ブレヒト『コーカサスの白墨の輪』の芝居に続き、東京ノーヴイ・レパートリーシアターの『Idiot~ドストエフスキー白痴より~』を見てきました。
素晴らしかった!本当に感動!!!感動!!
こんなに質の高いお芝居が1000円で見れるとは恐れ入ります。
それもこれも、両国シアターカイさんのサポートがあってのこと、らしい。
敷居が高いと、本格的なお芝居を見ることに迷っている人は、是非この機会に見に行ってください。
1000円で5000円以上の価値はある濃厚なお芝居が見れます!
今後も来年4月まで定期的に上演されている。何度見に行っても楽しめると思う。
■
ドストエフスキーの本はほとんど読んでます。
「罪と罰」、「未成年」、「悪霊」、「地下室の手記」、「カラマーゾフの兄弟」・・・
ただ、自分の盲点をつくように、なぜだか「白痴」だけは本棚に陳列されてあるがまだ読んでません。
が。
このお芝居を見て、改めてすごく読みたくなった。
自分のドストエフスキーの文章メモを読み返してみると、ドストエフスキーの人間観察の深さと言葉の当てはめ方が、やはりすごい・・。
=================
ドストエフスキー
「罪と罰」より
=================
俺の頭に少なくとも一日に1~1.5メートルの新思想が必要である。
=================
苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、つねに必然的なものである
=================
=================
ドストエフスキー
「未成年」より
=================
「人類に対する愛」ということばは、自分が心の中でつくりあげて人類に対する、
つまり己に対する愛である
=================
人類の最も偉大な思考は、意志をパンに変えるということである。
=================
一番簡単で、いちばん明白な思想こそが、
いちばん理解し難い思想である。
=================
思想は感情のなかから生まれる。
そしてその思想が人のうちに根をおろすと、
今度は新しい感情を形成する
=================
理想主義者と現実主義者は、
彼らが誠実で寛容でありさえすれば、その本質はおなじく、人類への愛であり、
その対象はおなじく、人間であり、
違っているのは、対象を表示する形式ばかりである
=======================
人間というものは時として、
何かにそそのかされて我をおしとおすのか自分でもわからぬことがあるものだ
=======================
きっと真理は、いつもそうですが、
どこか中間どころにあるんでしょう
=======================
=================
ドストエフスキー
「悪霊」より
=================
苦痛と恐怖を征服した人間が神となるのです。
そのときにこそ新しい生がはじまる。
新しい人間が生まれる。
すべてが新しくなるのです
=================
自由というのは、生きていても生きていなくても同じになる時、はじめて得られるのです。
これがすべての目的です
=================
すべての理由なくて、自分のわがままからのみ自殺するのは私だけだ
=================
人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間不幸なのだ。
だが、人間は今では人生を愛している。
それは苦痛と恐怖を愛するからだ
=================
人間は幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である
=================
人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ
=================
自然法則はキリスト教を欺瞞の真っ只中に生きさせたし、
キリスト教を欺瞞のために死なせた。
=================
人生において何よりも難しいことは、嘘をつかずに生きることだ。
そして、自分自身の嘘を信じないことである。
=================
真の真理というものは、常に真理らしくないものである。
=================
=================
ドストエフスキー
「地下室の手記」より
=================
僕には時々、自分の空想が幸福の絶頂を極めて、
是が非でも即刻、全人類と抱き合う必要が生ずる時がある
=================
そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、
僕だけが恥辱の中で暮らし、一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にも全く気づかずにいたのだ
=================
=================
ドストエフスキー
「カラマーゾフの兄弟」より
=================
人間は卑劣漢として生きることができないのみならず、卑劣漢として死ぬこともできない。人間は清らかに死なねばならない
=================
善悪の観念という悪魔を知るために、そんなに犠牲を払わねばならないのなら、
なんだって、これを知る必要はあろうか?
=================
神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ
=================
お母さん、泣かないでよ。
人生は楽園なんです。
僕らはみんな楽園にいるのにそれを知ろうとしないんですよ。
知りたいと思いさえすれば、明日にも、世界じゅうに楽園が生まれるに違いないんです
=================
楽園はわれわれひとり
ひとりのうちにあるのです。
それはいまわたしのうちにもあるのです
=================
すべて真実で美しいものには、
つねに、いっさいをゆるすという、大らかなものがあふれている
=================
若者よ、祈りを忘れるな。
おまえの祈りのたびごとに、
その祈りが真心から出たものなら、新しい感情がひらめくだろう。
そしてその感情のなかに、
おまえのこれまで知らなかった新しい思想が生まれでて、
おまえをいっそう勇気づけるだろう
=======================
隣人を積極的にたゆまず愛するように努めなさい。
その愛の事業がすすむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されてくるでしょう
=======================
■
お芝居がいいのは、ロシア人の複雑な名前を憶えれなくても、なんとなくストーリーが分かってしまう事。
(ここに相関図があるのに気づいて驚いた。こんな複雑な関係知らなかったけど楽しめた!)
主役Idiot(白痴)ことムイシュキン公爵を演じた方が素晴らしかった!
