岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

心の新鮮さということ(3)

2013年03月09日 23時59分59秒 | 作歌日誌
H氏の言葉「ものごとの本質を捉える」「自分に嘘をつかない」。は僕にとって、一つの宿題の様になった。

 歌会で「自分の言葉で歌っていない」との批評をされることがある。自分では精一杯に自分の言葉で、独自性を出そうと思っているのだけれど、それが却っていけないのかも知れない。或いは、自分で自分のことがちっとも分かっていないということなのだろうか。

 そんなふうに自問自答を繰り返しているとき、大岡信の言葉に出会った。

 大岡氏によれば「短歌や俳句は暗示の文学」だということ。全てを言わず、ほのめかすということだ。

 又、岡井隆によれば「短歌は韻文の極致」だそうである。

 多くを言わずに表現をする。しかしその背景には、広い見識と教養が必要なのだろうか。それともその人が生きて来た何十年かの歩みの中で育まれてきた世界観とでもいうものだろうか。

 ちょうど何の折りが合って、土岐善麿の寄贈図書を母校、早稲田大学の図書館で見たことがある。そこには、経済学、歴史、政治学、日本文学、中国文学、漢籍といった書物が勢揃いしている。親友であった石川啄木に関する研究書も多かった。

 佐藤佐太郎は「歌人が短歌に関する本ばかり読むのは『近親結婚』のようなものだ」という趣旨のことを書き残している。

 短歌が文学である限り、そういった「短歌以外の知識、教養」が必要なのだろう。
       
                                (終わり)




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