・たか野山新別所なる夕闇に蛍は飛べり有るか無きかに・
「たかはら」所収。1930年(昭和5年)作。
先ずは齊藤茂吉の自註から。
「昭和5年8月4日から、高野山の清浄心院で、第6回アララギ安居会を開いたときの歌である。・・・(会の終わった日の)そのあけがた、月のしづむ光を浴びつつ会員の数名と寝てゐたが、何ともいへぬ光であった。」(「たかはら・後記」)
佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」、塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで・百首」のいずれもとりあげていない。どちらかというと地味な作品である。
上の句は場所(where)と時間(when)。下の句「有るか無きかに」が(how)である。この下の句がなければただの叙述であるが、これがあるために詩が成立した。こういう表現は、おそらく茂吉独特の捉え方だと思う。長塚節や伊藤左千夫、島木赤彦だったらもっとはっきり表現するだろうし、「有るか無きかに」では表現が曖昧だというかも知れない。
しかし、思うにこういう微妙なところを微妙に表現をすることによって、かえって余韻が出た。伊藤左千夫から「空想派」と呼ばれ、それを払拭するように努めたと自ら書き残しているが、その「空想派」としての資質は後年まで続いたようである。
この作品の直前に長男・斎藤茂太5歳の記念に出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)巡りの作品群がある。そしてこの高野山。さきに紹介した妙高高原は戸隠山の南山麓にあたる。また蔵王山の歌もよく知られている。
斎藤茂吉の作品にどこか「祈り」のような雰囲気が漂い、「汎神論的」と言われる所以は、茂吉が敬謙な仏教徒であったことと無関係ではないだろうが、山岳宗教の地にこころ魅かれる傾向が強いところからもそれが明らかであるとは言えまいか。またそれが、土屋文明と斎藤茂吉の資質の違いであろう。
ただ「幻想歌」という面では、佐藤佐太郎の「翅音のない蝶」や「階段の人影」の歌の方が印象鮮明である。のちに佐太郎が引き継いでいったものの原初的な作品と考えると、また違った読み方もできる。