『白痴』は、ドストエフスキーが『もっとも美しい人を描きたかった』という言葉を残している作品だ。
トルストイも、「これはダイヤモンドだ。その値打ちを知っているものにとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と評したといわれる。
Idiot(白痴)と呼ばれる純粋無垢な存在。
純粋なるがゆえに、世知辛いこの世では生きにくい。それは、この全自然と共鳴するような存在だからこそ。
色んな人に利用されながら、翻弄されながら。色んな人の思惑に天災のように巻き込まれようとも、主人公はあくまでも純粋無垢であり続け、天然であり続ける。
その天然自然な佇まいは一部の人をイラつかせる。本性をあぶりだすように。
純粋さはそれぞれの醜さや悪を映し出す鏡となって機能する。
その純粋な存在を通して湖の水面を見るように自分の影の部分を見せつけらることに怖れを感じる人は、その怖れから逃れるように純粋なIdiot(白痴)を罵り、拒み続ける。
そんなめまぐるしい人間模様が圧倒的なエネルギーで演じられ、時間を忘れて放心状態で見入ってしまった。
『愛』というのはすさまじい力を持つようだ。
この世界を救済する力にもなりうるし、人間を破滅する力にもなりうる。創造と破壊とは紙一重であり、同一事象の視点の違いに過ぎない。
『愛』という強大なものが奥から表に出てこようと暴れる。
それぞれの人の内奥から、それぞれ独自のやり形で「愛」が形を変えて表にあらわれてくるのだと思った。
ある人には嫉妬になり、妬みになり、復讐になり、怒りになり・・・・。
そして、ときには「愛」そのものになる。
■
お芝居は映画と違って3次元世界で繰り広げられる。
そこに人間がいる。
観客者は、空間を通してその人間存在から遠隔でエネルギーを受けとる。波動砲のようにガツンと来る。
映画は脳内画像で再生を繰り返して楽しむが、芝居は皮膚感覚まで感じられるほどだった。
自分の皮膚が何かに共鳴して振動するようだった。
そして、自分の心も芝居の人物と同期して共鳴した。時に痛み、時には刺されるようなキリキリした感覚を心臓に感じた。
人間は生きているだけでエネルギーを放出している。お芝居を通して強く感じた。
■
ランディさんもいたので、2次会にも連れて行ってもらった。
そこでロシア人の芸術監督レオニード・アニシモフさんとも話した。
ロシア人はとても議論好きらしく、少し時間が空くと、横にいるロシア人哲学科教授と、果てし無く議論を続けていた。
ロシア人の気質なのか、激しく情熱的でPassionに満ちた佇まい、言動、ジェスチャー。
圧倒されるとと共に、何か忘れかけていた人間にとって大切なものを思い出させてくれるようだった。
生命それ自体が燃焼するロシア人の激しいエネルギーや息遣いを感じて、その熱に飲み込まれ、自分へ伝わった。
■
レオニード・アニシモフ監督含めてみんなで話したのは
****************
「あなたにとって最初の記憶は?」
****************
ということ。
このことは、実は学生時代に話したことがあるテーマだったので懐かしく思った。
みなさんの「最初の記憶」は何ですか??
・・・・・・・・・
自分にとって、最初の記憶は「虫と自分の意識が分離した記憶」だ。確か3歳の時。
ふと気づいたら、虫を見ている「わたし」の存在に気づいたのだ。そして視線の先にあるカブト虫を見ている記憶が、思い出し得る最初の記憶です。
「!」という体験だった。
言葉を超えていたが、無理して言語に変換させると、「驚き」、「他者との出会い」。そして「わたしの認識」ということになるだろうか。
あの「わたし」の認識以前は、自分は「虫の意識」、それこそ「森羅万象の意識」と一つだった、と思う。
自分は虫であり、虫は自分であった。
虫を客観的に認識した時、「わたし」という意識が分離した。
その時に見た驚きの光景が、最初の「記憶」として自分の脳の中に焼き付いたらしい。
そんなことを思い出した。記憶の奥の奥の奥へ、細い糸を垂らして思い出した。前世の記憶にまで到達しないように注意した。
一歩間違えば、そこからパラレルワールドに分離して、虫の意識として人生を全うしていたのかもしれません。
みなさんとこうしてブログを通して出会えたのも、あの分岐点で「わたし」の意識を認識し、選択したからだと思いますし。つくづく自分はついてる男だと思います。
■
監督と話した内容で古い記憶を思い出して脱線しましたが。(^^;
下に今後の上映予定などありますので、是非是非見に行ってください!(だまされたと思って。だまされませんから。)
見終わった日の夜、泥のように寝ました。
そういう時は、「眠り」が、無意識下で受け取った膨大な情報をゆっくりと消化・吸収してくれている働きだ、と考えています。
体は、時にはIdiotのようにバカ正直で素直な存在物なのです。
自分の体が「眠り」を必要としたということは、自分という全体が広大で壮大な何かを受け取った訪れだと、思うのです。
***********************
シアターΧ主催 特別共同企画
HPより。
***********************
Life in Art 毎月レパートリー公演
~天才作家を追体験する~
あの作品がこれからも、千円で観られる!?
継続決定!大作2舞台、10ヶ月の挑戦
前シーズンより始まりましたシアターΧでの毎月公演を9月から再開します。
今後10ヶ月にわたり継続してまいります。
成長し続ける舞台作品、生活と結びついた演劇をめざし引き続き天才作家の作品(古典)に挑戦していきます!
二人の天才作家の作品が毎月観られる!?
