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■「つながり」
ブログは、浅い層と深い層を、縦糸と横糸として織り込みながら書いている。
そうすると、ふと誰かの深い根っこにコツンと当たることがあるみたい。
心理学者のユングは、「集合的無意識」という名前で呼んでいた。
村上春樹さんだと「深い井戸での壁抜け」なのかな(「ねじまき鳥クロニクル」より)。
ひとは、ひと。
どんなひとでも、程度の差こそあれ、同じようなメカニズムで生きている。
呼吸をしている。心臓の鼓動をうっている。血が流れている。
だから、きっと深い場所でのつながりは何かしらあるのだろう。
奥深く、かすんでいて、よく見えない深い場所。
目を凝らしてもよく見えない深い場所。
耳を澄ますと聞こえてくる深い場所。
そこに「つながりがある」と考えるか、「つながりがない」と考えるか、それは考え方や立場の違いに過ぎないところもあるけれど、現実世界と向き合っていく態度としては、違う方向を向いているような気がする。
最終的には、いつのまにかに全く違う場所へと歩いて行っているのだろう。
個人的には、自分はそういう「つながり」のようなものを、浅い場所では難しいことがあっても、深い場所では強く信じている。
■揺りかごのように
人は、毎日寝て起きる。
意識の浅い層と深い層を定期的に行ったり来たりしてる。
縦糸と横糸。
浅い層ばかりを追求すると世俗的な方向に行きすぎる。
深い層ばかり追求すると、神秘主義に行きすぎる。
縦糸と横糸のバランスが崩れて出来た着物は、着ていても何とも着心地が悪い。
肩は凝り、腰は痛み、姿勢は悪くなる。
自然の仕組みは、寝ると起きるし、起きると寝る。朝が来ると夜が来て、夜が来ると朝が来る。そんなふうに交互に起きている。
揺りかごのように行ったり来たりと永久運動するのがいいのだろう。
(→参考:『深いところ』(2010-05-23))
■ブーメランのように
器。
(→参考:『器』(2010-09-11))
あるときに自分の器からこぼれてしまったもの。
「縁」があるのならば、それはブーメランのように大きな弧を描いて(その軌道は大きければ大きいほど、霞んでよく見えない)いづれ戻ってくるものだと思う。
あとは、その「時」を待てるかとうこと、ほんとうに戻ってきたときに今度はうまく受け止めてキャッチできるかということなのだと思う。
そのときまでに、自分の「器」が、強くしなやかで、やわらく美しいものに。
純粋に美的な観点だけから見ても美しい形をしていて、それでいて実用的で機能的で耐久性のあるもの。
いろんなものを受け入れやすくて、こぼれにくい器になっていることも、必要だ。
ブログは、浅い層と深い層を、縦糸と横糸として織り込みながら書いている。
そうすると、ふと誰かの深い根っこにコツンと当たることがあるみたい。
心理学者のユングは、「集合的無意識」という名前で呼んでいた。
村上春樹さんだと「深い井戸での壁抜け」なのかな(「ねじまき鳥クロニクル」より)。
ひとは、ひと。
どんなひとでも、程度の差こそあれ、同じようなメカニズムで生きている。
呼吸をしている。心臓の鼓動をうっている。血が流れている。
だから、きっと深い場所でのつながりは何かしらあるのだろう。
奥深く、かすんでいて、よく見えない深い場所。
目を凝らしてもよく見えない深い場所。
耳を澄ますと聞こえてくる深い場所。
そこに「つながりがある」と考えるか、「つながりがない」と考えるか、それは考え方や立場の違いに過ぎないところもあるけれど、現実世界と向き合っていく態度としては、違う方向を向いているような気がする。
最終的には、いつのまにかに全く違う場所へと歩いて行っているのだろう。
個人的には、自分はそういう「つながり」のようなものを、浅い場所では難しいことがあっても、深い場所では強く信じている。
■揺りかごのように
人は、毎日寝て起きる。
意識の浅い層と深い層を定期的に行ったり来たりしてる。
縦糸と横糸。
浅い層ばかりを追求すると世俗的な方向に行きすぎる。
深い層ばかり追求すると、神秘主義に行きすぎる。
縦糸と横糸のバランスが崩れて出来た着物は、着ていても何とも着心地が悪い。
肩は凝り、腰は痛み、姿勢は悪くなる。
自然の仕組みは、寝ると起きるし、起きると寝る。朝が来ると夜が来て、夜が来ると朝が来る。そんなふうに交互に起きている。
揺りかごのように行ったり来たりと永久運動するのがいいのだろう。
(→参考:『深いところ』(2010-05-23))
■ブーメランのように
器。
(→参考:『器』(2010-09-11))
あるときに自分の器からこぼれてしまったもの。
「縁」があるのならば、それはブーメランのように大きな弧を描いて(その軌道は大きければ大きいほど、霞んでよく見えない)いづれ戻ってくるものだと思う。
あとは、その「時」を待てるかとうこと、ほんとうに戻ってきたときに今度はうまく受け止めてキャッチできるかということなのだと思う。
そのときまでに、自分の「器」が、強くしなやかで、やわらく美しいものに。
純粋に美的な観点だけから見ても美しい形をしていて、それでいて実用的で機能的で耐久性のあるもの。
いろんなものを受け入れやすくて、こぼれにくい器になっていることも、必要だ。
それは、意識せずとも、自分に連なる血や地に起源することが多いと思う。
大丈夫だ!と叫ばせていただきます。
なんとなく、自分とか、成長とかのメタファーとして『器』を想像してしまう事が多いんですよね。日々、食事をとるときに使っているから刷り込まれているんでしょうか。
器を落として割れた時とか、あ、と思いますもん。
まあその年齢やその状況に応じて、自分の成長の課題ってのがありますから、日々成長するための修行か課題のようなものだと思ってます。