日常

学ぶことや世界や自我や年齢や捨てること失うことに関する一考察

2008-11-01 02:05:12 | 考え
途中まで過去に書いていたことがあって、なんとなく途中でやめてた文章というか考察があるのです。このブログにも書き込んでくれるRym氏とIs氏のブログに書いてあった文章に反応して、わしも途中まで8割くらいまで書いていたのを少し補足して載せてみようかと思ふ。

それは、『学ぶことや世界や自我や年齢や捨てること失うことに関する一考察』なのです。


■学ぶこと、勉強、学問

小学生時代から、とにかくわけもなく勉強させられますね。学問と言うより勉強。なんか大人とか教師とかにわけもわからず急き立てられるもの。それが勉強。わしは運よく、両親から『勉強しろー』と一度も言われたことない(今思えばそういう教育哲学だったんだろうと思うし、そのことはすごく尊敬して感謝してる)。そのおかげで、自分は学問とか学ぶことを自分で発見して自分で掴んでくる茨の道を歩いてきたという自負があったりする。

中学~高校時代、教師にとってはかなり面倒くさい生徒だったと思うのです。常に、『なんでこんなの勉強しないといけないんですか!』って一番牙むいて反抗してたから。
わしは、中学でも高校でも、最初の3ヶ月くらい全部使って、『何故国語を勉強するのか』『何故数学を勉強するのか』・・・という思索とか議論とか、そういうのを深く考えさせるべきだと思う。これは今でも本気でそう思ってる。

だって、自分と結びつきがないものって興味ないし、面白くないし、理解できない。これはしょうがない。自分の過去を振り返ってもよくわかる。自我が強い時期だからなおさらで、世界と自我がどこで接するのか、その接点が全然わからんのです。
数学とか国語とか英語とか、正直なんでこんなのやらんといかんのか全く分からんかった。
だから反抗してた。
でも、わしは文句ばっかり言ってたわけでもなく、『きっとその教師は答えられないんだろう。俺は時間かかっても掴んでやる!』と思って、ずっとその理由を考えていた。静かにコツコツと、誰もそんなこと考えてないかもしれんと思いながらも、その作業はすごく孤独だった気もしたけれど、自分で納得したことやろうと思って、ずっと、何故勉強しないといかんのか、考えてた。

それに対して、ある有限な一定の解答があるわけではなく、自分の中にその必然性が沸き起こってくることが大事なんだと最終的に思うようになったんです。問い自体が少しずれていたような気がした。解答できない問いを立ててしまったら、原理上その問いは解けない。メビウスの輪でスタートに戻る。ドツボにはまる。『人間はなぜ生きるのか』とかいうのも、同じ種類の問いな気がする。

言葉では表現しにくいですが、愛や恋とかってすごく不可思議で意味不明な概念ですよね。理論ではよくわからん。理論では解けない謎。なんであんなに感情を乱されたり、行動や生活に影響を受けたりするのか。それは理論とか論理とかにとらわれると出れなくなる、メビウスの輪。

ただ、確かな感覚としては、恋とか愛って、あるとき、降って湧いたように自分の核となる何かに衝突して融合して、密接につながってくるのだと思う。そういうのを愛とか恋と呼ぶのだと思う(fall in love)。
自分の中でチャンネルがフルオープンになって、その世界に向けて自分全てが開放されてしまうこと。
そういう愛とか恋の感覚に近いものが、本来の学問とか学ぶことなんだと思う。それならなんとなく自分にもイメージ沸くのです。
もう止むに止まれない感覚。愛さざるにはいれない!学ばざるにいれない!表現せざるにはいれない!もうそれしか開放させるチャンネルがなくてどうしようもない!って感覚。心奪われる感覚。自分の心が何故か自分のものではなく、自分一つの脳みそでは制御不能な感覚。 それはある日、唐突に降って湧いてくる。虫の知らせもヘチマもあったもんじゃなくて、唐突に。そこを逃さず、恥ずかしがらず、グイッと掴めるか、そこがポイントだと思ってるんです。


■果てしなく沸く概念やイメーヂ

わしは熊本で生まれました。
目をつぶって空想すると、色んな概念や抽象化されたものが散逸して、脳の中を駆け巡る。
中学の社会の時間の十分くらいだけでも、脳内こんな感じだと思う。