ドストエフスキー「Idiot~ドストエフスキー白痴より~」 ブレヒト「コーカサスの白墨の輪」
二人の天才作家の作品を日常的に感じて頂きたいという思い切ったこの企画! この機会にぜひお楽しみください。
東京ノーヴイ・レパートリーシアターが千円で上演する理由(わけ)
日本では演劇と一般社会との距離や見えない壁があるのが現実です。一生涯の中で、劇場に来ることのない方もいるでしょう。
チケット料金1000円公演は、経済的には不成立です。
ではなぜここまで無謀なことに取り組むのか
―それは演劇芸術には生きていく上で、大切な役割があると確信しているからです。
心は目に見えません。演劇で生まれるエネルギーも目には見えません。でも目には見えないものが存在しないのではありません。
目には見えないけれど確実に存在し、その力が目に見える世界に影響を与えるのです。
だからどんなに過酷な状況であっても、踊りや絵や音楽や演劇は世界から消えなかったのです。演劇には魂を救ける力があります。
心には、芸術から生まれるエネルギー=栄養が必要なのです。
***********************
◆上演日程
☆開場30分前 ☆上演時間:各3時間30分を予定(休憩含む)
2013年
・10/7(月) 18:30開演 「白痴」
・10/8(火) 18:30開演 「コーカサスの白墨の輪」
------------------------
・11/14(木) 18:30開演 「白痴」
・11/15(金) 18:30開演 「コーカサスの白墨の輪」
------------------------
・12/9(月)
15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
・12/10(火) 15:00開演 「白痴」 終演後アフターミーティング有り
------------------------
2014年
・1/16(木) 18:30開演 「白痴」
・1/17(金) 18:30開演 「コーカサスの白墨の輪」
------------------------
・2/10(月) 18:30開演 「白痴」
・2/11(火・祝) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
------------------------
・3/1(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
・3/2(日) 15:00開演 「白痴」
------------------------
・4/11(金) 18:30開演 「白痴」
・4/12(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」 終演後アフターミーティング有り
------------------------
・5/3(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
・5/4(日) 15:00開演 「白痴」 終演後アフターミーティング有り
------------------------
・6/6(金) 18:30開演 「白痴」
・6/7(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」 終演後アフターミーティング有り
◆劇場:東京・両国シアターΧ(カイ)
東京都墨田区両国2-10-14 両国シティコア内
***********************
◆料金 全公演 1000円 ( 全自由席)
※ 高校生以下500円
◆予約:東京ノーヴイ・レパートリーシアター
チケットの予約フォームへ → チケット予約
※2ヶ月先までのご予約を承ります。
Tel/Fax 03-5453-4945 (平日10:00~17:00)
◆お問合せ
東京ノーヴイ・レパートリーシアター
tel/fax 03-5453-4945(月~土 10:00~17:00)
info@tokyo-novyi.com
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芸術監督の言葉(レオニード・アニシモフ)
私達の演劇はとても面白い。
でも気晴らしの為の演劇ではありません。
<演劇の力>
21世紀、劇場は教会の役割をするだろうと予言した人がいます。
情報とめまぐるしく変化する社会の流れの中、置いてきぼりにされている「心」を調整してくれる場所がそこだからというのです。
確かに、日々の忙しい生活の中で、いま自分がどう感じているのか静かに耳をすますという機会はありません。
劇場は作家が書いた演劇空間の中で生きる俳優を目撃する場。
真実の行なわれている演劇では、観客は俳優が見、聴き、感じている事を想像する事が出来ます。
それは混沌とした日常の中では感じる事が出来ない、自分の中で眠っている「感情」を解き放つキッカケを与えてくれます。
演劇を通じて心を調整し、より良いエネルギーを生み出す場、それが劇場だと私達は思っています。
チェーホフも言っています。
「真実だけが人を治療でき、癒すことができる」と。
素晴らしかった!本当に感動!!!感動!!
こんなに質の高いお芝居が1000円で見れるとは恐れ入ります。
それもこれも、両国シアターカイさんのサポートがあってのこと、らしい。
敷居が高いと、本格的なお芝居を見ることに迷っている人は、是非この機会に見に行ってください。
1000円で5000円以上の価値はある濃厚なお芝居が見れます!
今後も来年4月まで定期的に上演されている。何度見に行っても楽しめると思う。
■
ドストエフスキーの本はほとんど読んでます。
「罪と罰」、「未成年」、「悪霊」、「地下室の手記」、「カラマーゾフの兄弟」・・・
ただ、自分の盲点をつくように、なぜだか「白痴」だけは本棚に陳列されてあるがまだ読んでません。
が。
このお芝居を見て、改めてすごく読みたくなった。
自分のドストエフスキーの文章メモを読み返してみると、ドストエフスキーの人間観察の深さと言葉の当てはめ方が、やはりすごい・・。
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ドストエフスキー
「罪と罰」より
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俺の頭に少なくとも一日に1~1.5メートルの新思想が必要である。
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苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、つねに必然的なものである
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ドストエフスキー
「未成年」より
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「人類に対する愛」ということばは、自分が心の中でつくりあげて人類に対する、
つまり己に対する愛である
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人類の最も偉大な思考は、意志をパンに変えるということである。
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一番簡単で、いちばん明白な思想こそが、
いちばん理解し難い思想である。
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思想は感情のなかから生まれる。
そしてその思想が人のうちに根をおろすと、
今度は新しい感情を形成する
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理想主義者と現実主義者は、
彼らが誠実で寛容でありさえすれば、その本質はおなじく、人類への愛であり、
その対象はおなじく、人間であり、
違っているのは、対象を表示する形式ばかりである
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人間というものは時として、
何かにそそのかされて我をおしとおすのか自分でもわからぬことがあるものだ
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きっと真理は、いつもそうですが、
どこか中間どころにあるんでしょう
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ドストエフスキー
「悪霊」より
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苦痛と恐怖を征服した人間が神となるのです。
そのときにこそ新しい生がはじまる。
新しい人間が生まれる。
すべてが新しくなるのです
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自由というのは、生きていても生きていなくても同じになる時、はじめて得られるのです。
これがすべての目的です
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すべての理由なくて、自分のわがままからのみ自殺するのは私だけだ
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人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間不幸なのだ。
だが、人間は今では人生を愛している。
それは苦痛と恐怖を愛するからだ
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人間は幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である
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人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ
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自然法則はキリスト教を欺瞞の真っ只中に生きさせたし、
キリスト教を欺瞞のために死なせた。
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人生において何よりも難しいことは、嘘をつかずに生きることだ。
そして、自分自身の嘘を信じないことである。
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真の真理というものは、常に真理らしくないものである。
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ドストエフスキー
「地下室の手記」より
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僕には時々、自分の空想が幸福の絶頂を極めて、
是が非でも即刻、全人類と抱き合う必要が生ずる時がある
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そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、
僕だけが恥辱の中で暮らし、一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にも全く気づかずにいたのだ
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ドストエフスキー
「カラマーゾフの兄弟」より
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人間は卑劣漢として生きることができないのみならず、卑劣漢として死ぬこともできない。人間は清らかに死なねばならない
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善悪の観念という悪魔を知るために、そんなに犠牲を払わねばならないのなら、
なんだって、これを知る必要はあろうか?
