「運河」377号 作品批評
斎藤茂吉の歌論に次のような一節がある。
「短歌の形式は『詠嘆』の形式である。抒情詩である。西洋の言葉を借りていへば『リイド』と見るべきものである。・・・そして言語の表象的要素と音楽的要素、リップスのいふ"formale u.musikalische Elmente der Sprachsymblik"が混然として融合し、一首を透して作者の心持が染々と味はれる底のものでなければなたぬ。」(「童馬漫後」10)
そこで作品批評には、抒情詩としての普遍性を、批評の軸とした。
10月号の締切は7月であったためか、季節を詠んだ自然詠に優れたものが多かったように思う。
(雪柳に潜む雨蛙の歌)
下の句に主観がはいっているが、その主観が直接こころに響いてくるのは、上の句の情景描写が的確だからだろう。初夏の景を見事に切りとっている。
(残菜置き場の南瓜の花の歌)
残菜捨て場という植物にとっては劣悪な環境に芽生えた南瓜。植物の生命力は驚くばかりである。特殊な場所ならではの発見がある。
(黒蜻蛉が蔓バラの花に飛ぶ歌)
黒トンボとつるバラの組み合わせが面白い。素材の選び方の善し悪しも秀歌の条件だろうか。初夏の景が見事に浮かぶ。
(午後の遊歩道に揺れる桜青葉の歌)
上の句の表現は、作者の心理を暗示しているようだ。そこに明るい印象が加わって、独特にの自然詠となった。
(立春過ぎの水平線の歌)
雄大な景である。季節が限定されて、初夏の情感が表現できた。印象がシャープで、何よりも美しい。
(湿った風の中のミズトラノオの歌)
一首の構成は前の作品と同じ。上の句にやや陰影があり、それが作者の心情が暗示されているようである。そして下の句で印象鮮やかな景が詠まれている。上の句から下の句へと読んでゆくとハットさせられる作品だ。
(河原の茅花の歌)
上の句に季節感と場が明示されており、下の句の視角的美しさを際立たせている。下の句が作品の中心だろうが、聴覚も刺激される作品である。
時節がら地方色のある作品もあった。季節の変わり目は、人間の生活の転機でもある。
(酒蔵に酒を仕込む歌)
酒を仕込み季節となった。その作業を具体的に表現して、印象鮮明な上の句の表現となった。工夫の余地があるとすれば下の句だろう。
(「結」をした水田に田植え機の機械音が響く歌)
「結」は農繁期に、同じ集落の農家が協同で一軒の農作業を手伝うもの。その共同体の繋がりが消え、今は機械で各自が田植えをする。地方色を表わすとともに、日本の原風景が失われてゆくという社会詠とも言えよう。
何やらキナ臭い動きのある昨今だが、そういう時勢に対する社会詠もあった。
(初孫の男の子に戦争させまいという歌)
こうした素材は、とかくスローガン、新聞の見出し的になるものだが、上の句、下の句とも自分に引き付けて詠うことで、抒情詩として成立した。戦争にいかなる大義があろうとも人を殺すことに変わりない。そういう戦争を嫌うのは、人間の自然な感情であって、反戦歌は抒情詩の素材たりうる。反対に戦争を煽るのにつながりかねないもいのは抒情詩の素材とは成り得ないと考える。
季節の変わり目は、自分を見つめ直す時期でもある。境涯詠にも見るものがあった。
(退院の目途の立たぬまま若葉の香を感じる歌)
上の句の表現はうっかりすると病人の愚痴になり易い。しかし下の句の明るい情景描写がそれを打ち消した。作者が自分を鼓舞する心情も伝わってくる。
(炊き上がる飯を感謝しつつ今日も生きようという歌)
何と言っても下の句が効いている。上の句に家事のことを読みこんだのも一首が無理なく、自然な表現になるはたらきをしている。これは諦念である。諦めではなく人生を達観している趣き。嫌みのないのがいい。
残り、アトランダムに心に残った作品を書き出す。
(ホタルブクロの花蜂の来る歌)
情景をよく見て、丁寧に表現しようとする姿勢が好ましい。
(崩れた石垣にスミレが咲く歌)
植物の生命力の強さを捉えた。背景と植物の様態が、独特の世界を表現している。
(花時を過ぎた水芭蕉を分水嶺に見る歌)
季節の移ろいと、場がマッチしている。何よりも景が浮かぶ。
(不用意に答えたことを顧みる歌)
対人関係の難しさを、自己の所作と絡めて表現した。自省の念が強く伝わってくる作品である。