らせん。
この宇宙は、一つの息から、左向きのらせん(陽)と右向きのらせん(陰)が生まれ、そこから色々な構成物が生まれたようだ。
左向きのらせん(陽)と右向きのらせん(陰)。
2次元的にぶつけてしまうと、向きが逆なので打ち消しあう。
ただ、それを3次元的に立体で合わせてみると、実はそれは同じものであることが分かる。
次元をあげると、本当はおなじもの。次元を下げると、うち消し合う。
これは、色んな対立物のメタファーでもある。
人体60000000000000個の細胞全てに含まれているDNAの二重らせん構造も、右巻きのらせんしか存在しない。左巻きは、この宇宙ではどうやら不安定なようだ。
ただ、その右巻きDNAも、下から見上げると左巻きになる。
すべては視点の違い。
この宇宙は、視点の場所次第で、違うレイヤーが展開されるようにできている。
だから、自分の視点に気づくことが大事だし、それを育む感性が大事だ。
それは、アインシュタインが来日したとき、日本画の中には多層の視点が込められて絵が構成されているのに気づいた、ということにも示唆されている。(西洋絵画は遠近法を含めた単一の視点に特徴がある。)
客観性が重視された時代から、今後は主観や感受性や感性の世界が重視される時代になるだろう。
だからこそ、今後は全員が違うことが当たり前として(今までは全員を同じに染めようとして色々な不具合が起きていた。情報化社会はある意味で悪用された)、いかに調和するか、ということ、その調和への具体的な手段や場の作りかたにこそ、光が当たるだろうと思う。
生と死も、左向きのらせん(陽)と右向きのらせん(陰)のメタファーと似ている。二次元だと対立して打ち消し合うが、立体的に二つをあわせればアンモナイトのペアであったことが分かる。二元論は、そういう本質を持っている。
ぼくらは生の中を生きていて死を考えるから、視点が偏りがちなのだが、時には死の中を生きて生を見る練習をするといい。それは一種の遊びのようなものとして。
自分が死んだとしてこの世界を観察してみる。
そうなると、生の本質がおのずから分かる。何のために自分が生を受けたのかも、おのずから分かる。なぜこうして生まれてくる、という選択をしたのかも、おのずから分かる。
そうして生と死の葛藤や境がなくなると、本当の意味でこの世界を生きることができる。
この宇宙は、一つの息から、左向きのらせん(陽)と右向きのらせん(陰)が生まれ、そこから色々な構成物が生まれたようだ。
左向きのらせん(陽)と右向きのらせん(陰)。
2次元的にぶつけてしまうと、向きが逆なので打ち消しあう。
ただ、それを3次元的に立体で合わせてみると、実はそれは同じものであることが分かる。
次元をあげると、本当はおなじもの。次元を下げると、うち消し合う。
これは、色んな対立物のメタファーでもある。
人体60000000000000個の細胞全てに含まれているDNAの二重らせん構造も、右巻きのらせんしか存在しない。左巻きは、この宇宙ではどうやら不安定なようだ。
ただ、その右巻きDNAも、下から見上げると左巻きになる。
すべては視点の違い。
この宇宙は、視点の場所次第で、違うレイヤーが展開されるようにできている。
だから、自分の視点に気づくことが大事だし、それを育む感性が大事だ。
それは、アインシュタインが来日したとき、日本画の中には多層の視点が込められて絵が構成されているのに気づいた、ということにも示唆されている。(西洋絵画は遠近法を含めた単一の視点に特徴がある。)
客観性が重視された時代から、今後は主観や感受性や感性の世界が重視される時代になるだろう。
だからこそ、今後は全員が違うことが当たり前として(今までは全員を同じに染めようとして色々な不具合が起きていた。情報化社会はある意味で悪用された)、いかに調和するか、ということ、その調和への具体的な手段や場の作りかたにこそ、光が当たるだろうと思う。
生と死も、左向きのらせん(陽)と右向きのらせん(陰)のメタファーと似ている。二次元だと対立して打ち消し合うが、立体的に二つをあわせればアンモナイトのペアであったことが分かる。二元論は、そういう本質を持っている。
ぼくらは生の中を生きていて死を考えるから、視点が偏りがちなのだが、時には死の中を生きて生を見る練習をするといい。それは一種の遊びのようなものとして。
自分が死んだとしてこの世界を観察してみる。
そうなると、生の本質がおのずから分かる。何のために自分が生を受けたのかも、おのずから分かる。なぜこうして生まれてくる、という選択をしたのかも、おのずから分かる。
そうして生と死の葛藤や境がなくなると、本当の意味でこの世界を生きることができる。