僕が所属する「運河」誌の「作品批評」でとりあげられた一首。評価してくれたのはたしか、北陸地方のベテラン会員だったと記憶しているが、批評文の末尾に意外な言葉があった。
「稲架(はざ)・藁塚(わらづか)ともに農業が機械化した現在では見かけないものだが、おそらく作者の原風景なのであろう。」
どうやら過去の記憶を詠んだものだと解釈されたのだ。そう読んでもらっても勿論いいのだが、これは実景だった。
神奈川といえば京浜工業地帯・横浜のインターコンチネンタルホテル・みなとみらい・マリンタワー・横浜港などを連想するし、月々の出詠歌も都市の嘱目詠が多かったから無理もない。ただ、政令指定都市に住んでいても、中心街から30分ほど車をとばせば「都市近郊」、「農村風景」も珍しくない。農業県との違いは、広い平野部は開発されつくし都市再開発などがおこなわれているので、近郊に残る水田は機械のはいらない狭い谷戸田などが多いことだ。
僕はこういう光景が好きで、車出勤のときなど遠まわりし農道に車をとめて、30分ほど時間をつぶすこともある。まあ原風景といえば原風景だが、遠い昔のことではなくつい最近のことである。この作品を詠んだのは、2003年あたりだったから、21世紀の実景である。ここで気づいたことが二つほどある。
1、短歌作品は活字になった瞬間から作者の手を離れて独り歩きし始めるということ。5句31音と短いだけに、読者の想像にまかせるところが大きい。そこが散文や口語自由詩との違いのひとつだろう。
2、都市近郊の水田は狭いため機械化が進んでいない。というより機械化が無理なのである。それだけ一昔前の「農村風景」が残ることもありうるということ。意外な発見だった。
この一首を詠んだところの周辺では、春は道路沿いのユキヤナギがいっせいに咲く。車道に向かって溢れるように咲く。背後は雑木林だから、おそらく人間の手はほとんどはいっていないだろう。夏になると建設残土の山に雑草が生い茂る。墓石の保管場所もある。そこが都会に近いことを表しているが、「農村」「都市」の両方の嘱目詠が可能な地域に住んでいることが、一つの僥倖であることには違いない。
「夜の林檎」に収録した。