=================
神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ
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お母さん、泣かないでよ。
人生は楽園なんです。
僕らはみんな楽園にいるのにそれを知ろうとしないんですよ。
知りたいと思いさえすれば、明日にも、世界じゅうに楽園が生まれるに違いないんです
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楽園はわれわれひとり
ひとりのうちにあるのです。
それはいまわたしのうちにもあるのです
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すべて真実で美しいものには、
つねに、いっさいをゆるすという、大らかなものがあふれている
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若者よ、祈りを忘れるな。
おまえの祈りのたびごとに、
その祈りが真心から出たものなら、新しい感情がひらめくだろう。
そしてその感情のなかに、
おまえのこれまで知らなかった新しい思想が生まれでて、
おまえをいっそう勇気づけるだろう
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隣人を積極的にたゆまず愛するように努めなさい。
その愛の事業がすすむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されてくるでしょう
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お芝居がいいのは、ロシア人の複雑な名前を憶えれなくても、なんとなくストーリーが分かってしまう事。
(ここに相関図があるのに気づいて驚いた。こんな複雑な関係知らなかったけど楽しめた!)
主役Idiot(白痴)ことムイシュキン公爵を演じた方が素晴らしかった!
『白痴』は、ドストエフスキーが『もっとも美しい人を描きたかった』という言葉を残している作品だ。
トルストイも、「これはダイヤモンドだ。その値打ちを知っているものにとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と評したといわれる。
Idiot(白痴)と呼ばれる純粋無垢な存在。
純粋なるがゆえに、世知辛いこの世では生きにくい。それは、この全自然と共鳴するような存在だからこそ。
色んな人に利用されながら、翻弄されながら。色んな人の思惑に天災のように巻き込まれようとも、主人公はあくまでも純粋無垢であり続け、天然であり続ける。
その天然自然な佇まいは一部の人をイラつかせる。本性をあぶりだすように。
純粋さはそれぞれの醜さや悪を映し出す鏡となって機能する。
その純粋な存在を通して湖の水面を見るように自分の影の部分を見せつけらることに怖れを感じる人は、その怖れから逃れるように純粋なIdiot(白痴)を罵り、拒み続ける。
そんなめまぐるしい人間模様が圧倒的なエネルギーで演じられ、時間を忘れて放心状態で見入ってしまった。
『愛』というのはすさまじい力を持つようだ。
この世界を救済する力にもなりうるし、人間を破滅する力にもなりうる。創造と破壊とは紙一重であり、同一事象の視点の違いに過ぎない。
『愛』という強大なものが奥から表に出てこようと暴れる。
それぞれの人の内奥から、それぞれ独自のやり形で「愛」が形を変えて表にあらわれてくるのだと思った。
ある人には嫉妬になり、妬みになり、復讐になり、怒りになり・・・・。
そして、ときには「愛」そのものになる。
■
お芝居は映画と違って3次元世界で繰り広げられる。
そこに人間がいる。
観客者は、空間を通してその人間存在から遠隔でエネルギーを受けとる。波動砲のようにガツンと来る。
映画は脳内画像で再生を繰り返して楽しむが、芝居は皮膚感覚まで感じられるほどだった。
自分の皮膚が何かに共鳴して振動するようだった。
そして、自分の心も芝居の人物と同期して共鳴した。時に痛み、時には刺されるようなキリキリした感覚を心臓に感じた。
人間は生きているだけでエネルギーを放出している。お芝居を通して強く感じた。
■
ランディさんもいたので、2次会にも連れて行ってもらった。
そこでロシア人の芸術監督レオニード・アニシモフさんとも話した。
ロシア人はとても議論好きらしく、少し時間が空くと、横にいるロシア人哲学科教授と、果てし無く議論を続けていた。
ロシア人の気質なのか、激しく情熱的でPassionに満ちた佇まい、言動、ジェスチャー。
圧倒されるとと共に、何か忘れかけていた人間にとって大切なものを思い出させてくれるようだった。
生命それ自体が燃焼するロシア人の激しいエネルギーや息遣いを感じて、その熱に飲み込まれ、自分へ伝わった。
■
レオニード・アニシモフ監督含めてみんなで話したのは
****************
「あなたにとって最初の記憶は?」
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ということ。
このことは、実は学生時代に話したことがあるテーマだったので懐かしく思った。
みなさんの「最初の記憶」は何ですか??