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熊本はいい。阿蘇は綺麗。阿蘇の空気は美味しい。黒川温泉はよかった。熊本の海は綺麗だ。昔、水俣病というものがあったらしい。水俣病は悲惨だ。水俣病の患者さんは可哀想だ。国も認可しないらしい。水俣の海は水銀で汚れてしまったらしい。でも、水俣病は何か政治的な色々な人の思惑がからまりあって近づきにくい。石牟礼道子さんという人が『苦海浄土』という本を書いているらしい。原田正純という人が水俣病に対して怒っているらしい。同じ医者でも意見が違うものらしい。水俣病は問題が複雑すぎて近寄りがたい。近寄らないでおこう。触らぬ神に祟りなし。水俣は熊本。世界ではミナマタ MINAMATAと呼ばれている。他にそういう街あるかなぁ。ヒロシマ HIROSHIMA、ナガサキ NAGASAKI。それは戦争。核戦争。殺し合い。人間の殺し合い。人間は殺しあう。でも、人間は助け合う。それは愛。人間は協力し合う。でも、人間は殺しあう。人は人を殺し、人は死ぬ。人は動物を殺し生きる。水俣病でも人は死んだ。戦争でも死んだ。交通事故でも死んだ。普通に生きてても普通に死んだ。死ぬのに生きて、生きてるから死ぬ。今は何の因果か生きていて、学校に通っている。学校では勉強しろといわれる。数学・国語・英語・社会・理科・・・・この世には勉強しないといけないことが多すぎる。友達と話してるほうが楽しい。友達と無限の時間の中で遊んでいる方が楽しい。学校に行くとわけもなく勉強をさせられる。歴史の教科書でも暇つぶしに見てみよう。実感が沸くのを探してみる。ミナマタの写真も載っている。先生は歯切れが悪い話し方をする。少し自分と世界がつながりかけようとしたが、それは分断された。教科書に水俣病の子供とお風呂に入っているお母さんの写真が載っている。悲惨なイメージしかなかったけど、親子の愛の形が載っている写真だ。この写真家は・・ゆ・う・じ・ん・す・み・す・・。・外人が撮ってるのか。覚えられない、忘れた。何故かよくわからんけど、まあいい。学校の勉強は退屈だ。人間の話のはずなのに人間臭さがまったくない。血とか熱を感じない。全然面白くない。何の勉強してるのか全くわからん。全く面白くない。何故こんなことやらないといけないんだろうか。ああ、面白くない。でも、あの子はやっぱりかわいいなぁ。笑うとかわいいなぁ。あの人はなんかうまくやっていく自信ないなぁ。攻撃的で怖いなぁ。でも、表面ではうまく付き合わないといかんなぁ。人付き合い大変だなぁ。

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まあこんな感じでしょうか。ほんの十分程度でも脳内は目まぐるしくこんな感じだと思う。
授業が退屈すぎて、校庭とか空とか見ながらこんなことばっかり考えてた。
おそらく、少しでも自分が実感として感じ取れるもの、世界と自我との接点を探していたんだと思う。
でも、それを自分ひとりで掴むのは相当に途方もなく難しい気もした。
未だに難しいと思ってる。



■世界にある色んなものごと

ただ、色んなこと考えながら、何故勉強しなきゃならんのかとか、学問とか知恵とか知識とか本とか書物とか文学とか哲学とか芸術とか映像とか舞踊とか建築とか・・。それぞれの存在理由、何が目的で何がしたくて、自分とどういう関係性をもって存在しているのかが全くわからないまま、でもずっと考えながら生活していた。自分なりに納得できる塩梅、居心地よく感じる塩梅を探しつつ。

ある日、チャンネルが空いた。

人間、芸術、写真、歴史、風土、人生、学問、色んなものが同時に一体になってつながった瞬間があった。
それは大きい全体性を伴うもので、その全体性の中には、確固とした独立した色々な部分がごちゃごちゃと、まるで混沌のように存在していたのです。

