・心中といふ甘たるき語を発音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす・
「石泉」所収。1932年(昭和7年)作。岩波新書「斎藤茂吉歌集」162ページ。
茂吉の自註は「石泉・後記」「作歌40年」には見当たらない。佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」にもとりあげられていない。「写生・写実」の立場からはとりたてて秀歌と呼ぶものではないと、僕は思う。
一方、塚本邦雄はかなり詳しく批評している。
「既に愛欲から縁の遠い年齢になって行くといふ自嘲か。さにあらず、この毒舌の、言ひ放しに似た、あまりにも散文的な38音の大破調歌は、文体のみならず、こめられた思考も相当屈折してゐて、一度や二度読み下しただけでは、その面白みも真意もつかめまい。」(「茂吉秀歌・つゆじも~石泉」)そして次のような作品を抄出する。
・有島武郎氏なども美女と心中して二つの死体がぶらさがりけり・
・抱きつきたる死ぎはの構合(こうごう)をおもへばむらむらとなりて吾はぶちのめすべし・
「< 心中 >と呼ぶ行為、合意の二重自殺に批判的で、これを嫌悪するあまり、< 発音するさへいまいまし >いのか、その当時< 流行 >的に頻出した、このささやかなクーデターの、その底にある甘ったれた態度が許せなかったから、口に出して言ふのに抵抗を感じたのか、いづれにせよ、作者の語気は鋭い。」(「同書」)
「赤光」の「死にたまふ母」において慟哭し、「おひろ」「おくに」でおそらくはならぬ恋に嘆き、「葬り火」で患者の死に心を痛め、みずからを「狂人守」としか言えなかった茂吉にすれば、許せざる思いもあったことだろう。
時代は「昭和の恐慌」がいよいよ深刻になる時期である。先の見えない状況下にあったが、そのなかで人の命が失われていく。そのことにたいする「怒りに近い嘆き」であったかも知れない。しかしその怒りが社会に向くことは、茂吉の場合ついぞなかった。時代の諸相の一つであったのは確かだ。