「短歌研究」 2013年
先ず、2月号の「短歌時評」に注目した。執筆者は石川美南である。石川は「短歌研究」、角川「短歌年鑑」、「文芸春秋」の特集記事に注目している。これらの特集は、近現代短歌の秀歌を集めたものだ。「いずれの特集も、時代の流れと短歌史の流れを重ね合わせて再検討するという意味では共通している。」と石川は述べる。
その上で石川は「『読みの共同体』が形成できなくなるとすれば、確かに短歌は『もたなく』なるように思う。」という。僕個人の見解では、ライトヴァース、ニュウウェーヴなどの短歌とそれ以外の短歌では、読みの基準が異なっているように思う。「短歌は抒情詩である。」と佐藤佐太郎は言ったが、口語短歌であれ、文語短歌であれ、混合文体の短歌であれ、「詩」として成立しているかが、最も重要である。短歌が「詩」でなくなり、ただの言葉遊びになろとしたら、短歌は滅ぶ。
こういうことに関して、石川は次のように述べる。
「他ジャンル、あるいは短歌に触れたことのない層と交流を深める手段が、これまで短歌が積み上げてきた修辞の解体という方向性で良いのか、私は疑問を持つ。短歌を開いていくこととは、必ずしも『オープンな言語表現に近づけること』ではない。短歌というジャンルを本気で生き残らせたいならば、むしろ『クローズな言語表現としての旨みを、他ジャンルに対してどう提示していくか』が模索されるべきであり、現時点で、その方向に向かって努力している人は少ない。」
この指摘は、短歌にとって非常に重要なことだ。佐藤佐太郎の言うとおり、短歌は詩である。だが口語自由詩とは違う。僕が参加している「詩人の聲」というプロジェクトでは、「定型の強み」「文語の奥行」などが、詩人たちから言われる。
「短歌は文語を根底に持ち、その上で口語短歌の動向を見て行こう」と小島ゆかりが「現代短歌新聞」で述べたように、「短歌は詩ではあるが、口語自由詩とはちがう。どこがどう違うのか」ということを常に考えておくことが必要だろう。
次に、特集記事に注目した。
5月号、6月号と二月続けて「寺山修司と私」さらに6月号では「近藤芳美を再読する」。7月号では「没後30年 木俣修を再読する」。8月号は「若山牧水再読」、9月号は「没後60年 釋迢空を再読する」。さらに「今読み直す、戦後短歌」という特集もあった。
21世紀初頭の「短歌研究」の座談会で、「意外と大きい近代の磁場」などという特集があって、近代短歌は「古い」というトーンの企画があったのとは隔世の感がある。
近代短歌に学びながら「新しいものを追及する」といった模索が始まったようである。