それは自分→出身地熊本→緑・水・山・ファッション・文化などの正の歴史→水俣・ハンセン病の負の歴史→過去・現在・未来→ユージンスミスや石牟礼道子やセバスチャン・サルガドやピカソや岡本太郎・・の表現者→芸術や美→生活の中に潜む美→白洲正子→美しいと思うこと→世界から感じること→世界から知ること→学び、問い続けること→学問→主体は自分
こんな単純な矢印で二次元では表現しにくいですが、この世界を形成しておる色んな概念が複雑に相互作用しあって全体を形作っているのが、自分というものを中心に感じることができたんです。自分以外の全ての世界へのチャンネルが開いたとでも表現すればいいんでしょうか。

なんか、その瞬間から学生時代に果てしなく勉強するようになった気がするんです。勉強と言うより学問。とにかく何かを深く味わいつくす営みとでも言うのでしょうか。その対象と自分が一体となるまで、知り尽くすとでもいうのでしょうか。男女の関係と似ているかもしれません。

小学生くらいから根本を問い続けた末に、とにかくそういう世界に行ったのです。果てしなく広大に無限に自分の中に広がっている世界と、果てしなく広大に無限に自分の外に広がっている世界と。


■食事と排泄 揺らぎ

学び、学び、吸収しまくる時期というのが人間にはあります。
でも、それだけでは自我が肥大する。自意識が過剰になる。
そうなると、ある周期で自我を全部捨てていかないといけないように感じています。
今度は全て全て自我を捨てまくって、何もなくなる状況にする。無にする。でも、もちろん自分の肉体や精神は残るわけで、それが自分の幹となる核なのだと思います。自我と世界が一体化するくらい、自我をなくす。それは、もう自分は大自然に生かされているとか、もう自分は死んでいてこれは仮の姿というような感覚?全ての境界がない感覚。一期は夢よ。という感覚。生まれてての赤ん坊の感覚。

そして、人間は、ある芯を中心としてユラリユラリと揺らいでいると思うのです。揺らぎは、わしが好きな雑誌である風の旅人でも、何度も手をかえ品をかえ表現されてきた概念。揺らぐという感覚と、グラグラぶれるというのは全然違います。揺らぐというのは、自分の核となる幹をしっかり確立して、そこを中心に外界の影響を受けつつ、同時に受け流しながら揺らいでいる感覚です。炎が揺らめく感じです。一定ではなく、非常に不安定で危ういバランスなのです。

そういう意味で、人間は世界から吸収しまくり自我を固める時期と、世界に放出して自我をなくしていく時期というものが、揺ら揺らと揺らぎながら交互にあるはずなんだと思うんです。

つい先日まで、全てわしは得たものを捨てまくっていた。そして自分の感情とか思いとかを裸にしていた。そして、最近はジャンルにとらわれず本能に従って世界から色んなものを得ている。短いスパンでもこういうことを繰り返している。得たり捨てたり、得たり捨てたり・・・。《朝起きる→食う→排泄する→寝る→起きる。それが一日。》みたいなものと同じ。意味を超えたとこにある、ぐるぐるしたサイクル。


人間は、食べ物を喰らいます。そしてそれを血とし肉とする。自我が強いときは血となり肉となる部分にしか興味がないのかもしれない。どんな知識を得たんだろう。どんな得をしたんだろう、と。
でも、本当はそこから排泄していくことにも大きな意味がある。自分から排泄されるもの、捨てるもの、自分を一度は通過していったもの、それを思うことは少し切ないし悲しいのだけれど、人間は口と肛門で穴があいた、タダの筒のようなものと考えれば、それは必然の概念。口から胃から腸から肛門にかけての経路は、自分の内部であるようで、外界なのですし。世界とか外界の境界って、実は曖昧。
自分と世界の境界って曖昧。
でも、自我を肥大させると、すごく境界は明瞭になる。
そして、世界から自分は分断され、ひどく孤独な状態になる。


