・伏流となりて石のみ荒き谷松山のまに長く傾斜す・
「帰潮」所収。1949年(昭和24年)作。
「谷」とあるからは、川の上流だろうか。本来なら音をたてて水が流れているところに水がない。「伏流水」となっているのだ。
石と砂だけの「枯れ川」。それだけでも何か暗示的な印象が結ばれる。この作品が巧みなのは、その「乾いた川」にしっかりと焦点をあて、まるでその「枯れ川」の光景が目に浮かぶようなところにある。そしてそれ以外の余剰は一切排除されている。ここも重要だ。
「長く雨の降らない夏の渇水期。おそらく白い石や砂が続いている。太陽の光が強くさしている。」
そんな事はどこにも書かれていない。だが、そこまで想像が膨らむ。そこに詩があるのだ。短歌という短詩形式は、必要な言葉を過不足なく定型に収めなければならない。
それに加えて重要なことを、この作品は教えてくれる。それはイメージの広がりということ。定型に必要な言葉が過不足なく収められていて、さらにその言葉に広がりがある。そこに秀歌の条件のようなものがあるのではないだろうか。
それは叙景歌の魅力と難しさではあるまいか、と僕は思う。
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