観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月から1910年(明治43年)4月までの毎月1回森鴎外邸内で行われた歌会。森歐外邸の「観潮楼」に様々な歌人が招かれた。
与謝野鉄幹・伊藤左千夫・佐佐木信綱をはじめ、平野万里・吉井勇・石川啄木・北原白秋・上田敏(以上「新詩社」)、長塚節・古泉千樫・斎藤茂吉(以上「アララギ」)と多彩な顔ぶれ。
森歐外本人の言うところによれば、「新詩社とアララギを近づけたかった」ということ。短歌史上の意義としては、「西欧詩の発想を短歌に採り入れることで新しい方向を示した」といわれる。ここに明治・大正の短歌史の状況がかいま見えると僕は思う。
明治の知識人の基礎的教養としては漢籍が挙げられる。
正岡子規は7歳で「孟子」の素読をし、8歳で漢学を学び、11歳で五言絶句の漢詩を作った。伊藤左千夫は小学校卒業後14歳で漢籍を学び司馬遷の「史記」や屈原の漢詩に夢中になっていた。
正岡子規が「歌詠みに与ふる書」のなかで、
「西洋には詩といふものがあるやらないやらそれも分からぬ文盲浅学、まして小説や院本も、和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば、定めて目を剥いて驚き申すべく候。」(一部読み下し)
と述べたのは有名である。しかし、正岡子規が西洋の詩を研究した目立った痕跡はない。伊藤左千夫もしかりである。
学ぶ機会はあった。「若菜集」の出版から「新体詩抄」の出版の時期(1879年から1882年)、訳詩集「於母影」が世に出た時期(1889年)である。
仮にこれを1期・2期としよう。
その1期。正岡子規は自由民権運動に夢中になり、伊藤左千夫は例の「建白書」を政府に出し、明治法律学校に入学し政治家をめざしていた。
続く2期。正岡子規は「俳句分類」を著わすことを決意し、喀血もしている。伊藤左千夫は墨田区で牛乳搾乳業を始めたばかり。ともに詩を研究する余裕はなかっただろう。
この時期、斎藤茂吉は25歳から28歳の多感な時期だった。(続く)