■人生 30年という時間

現在、齢が30近辺となりました。人間の人生90年と考えれば、このサイクルがあと2回くるはず。60歳と90歳。
それまでに死んだらショウガナイ。人の命は儚いものだし予測できないものだから、それはショウガナイ。
30歳までは色んなものを吸収しまくり自我を肥大させ続けた30年間だったような気もするけれど、今から30年はその自我をなくす作業に入ろうと思っている。
それは、まるで世界に溶けていくような営みです。
このことは、30年じゃなくて10年単位で自分の人生を考えてもそれなりに面白いと思う。でも、今は30歳(厳密にはまだ29歳だけど)という単位で物事を考えているのです。


■呼応

なんか荒削りな文章ではあるんですが、Rym氏も30才近くになり色んなことを思索しているようで、その辺がうまく同期してしまったので、これも一つの運命かと思い、この荒削りな文章をアップしてみた。基本的には同じ事を違う方向から思って感じているんだと思う。

ま、こうやって色々考えてみるのも人生の楽しみであり、味わい。正解なんてどこにも、何にもないから。問いを立てるのは自由なんだけど、正解はなくて問いに立ち向かうプロセスだけがある。

自分と、共鳴したり呼応したりするモノやヒトたちを頼りに、羅針盤もなくウロウロと彷徨っているんでしょう。そのプロセスこそが人生の味わい?


そんなことを考えて感じた果てに、自分と呼応するものや共鳴するモノやヒトと、既存のジャンルとか縦割りとか所属とかの表層的なものを超えて、根っこの本質的な部分で互いに呼応できればいいな、と密かに思っています。

8 コメント

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自我、学問、アラサ-… (Is)
2008-11-01 01:03:10
…、なんか、いろいろ連鎖して、共鳴して…、って感じだねー。
同時多発的に?、相互に影響して?
(そいえば、ミスチルの歌詞って、「連なる」系の歌詞、多い?
タガタメで「僕らは連鎖する生き物だよ」
彩りで、「まわりまわりまわりまわって」
…他にもあるかしら?)

「勉強」と「学問」って、そういえば、
かなりイメージ違うね。
つくづく、小・中・高・大って訳語がいけないのかな?…西周か福沢諭吉あたりのせいかな?
schoolは、型にはめる。
universityは、宇宙なんだね。

>人間は口と肛門で穴があいた、タダの筒のようなものと考えれば、それは必然の概念
…、森岡正博『無痛文明論』の自我論も、管とか筒とか、自分は何か伝達するような存在で、それ以上でも以下でもない、そんなイメージを描いてましたね。

ぼくも最近「アラサー」なんで、
ちょっと、いろいろ考えるには適当な時期かなと感じてます。なにか計画立てるには、一応の過去もあるし、未来もまだ、それなりに使えそうだしで、面白いよねー。

>わしは運よく、両親から勉強しろーと一度も言われたことない(今思えばそういう教育哲学だったんだろうと思うし、そのことはすごく尊敬して感謝してる)
…この「勉強しろって言われたことない」問題は、そろそろちゃんと検証する必要がありますな(笑)。
うちもそうでした。
母親は、何も言わないくせに、隠れて(別に隠れてないか!?)、机でコソコソ(だから、コソコソしてないって!?)本読んだりしてるもんだから、…そりゃ、子ども心に、何か楽しいことしてるって思うでしょ。(僕はこれを「大人のウレしい背中」とよんでいます。伝染は背中から起こる!)

…自我、学問、アラサ-…、話は尽きないですな~。

追伸:トラックバックはもちのろんで、OK?だよね?RYM?

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櫻井和寿のラブソングの奥深さ (いなば)
2008-11-01 08:27:25
連鎖・共鳴してますねー。
たぶん、視点を引いてみたり近づいてみたりし続けると、ある瞬間、もっともいい距離感になって、そのときだけ部分と全体が一体化してみえる瞬間があるんでしょうな・

確かに櫻井和寿の歌詞は「連なる」系多いかも。でも、歌詞そのものってのは意外に少ないと思うのよ。でも、ズバリそういう歌詞って少ないけど、何故かそういうイメージが残ってしまう。
ラブソングも、なんか単純に男と女、彼女と彼氏って関係性じゃなくて、もっと広く人間関係とか、ヒトとモノでもいいんだけど、もっと広く置き換えることができる歌詞が多い。それは普遍を探っているからこそなんだろうけど。だから、そういう連なる感じを印象として持つんだろうね。
単純で表面をなぞるlove songではないのです!


