おなじみギリシャ神話の話。美少年ナルシスは川面に映った自分の顔にほれぼれしているうちに、川に落ちて溺死してしまった。そのあとに水仙の花がポカリと咲いたという。「きっとナルシスは水仙の花になったのね。」
・この話を詠み込んで、サ行の音を活かしてみた。(サ行の音5つ)
・もうひとつ。水仙を活けるなら、陶器・磁器・金属性でなくガラスを自らの意思で選ぶ、という美意識をあらわした。
歌会では自分に批評の順番がまわってきた。
「ナルシス伝説を知らない人には伝わらないのではないか。」「<末裔>という表現が適切だろうか。」
それと「サ行の音」「ガラスを選ぶ、という行為の意味」をはなした。
ところが先生の批評は思わぬところから。
「<活ける>は口語で文語は<活くる>。文法上の間違いです。私はそういう事はしないけれど、<活ける>の方が調べはいいから、作者の責任でこういうことはありうる。」
「<サ行の音の活用>、<ガラスを選ぶ>というのは成功している。けれど、こういった、小器用な歌はそれ以上でも、それ以下でもない。」
だった。
普通ならガーンとなるところだが、その日に限ってほかに深刻な相談事があったので、休み時間に僕が作者であることを打ち明けたら、
「これいい歌です。」・・・???。
歌会ってこういうことがあるから面白い。歌集では巻頭4首をのぞく、本文の最初のページに掲載した。
「作者の責任として」。この言葉の意味するものと重さが分かるのは、ずっとあとのことだったけれど。
口語も使い方次第という茂吉や佐太郎の言った事を実行に移そうと決意したは、この日だった。
追記:
歌集「夜の林檎」出版のあと100通近いハガキや手紙を頂いて、その半分以上にこの歌が書いてあったのが今でも忘れられない。とすると、あの日のあの、先生の言葉は何だったのかと時々思う。
