは単なる愚痴だ。佐太郎の病床の歌、老境の歌を読めばわかること。初句と二句目に老いへの詠嘆がある。詠嘆は嘆きだが、泣きごとや愚痴、皮肉ではない。
(以下続く)