・・・・・・・・・・・
schoolは、型にはめる。
universityは、宇宙なんだね。
・・・・・・・・・・・
確かにそうだね。宇宙って言われると、確かに学ぶことは宇宙旅すするように果てしないし、方角すらよくわからんもんだよね。上なのか下なのか、方向感覚がない空間。


森岡正博さん、懐かしいなぁ。東大学生時代議論したことあるんだけど、なんか書いてることは良かったのに実際話すとすごく頼りなくて、なんとなくナヨナヨしてたなぁ笑
別にマッチョとまでいかなくていいんだけど、少し男性性見せて欲しかった。女性性をかぶって逃げてただけだったのか?


「アラサー」って言葉だけ流行ってるけど、アラフォーもしかり、何か一まとめとして考えるチャンスなんだろうね。そういう十年とかの区切りないと、人間ってなかなか過去を振り返らないもんだから。

「大人のウレしい背中」っていいね!
俺もうれしい背中を次の世代に見せていかないと。楽しくわくわくさせる感覚ね。びっくりまんとかファミコンとかに昔感じていた感情や思いと同じ。
自我とか学問とか永遠に追いかけたいテーマです。

トラックバック、やってみたけどうまくいかんかった。イマイチまだシステムよくわかっとらんのよね笑

わしのブログの横にあるブックマーク欄に載せていいなら載せるけど。


というのも、このわしのブログ自体も、ほとんど周りのヒトにしか教えてないし、別に色んな人に教えようって気もほとんどなくて、ほぼ自分の考えのまとめとか軌跡のために書いてるにすぎないんで、それぞれブログのスタンスってあるかなぁとか思って。その辺に気を使うのです。
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Unknown (RYM)
2008-11-01 20:42:52
ブログ記事にコメントをもらった上に、応答の記事まで書いてもらえるとは、なんだかその自然発生的な流れが嬉しいですね。

吸収と排泄のモデルや、「芯を中心にゆらぐ」比喩はとても個人的にはしっくり来ます。
その上で、いなばさんが学校の授業中に考えていたようなとりとめのない、それゆえに宇宙であるような思考をしていきたいと考えてます。

森岡さんが男性性を感じさせないっていい話ですね笑 
実は「男らしくしない」というのも、最近ひとつのテーマになりつつあります・・・
もう、なんか落ち着きのある大人のフリをするのも疲れてきたので(しかもそのフリも成功しているわけではないし)、もうすこし情けなさとか幼稚さを出して生きてもいいのかな~と考えています。

「らしい振る舞い」からも自由になって生きたいですね。

いましばらくは、いろいろな分野で「がんばる」という概念を消して生きたいと思ってます・・・
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 (いなば)
2008-11-01 20:57:57
>RYM
まあ考えていることは時期的に偶然か必然か同期してるからね。キャリア変更とか挫折とかそういうのの時期が偶然一緒なんでしょう。これが同時代に生きる一番の利点だと思います。ジョンレノンも岡本太郎もピカソも三島由紀夫も、同時代に同期して生きていたヒトがうらやましいなーって時々思うけど、こうやって、今同期できる人と、その状態を楽しむのが先決だと最近は思う次第。


とりとめがなくて、無目的な思考って大事だよね。よりよく生きたい!幸せに生きたい!っていうのももちろん大事なんだけど、そこを支えてる無目的で無意味な状態の無限で広大な無。そこをいい加減にしたら破綻しますな。

この辺は、Rym氏が感覚として分かっていると思うから、そのまま、心の声に忠実にあればよいと思います。

森岡さんはナヨナヨした女子みたいだった。懐かしいよ。

情けなさとか幼稚さっていいね。
俺も、猪木が言っている『馬鹿になれ』って概念は大事だと思います。自分なんてそんな高尚な人間じゃないし。そういういろんなものを持って多様で不安定な状況がより人間っぽいとお思います。


まあ、ゆるーくやっていきましょうよ。
東に行けと言われれば東に行き、西に行けと言われれば西に行き、風が吹けば風に揺られ。

水のような存在ね。意図的にがんばりもしないし、人に流されてユラリユラリと。どんな人に対しても自分を主張せず、無目的にそこに在る感じ。
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熱い世代 (Is)
2008-11-01 23:05:42
ビックリマン、ミニ四駆、ファミコン、スラムダンク、ダウンタウン、小室哲哉、安室、コギャル、浜崎…、

考えてみると文化的強度の高い世代だ!

