「黄月」は佐藤佐太郎の第13歌集にして、遺歌集である。
この歌集は、他の歌集とかなり異なった趣きがある。佐太郎自身が、編んだ歌集と全く違う性格を持っている。
佐太郎は、怒りやすかったことで知られているが、その怒りを露骨に表現した作品を歌集に収録しなかった。
ところが「黄月」には、次にような作品がある。
・忘恩の徒の来ぬ卓に珈琲をのみて時ゆく午後の楽しさ・
・わがもとを去りし五人に従へるをみなご一人われは哀れむ・
・策略をしたる元凶は誰々と知りてその名を話題にもせず・
・ある人の行為をにくみとこしへにわが記憶より抹消せしむ・
・わがことにあらねどあはれ窮れば即ち詐るといふ言葉など・
自己の感情を露に表現しなかった佐太郎としては珍しい作品だ。
それに加えて、志満夫人による、「後記」と、梅崎保夫による「解説」が他の歌集とは、全くと言っていいほどの異色のものだ。
「後記」:「昭和58年、74歳から昭和62年77歳9か月をもって逝去するまでの全作歌を収めた。・・・・結果からすれば死に向かって急傾斜していった4年間であった。・・・年譜式に表わす次のようになる。昭和58年(1983年)74歳 3月古い会員長沢一作氏らが連帯退会をした。。」
「解説」:「『歩道』の古い同人達が連帯退会をしたことに関わる歌と察せられる(=「ある人」の歌、註・岩田)。このことでは嘗て味わったことのない苦悩の日々を送ったと思われるので、激しい語調の歌も見られるが、この一首はそれらを濾過してなった作者の人柄が滲み出た作品である。」
これでは「歩道」を退会して「運河」を設立した、長沢一作、山内照夫、川島喜代詩、田中子之吉、菅原峻らの行動が、佐太郎の「死を早めた」というばかりの記述だ。しかも「全作歌を収録」というのが、他の歌集とは全く違う。
佐太郎が怒りやすかったことは、志満夫人の短歌作品、「佐藤佐太郎百首」(短歌新聞社刊)の家族による解説でも明らかだ。「歩道」には私的生活の争いを、露わに表現した作品もあったと聞く。だが佐太郎はその作品を歌集には収録しなかった。
全作品を集録するなど、佐太郎自信が編集していれば、ありえなかったことだ。
しかも「運河」を創刊するに当たって、さきの5人が佐太郎に挨拶に行ったときには、佐太郎は快諾したと聞く。長沢、田中、の証言。
それによれば、「出来れば志満夫人のいるところで話したかったが、志満夫人は不在だった」「志満夫人が帰ってから、かなり激しい夫婦喧嘩があった」とも聞いた。
おそらく志満夫人は、5人の退会を快く思わなかったのだろう。佐太郎研究者だった、今西幹一氏と長沢一作氏の話で確認されたという。
「黄月」のあの歌は、佐太郎の志満夫人への言い訳だった。(長沢一作)ということだ。
また「運河」創刊号には「歩道」からの攻撃が激しかった、との記述がある。それがエスカレートした場合は、鵜飼康東氏が何かを「運河」誌上に書く手筈もついていたという。
思うに「黄月」は、志満夫人の意向を強く受けた、ある種「怨念の歌集」である。佐太郎らしからぬ歌集とも言えよう。
ところが後日、「星座」の尾崎左永子主筆のもとへ、志満夫人から「佐太郎のあとを継ぐのは貴方です」という書簡が届いたということだ。尾崎左永子は「五人に従えるおみなご」であるとも聞いた。
この様に「黄月」は、佐太郎らしからぬ歌集であるが、他方、佐太郎も志満夫人も「神ならぬ人間だった」と考えれば納得がいく。