・・・・・・・・・
自分にとって、最初の記憶は「虫と自分の意識が分離した記憶」だ。確か3歳の時。
ふと気づいたら、虫を見ている「わたし」の存在に気づいたのだ。そして視線の先にあるカブト虫を見ている記憶が、思い出し得る最初の記憶です。
「!」という体験だった。
言葉を超えていたが、無理して言語に変換させると、「驚き」、「他者との出会い」。そして「わたしの認識」ということになるだろうか。
あの「わたし」の認識以前は、自分は「虫の意識」、それこそ「森羅万象の意識」と一つだった、と思う。
自分は虫であり、虫は自分であった。
虫を客観的に認識した時、「わたし」という意識が分離した。
その時に見た驚きの光景が、最初の「記憶」として自分の脳の中に焼き付いたらしい。
そんなことを思い出した。記憶の奥の奥の奥へ、細い糸を垂らして思い出した。前世の記憶にまで到達しないように注意した。
一歩間違えば、そこからパラレルワールドに分離して、虫の意識として人生を全うしていたのかもしれません。
みなさんとこうしてブログを通して出会えたのも、あの分岐点で「わたし」の意識を認識し、選択したからだと思いますし。つくづく自分はついてる男だと思います。
■
監督と話した内容で古い記憶を思い出して脱線しましたが。(^^;
下に今後の上映予定などありますので、是非是非見に行ってください!(だまされたと思って。だまされませんから。)
見終わった日の夜、泥のように寝ました。
そういう時は、「眠り」が、無意識下で受け取った膨大な情報をゆっくりと消化・吸収してくれている働きだ、と考えています。
体は、時にはIdiotのようにバカ正直で素直な存在物なのです。
自分の体が「眠り」を必要としたということは、自分という全体が広大で壮大な何かを受け取った訪れだと、思うのです。
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シアターΧ主催 特別共同企画
HPより。
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Life in Art 毎月レパートリー公演
~天才作家を追体験する~
あの作品がこれからも、千円で観られる!?
継続決定!大作2舞台、10ヶ月の挑戦
前シーズンより始まりましたシアターΧでの毎月公演を9月から再開します。
今後10ヶ月にわたり継続してまいります。
成長し続ける舞台作品、生活と結びついた演劇をめざし引き続き天才作家の作品(古典)に挑戦していきます!
二人の天才作家の作品が毎月観られる!?
ドストエフスキー「Idiot~ドストエフスキー白痴より~」 ブレヒト「コーカサスの白墨の輪」
二人の天才作家の作品を日常的に感じて頂きたいという思い切ったこの企画! この機会にぜひお楽しみください。
東京ノーヴイ・レパートリーシアターが千円で上演する理由(わけ)
日本では演劇と一般社会との距離や見えない壁があるのが現実です。一生涯の中で、劇場に来ることのない方もいるでしょう。
チケット料金1000円公演は、経済的には不成立です。
ではなぜここまで無謀なことに取り組むのか
―それは演劇芸術には生きていく上で、大切な役割があると確信しているからです。
心は目に見えません。演劇で生まれるエネルギーも目には見えません。でも目には見えないものが存在しないのではありません。
目には見えないけれど確実に存在し、その力が目に見える世界に影響を与えるのです。
だからどんなに過酷な状況であっても、踊りや絵や音楽や演劇は世界から消えなかったのです。演劇には魂を救ける力があります。
心には、芸術から生まれるエネルギー=栄養が必要なのです。
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◆上演日程
☆開場30分前 ☆上演時間:各3時間30分を予定(休憩含む)
2013年
・10/7(月) 18:30開演 「白痴」
・10/8(火) 18:30開演 「コーカサスの白墨の輪」
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・11/14(木) 18:30開演 「白痴」
・11/15(金) 18:30開演 「コーカサスの白墨の輪」
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・12/9(月)
15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
・12/10(火) 15:00開演 「白痴」 終演後アフターミーティング有り
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2014年
・1/16(木) 18:30開演 「白痴」
・1/17(金) 18:30開演 「コーカサスの白墨の輪」
------------------------
・2/10(月) 18:30開演 「白痴」
・2/11(火・祝) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
------------------------
・3/1(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
・3/2(日) 15:00開演 「白痴」
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・4/11(金) 18:30開演 「白痴」
・4/12(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」 終演後アフターミーティング有り
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・5/3(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」