6つ下の弟とか見てると、
確かに個人差に回収できない、世代差とでもいいたくなってしまうような温度差を感じることがあります(…っていっても個人差も多々あるんだろうけど)。

団塊Jr.世代は、後々、うるさい世代だって下からウザがられるんだろうな~。また、つっこんでるよ!とか言われるのかな~?
楽しみ。
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「団塊Jr.世代」じゃない名前がいいね。 (いなば)
2008-11-02 10:09:11
>>>>>>>>>>>IS
週間少年ジャンプも黄金期だったし。
携帯電話とかインターネットの発達をリアルタイムで体感したのは僕らの世代だし。

世界も、高齢化社会、医療崩壊、食文化崩壊、金融崩壊とか、新しい時代の幕開けを予感させる新陳代謝が起きてるしね。今まであったものを否定するんじゃなく、受け継ぎながらさらに進化・純化・洗練していきたい。


6つ下の知り合いとかいないなぁ。
来年東大に戻るから、少し下の学生とかと接して、彼らの世代の今を感じて見たい。

ただ、それぞれの世代で、今は特になんとも思ってないけど、すごく豊穣な文化って育ってるんだと思う。
たとえば、漫画。
今はあまりにリアルタイムすぎて、その価値をそこまで見出せてないし、消費できないほど多様にあるけど、漫画は100年後見ても、ものすごいレベルに達してると思う。人間の深遠な領域に到達してるもの。かなり駆け抜けてると思う。

そこを、文学や小説や活字や新聞や雑誌やテレビやラジオとかが乗り越えていかないとね。


僕らって、やっぱ「団塊Jr.世代」って言われちゃうのかなぁ。なんか他のネーミングほしいよね笑

わしも、ジジイになったら暑苦しくウザく思われる世代の典型例になるかもしれん。「無駄にカルチャーに熱いんだけどぉ~」とか言われて。スラムダンクとかドラゴンボールとか北斗の拳とか、200年後に岩波文庫になるのかなぁ。「当時の日本の世界の中での不安定さ。今はなきアメリカという国との微妙な関係や、当時の若者の退廃的な悩みや怒りや憤りなどをリアルに反映していた作品である」とか後書きで評論家が書いたりして笑

今度、吾らの世代のネーミングでも勝手に考えてみましょう。こういうのは糸井さんが巧いんだろうなぁ。
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世代のネーミング (Is)
2008-11-03 00:41:17
団塊Jr.…思考停止的に使ってしまったが、
考えてみたら、すごく団塊世代ありきのネーミングで嫌だな-。
…ぼくは団塊世代に対しては、
前半はがんばりを認めつつも、
バブル崩壊後はダメダメちゃんだと考えとるので。
このへん、彼らにはあと30年は生きてもらって、
対決しつつ、創造していきたい!

>今度、吾らの世代のネーミングでも勝手に考えてみましょう。
…ホントだね。ぜひぜひ!
>こういうのは糸井さんが巧いんだろうなぁ。
…まったく…、だけど、ここでも負けてしまうのはクヤシイ!
何とか、自分たちで考えたい。

岩波文庫に最初に載る漫画って興味あるね!
…やっぱり手塚治虫かな?
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焼け野が原ってCoccoの歌にある (いなば)
2008-11-04 00:02:23
>>>Is
団塊Jrって結構マスコミでも使われるけど、団塊の世代って言葉時代が僕らの世代にはあまり言霊がないものだよねー。

バブル崩壊後は確かに脆かったね。
でも、日本を焼け野が原状態からここまで作り上げたことには最大限の敬意を持っているので、彼らが安心して引退できるように引導を渡さないとね。

やっぱ岩波文庫は手塚治虫だろうねー。
彼は大きく漫画文化を多様に発展させたし。何十人分もの革新を一人でやってのけたのは奇跡!

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