僕が短歌を詠み始めたのは1999年だから10年と少し。それまでは短歌にも俳句にも、まして演劇にも興味はなかった。だから、寺山修司という人については全く予備知識がなかった。短歌を詠み始めるまで。
初めて買った歌集、ほとんど同時だったのだが、「佐藤佐太郎秀歌集」・尾崎左永子著「炎環」のほか数冊あるなかに「寺山修司・青春歌集」があった。人から勧められたのだが面白かった。何より若々しいと感じた。中井英夫の「あとがき」も面白かった。中条ふみ子・寺山修司が世に出る舞台裏が書かれていた。
岡井隆によると寺山修司の作品は「うそ八百」(「私の戦後短歌史」)だそうだが「詩としての面白さを増すなら、フィクションも許容する」。これはそれまでの短歌にはなかったし、まさに「前衛」だった所以だろう。
フィクションがわざとらしくなく一種のドラマ性がある。のちに寺山修司は演劇に活動の場を移すが、作歌・演出家・脚本家としての資質があったからこそ、短歌にフィクションを導入してもわざとらしくない。ストーリー性があるといってもいい。
また言葉の歯切れがよい。アララギの「短歌の調べ説」とは正反対だが、響きは強くまたテンポがいい。それでいて決して軽くはない。俳句的である。岡井隆は若いころ、「短歌は調べを重視したが、俳句はそれを捨てムチのように言葉を使う。この俳句の手法を短歌に回収できないだろうか」とも述べているが、寺山修司からの影響だろうか。
僕の作品が寺山修司に似ていると二度言われたことがある。一度目は「フィクション性」であり、非難だった。二度目は「言葉の歯切れのよさ」であり、称賛だった。知らず知らず影響を受けていたのだろう。一度目は10年前、二度目は6年前。今は少し違った歌境に到達できているだろうか。
寺山作品の特徴の3つ目は、「喩」を使わず難解歌がないこと。口語で詠まれているような錯覚に陥るが文語を使っている。それでいて古風なところがない。同じ「前衛短歌」でもそこが、岡井隆・塚本邦雄との違いだろう。愛唱される理由だろう。
ある酒の席で偶然隣になった人との会話でなぜか忘れたが、僕が寺山修司の短歌の上の句を口にした。「マッチ擦るそのつかのまに霧深し」すると、
「身捨つるほどの祖国はありや」
と思わず唱和してしまった。相手は満面の笑顔である。ここまで愛唱される作品もめったにないだろう。僕より一回りほど年長の人だった。おそらくその人の青春時代の記憶と重なる一首なのだろう。
だからこその「青春歌集」なのだが、歌集の後半になると乱調気味になってくる。やがて寺山修司は演劇の分野に移って行くが、その前兆を感じさせる作品が並ぶ。
俳句から短歌・自由詩・散文そして演劇。寺山修司にとって短歌はひとつの通過点だったのだろう。おそらくそれを一番自覚していたのは、本人だったに違いない。