・5/4(日) 15:00開演 「白痴」 終演後アフターミーティング有り
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・6/6(金) 18:30開演 「白痴」
・6/7(土) 15:00開演 「コーカサスの白墨の輪」 終演後アフターミーティング有り
◆劇場:東京・両国シアターΧ(カイ)
東京都墨田区両国2-10-14 両国シティコア内
***********************
◆料金 全公演 1000円 ( 全自由席)
※ 高校生以下500円
◆予約:東京ノーヴイ・レパートリーシアター
チケットの予約フォームへ → チケット予約
※2ヶ月先までのご予約を承ります。
Tel/Fax 03-5453-4945 (平日10:00~17:00)
◆お問合せ
東京ノーヴイ・レパートリーシアター
tel/fax 03-5453-4945(月~土 10:00~17:00)
info@tokyo-novyi.com
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芸術監督の言葉(レオニード・アニシモフ)
私達の演劇はとても面白い。
でも気晴らしの為の演劇ではありません。
<演劇の力>
21世紀、劇場は教会の役割をするだろうと予言した人がいます。
情報とめまぐるしく変化する社会の流れの中、置いてきぼりにされている「心」を調整してくれる場所がそこだからというのです。
確かに、日々の忙しい生活の中で、いま自分がどう感じているのか静かに耳をすますという機会はありません。
劇場は作家が書いた演劇空間の中で生きる俳優を目撃する場。
真実の行なわれている演劇では、観客は俳優が見、聴き、感じている事を想像する事が出来ます。
それは混沌とした日常の中では感じる事が出来ない、自分の中で眠っている「感情」を解き放つキッカケを与えてくれます。
演劇を通じて心を調整し、より良いエネルギーを生み出す場、それが劇場だと私達は思っています。
チェーホフも言っています。
「真実だけが人を治療でき、癒すことができる」と。
安吾の「ジロリの女」にも人の子の罪の切なさに、
高千穂で見た湖面の美しさを見たというお話があったと思い、その小説の美しさはずっと目に焼き付いているんです。
ススキの穂の揺れる高千穂の湖の湖面。
罪を犯す人間の罪こそを、偽りのない美しい姿と見るヒロイン。
ドストエフスキーの「白痴」はまだ読んでいないのですが、何故か日本で描かれた安吾の白痴と、
手塚治虫の息子である手塚真監督の映画
「白痴」は大好きで、
何度も見ているんです。
あと、痴呆という言葉にも(今は認知症に病名がかわりましたが)、文化の闇も光も含んだ底知れなさを感じます。
いづれにしても、この世界で馬鹿にされたりさげすまされたりしているものは、実は深い意味があったりするんですよねぇ。それが、この世が層構造になってて、一枚岩じゃない多面体を持つ奥深いところだと思います。そういうものにこそ、実は大切なものが隠れていたりして。
だるまんでたとえると、おそらく転生して一周まわって人間のいろんな立場を体験していて、あえて【墜ちた存在】として他者に愛を与えている存在(火→金)なのかな、と思いますね。愛を受け取る人生を経験したら、次はあえて墜ちた存在となり、愛を与える存在になる。自分は、だるまんのああいう話がすごく好きです。
京都広隆寺の牛祭、ご存知ですか??
牛祭は毎年10月12日に行われる祭りで、京都三大奇祭のひとつ(「やすらい祭」、「鞍馬の火祭」、「牛祭」)として知られているものです。
明治以前(神仏分離政策が原因)は広隆寺の境内にあった大酒神社の祭礼だったとか。
祭りの内容は、白い仮面をつけた摩多羅(またら)神が牛にまたがり、それに赤と青の鬼面をつけた四天王や松明等を持った人たちが従い、境内と周辺を一巡する。
薬師堂前で祭文を読み、これが終わると同時に堂内に飛び込むというものです。
五穀豊穣・悪魔退散を祈願する祭であるとされていて、周囲の人はやじをとばしたり、バカにしたりすることがならわしとか。。。
これも墜ちた神さまの象徴の一つらしいですね。(ルシファーも、光をもつもの、堕天使で、にんげんのためのお役目としての墜ちた神さま)
脱線。
坂口安吾は、自分はほとんど読んだこと無いんですが、東大倫理学の竹内整一先生がよく坂口安吾を引用していましたし、すごく気になっている作家です。スイッチさんも好きなら読んでみようかな。文明批評が鋭かったんですよね。
自分にとっては村上春樹が、ものすごい時代批評精神を隠しながら文学作品に昇華させているので、おそるべき人だと思っています。
高千穂は、ちょい前に行きました。あそこはすごいとこですね・・・
写真もあります。
幣立、高千穂、天草 2013-02-05
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/c2fac9207675314a3f1dc758cf6f2910
天安河原(あまのやすがわら)、あそこはすごいですよ。。。意識がめくりかえるような衝撃がありました。(^^;
たしか、東国原知事はあそこで不思議な声を聞いて、2007年に宮崎県知事選に出馬したとか聞きましたよ。
高千穂神社で見た夜神楽も、写真でなんとなくわかると思いますが、ユーモラスでばかばかしい神様で、それこそIdiotの象徴省庁の様な神様でした・・・。
スイッチさんのように、映像が浮かぶ作品はすばらしい作品が多いですよねー。
ユーミンの音楽も、いつも映像が浮かんでくるので、いつ聞いてもすごいなぁと思いますし。
手塚真監督の映画「白痴」も知らなかった。今度見てみたいですね。ただ、こういう作品ってなかなか見れないんですよねぇ。Amazonで見てみたら、3560円でDVD化されてました。。
とにかく。
いろいろと、この世界は興味が尽きないですね~!!(^^
■<補遺>摩多羅(またら)神
さらに脱線しますが、摩多羅(またら)神は謎の神様です。
