「運河」392号 作品批評2
(バイクを飛ばす夕暮の歌)
声調が歯切れよくスピード感がある。下の句に実感があり、読者が作者とともにバイクに乗っている印象さえ浮かんでくる。「印象鮮明なるがよし」とは斎藤茂吉の言葉だ。
(眠っている母の手首の歌)
高齢の御母堂だろうか。手首の様に背負って来たものの大きさが感じられる。その母親への愛おしみが感じられる。現在のことを詠んでいるので、三句目は「細くして」が妥当だろう。古典文法を習得することも心がけたい。
(秋の墓参の歌)
秋の彼岸の墓参であろうか。誰の墓かは省略されている。これも「単にして純」だ。水道水ではなく井戸水を満たしたところに独特の味わいがある。死者への畏敬の念が感じられる。「たり」+「ぬ」。動作の継続をあらわす「たり」と完了の「ぬ」の連続で、動作が一連のものであると表現でき、作品に奥行きが出た。
(取り柄、肩書のない自分にやさしい秋空)
肩書きはともかく、人間である限り何の取り柄もないということはありえない。謙遜の美徳だが、肩肘張らずに生きてきた作者の生き様(いきよう)が伝わってくる。自己に対する愛おしみが感じられる。
(束縛も待つ人もいない我が家へ急ぐ歌)
作者は一人住まいなのだろうか。それを「一人居」と言わずに表現したことで独自性が出た。姿勢を正して生きてゆこうとする作者の意思が感じられる。
(いつみても若い夫の遺影の歌)
作者は若くして御夫君を亡くしたのだろう。以来ひとりで農業を続けてきた。ご夫君の遺影をおそらく日に幾度も見ることもあっただろう。みずからの生き方への矜持が窺える。
(生と死の境を生きる義弟の歌)
(風を聞き、光りを仰ぐ歌)
(雨のあとの川岸の草の歌)