ただ、調べるといろいろ面白く、中沢新一さんも「精霊の王」で色々と考察されていますよね。
・阿弥陀仏と摩多羅神の組み合わせ
・天台宗の「本覚論」
・マカカラ天(マハーカーラ、大黒天)、ダキニ天
・民族学での荒神
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阿弥陀仏と摩多羅神の組み合わせは、とてもアンバランスなものをはらんでいるが、天台宗の中で発達した「本覚論」という哲学の運動では、とくにこの摩多羅神が選び出されて、重要な働きをおこなうことになった。
この哲学運動では、教えを弟子に伝達するのに、密教風の「灌頂(かんじよう)」の様式を採用した。
そのとき、本覚論の中の一元論哲学の奥義(「玄旨」)を伝える灌頂の場を守ろうとしたのが、この三人の神なのだった。
摩多羅神はこのとき、暗い後戸の空間を出て、奥義が伝えられる場の前面に躍り出てくるのである。
この神の由来について、はっきりしたことはもうわからなくなっている。
鎌倉から室町にかけて、比叡山を中心にする天台系の寺院で流行していた本覚論は、江戸時代に入ると「邪教」の烙印を押されて、書物を焼かれたり、仏具を壊されたりしてしまい、表だっての伝承はそれで絶えてしまったから、摩多羅神の正体についてもすっかり不明となってしまった部分が大きい。きれぎれに語られてきたことをつなぎあわせてみても、なかなかこの神の実体には届かない。
とりわけこの神の本質に関わる問題、たとえば、どうしてこのような名前と異例な姿を持つ神が、天台宗のなかで一元論思考を徹底的に推し進めたラジカルな哲学である本覚論と、深いかかわりを持つことになったのかとか、猿楽をはじめとする芸能の徒たちが、自分たちの芸能の守護神である「宿神」とこの摩多羅神とは同体の神であるという考えをいだくようになったのかとか、この神の本質をめぐる問いにじゅうぶんに答えられている研究は、まだあらわれていない。
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摩多羅神とは摩訶迦羅(マカカラ)天であり、また タキニ天である。
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ここにあげられているマカカラ天(マハーカーラ、大黒天)といい、ダキニ天といい、どちらも仏教風に言えば「障礙神(しようそしん)」の特徴をそなえている。
この神を心をこめてお祀りしていれば、正しい意図をもった願望を成就するために、大きな力となってくれる。
しかし、少しでも不敬のことがあると、事を進める上に大きな障害をもたらして、あらゆる願望の成就を不可能にしてしまうというタイプの守護神が、障礙神なのである。
民俗学風にこれを言いかえれば、このタイプの守護神はまぎれもない「荒神」である。
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摩多羅神を大黒天でありダキニ天であると断定するとき、中世比叡山の大碩学(だいせきがく)光宗は、摩多羅神にヘールカとマートリカに共通するカンニバル的な特徴を付与して、これを最大級の秘密のベールに包み込もうとしているのがわかる。
なぜそれは秘密にされなければならなかったのか。
それは、摩多羅神をめぐる宗教的思考の中に、仏教が生まれるよりもはるか以前から活動をおこなっていた、「野生の思考」による新石器的な思考が、新しい表現のかたちを得てなまなましい活動を続けていることを、一般の目から隠す必要があったからである。
後戸の神である摩多羅神を中心としてうごめき廻っているのは、理知的な仏教の体系をつくりだしているものとはまったく異質な、一種の「古層」に属する思考だ。
仏教の歴史はたかだか紀元前数百年を遡るにすぎないが、こちらのほうはその百倍もの長い時間を生きてきた人類の思考である。仏教の中に、そのようなとてつもなく古い思考が生き続けている事実は、隠しておかなければならないことだった。
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中沢さんのご指摘以外にも、いろんな神様のイメージが重ねられています。
・ディオニソス(ギリシャ神話)、バッカス(ローマ神話)
・荒神(こうじん)さん(台所の神様)、土蜘蛛の「炉の神」、天台宗での荒振(あらぶる)神、アラハバキ神?
・ヒンズー教の摩訶迦羅(マハーカーラ)、シヴァ神の夜の姿(性的性質)
・道祖神(どうそしん)
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私は摩多羅神にディオニソスの神の面影を見る。
ディオニソスの特徴は性的放縦であり、その祭に人々は酒に酔って性器をかたどった張りぼてをもって、しきりに猥褻なことを言って町を練り歩く。
私はこの広隆寺の牛祭にディオニソスの神の祭を見る思いであった。
摩多羅神は、はるばると日本にやって来たディオニソスではないだろうか。
(梅原猛著『京都発見二路地遊行』より)
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あとは、太陽神・光明神であるミトラ神とも重ねあわされてます。
ミトラ神を拝するミトラ教は、正義、契約、盟約、真実をつかさどる一神教。創造神信仰、太陽信仰、光明信仰、救済信仰、軍神信仰を含む宗教。
ミトラ神はインドでマイトレーヤーと呼ばれ、仏教に取り込まれて「ミロク(弥勒菩薩)」となりました。
・言葉が伝播する際、「子音は変わらず、母音のみ変化する」というのはよくあることらしく、Mitora→Mataraへ変化した。
・広隆寺は太陽神の宮。
・広隆寺の本尊である弥勒菩薩→ミロク→ミトラ?
・牛祭での摩多羅(またら)神は牛に乗るが、ミトラ神も牛(ミトラが聖牛を殺した)と深い関わりがある。
・牛祭りでの仮面、青、赤、白は過去、現在、未来を表していて、白の摩多羅神は未来仏である弥勒菩薩に対応する?
・ミトラ神も阿弥陀如来も光明神。
・阿弥陀如来は梵名が「アミターバ」、「アミターユス」、「無限の光を持つもの」、「無限の寿命を持つもの」という意味。それらを漢訳したものが「無量光仏」、「無量寿仏」となる。
・ミトラ神が摩多羅(またら)神と名を変え阿弥陀如来に習合された。太陽の光を意味する栃木県の日光では、日光山輪王寺に阿弥陀如来が、常行堂に摩多羅(またら)神が祀られている。
宗教学や民俗学って、奥が深くて面白いですよねぇ~。
だるまんも人間と神様の関係を描いた漫画だと思いますが、昔の人間は、当たり前のように神様と共存していたんでしょうね。今は少しどうかしてる時代なのかもしれません・・・
ひとりだけ写真なので、がんばってほしいです。笑
「白痴」のDVD、よかったらうちにあるの送るよ~!
前にランディさんとも一緒に見たの。
すっごく面白いよ!
いなばさんと話すると、だるまんと喋っているみたいだよね。(笑) 高千穂の写真、すっごくきれい。
今度行ってみたいです☆
ディオニソスのこと、梅原先生と中上健次さんが85年に青森に来たときの対談の中で、もうしょっちゅう「ディオニソス ディオニソス!」って語っているから何のことかと思ったら、ギリシア神話の神様だったんだね。
集団的狂騒とか、熱狂とか、お酒とか、とにかく「ワア~~~ッッ」とした雰囲気があって、狂っちゃいそうな……それこそ、青森のねぶた祭です。(笑)
ディオニソスの誕生の物語りも、なかなか複雑で面白かった-。ウィキペディアってこんなに面白いのか! ってびっくりした!
ゼウスが浮気して妊娠してた女性が、
嫁の怒りを買って騙されて焼死しちゃうんだけど
ゼウスがその焼死体から胎児だったディオニソスをヘルメスに頼んで持ってきてもらって、
自分の太股の中で十月十日暮らさせ、
ディオニソスを出産するんだって。
ギリシア神話、ものすごく狂ってて面白いと思う。
葡萄の作り方を伝えた神様だけど、葡萄酒の作り方を教えた村人が、初めて葡萄酒を飲んだ村人に「毒を盛られた」と勘違いされて殺されて、村人の娘もショックでその場で自殺して、頭に来たディオニソスは村の女性を全員狂わせてしまうとか。
古代の人達は、けっこうすぐ人を殺したり恨んだりするけど、「ああ、人ってもともとこうなんだな~」って思います。
旧約聖書の神さまとか、けっこう怒ってばかりで、機嫌の悪い女子高生みたいで笑える。
>ディオニソスの特徴は性的放縦であり、その祭に人々は酒に酔って性器をかたどった張りぼてをもって、しきりに猥褻なことを言って町を練り歩く。
そういえば、武蔵野美術大学の学祭では、男性の性器をかたどった男御輿を酔っ払った学生たちが「ワッショイ! ワッショイ!」言って担ぐのが祭の絶頂でした。
熱狂して酔っ払い、過去には死人が出たと噂された男御輿。あれも、ディオニソス的な祭だったんでしょうね☆
ドグ子、がんばりまーす☆
武蔵美祭の男御輿のかけ声は
「ワッショイ」じゃなくて、「ヨイショコラショ」でした!
20代の頃、よく武蔵美祭を観に東京へ遊びに行っていましたが。美術生の祭って、本当にアイディアと技術がある人達の集合で面白かったですよ~☆
「白痴」のDVD、送ってください!
次回、青森に行くときにお返しますので!
縄文とディオニソス。梅原先生はよく発現されてますよねぇ。
梅原先生の
○日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫) 梅原 猛 (1994/6/17)
○君は弥生人か縄文人か 梅原日本学講義 (集英社文庫) 中上 健次、 梅原 猛 (1994/2/18)
も読みましたが、それに書いてありました。
というか。この「君は弥生人か縄文人か 梅原日本学講義」での中上さんとの対談が、その時なのかもしれませんね。色んな歴史の舞台に参加してて、スイッチさんすごいー。
青森のねぶた祭も、まさに棟方志功からそのほとぼしるエネルギーを感じますよ。
ディオニソスの物語含め、ギリシア・ローマ神話って、ほんと面白いですよね。
字面通りに解釈すると、それはそれでぶっ飛んでて面白いですが、その象徴する意味を深く読み込んでみると、さらに深い認識の次元に突入できる気がします。
そういう風な神話や物語への深い次元に読み込んでいく作業は、ユング心理学の河合先生の著作から大いに学びました。
●昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫) 河合 隼雄 (1994/2/15)
●昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術) 河合 隼雄 (2002/1/16)
この二つが衝撃的に面白いですよ!
もしまだ読んだことなければ、それこそプレゼントして郵送しますので、遠慮なく言ってください!(^^
武蔵野美術大学の男御輿。まさにディオニソス的な祭ですね!
性器信仰は、やはり人間の根源だと思います。
人間の誕生の神秘。無から有。1から2.
生と死は、人間が抱えた神秘の原点だと思いますね~。
そこにこそ宗教の原点があると思います。
「沖縄 母たちの神 写真家・比嘉康雄のメッセージ」(2010-12-13)
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/77c72999ab83ad5bf8e526b0715c5ba3
NHKで沖縄の映像があって、久高島のイザイホー、宮古島のウヤガン。と言った古い祭りの映像がありました。
沖縄の信仰の元になっているのはシンプルで、
・人間は必ず女性から生まれるということ。
・人間は必ず老い、死ぬということ。
そこから沖縄の宗教文化が自然発生的に生まれたとのことでしたが、まさにここが人間の信仰の原点だと思いました。