![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/bd/df2bf0d2195c23f77a635f55f1620d95.jpg)
さかなクンの、いじめられている子に向けたメッセージが素晴らしいので、話の中で自分はよく引用している。
狭い水槽に閉じ込めると、同じ魚同士でいじめが起きるということ。
(最後に引用)
■
さかなクンが伝えようとしていることは、自分がいる医療業界でも同じ。
同じ業界内で、互いが優劣を競いあい否定し合う関係は、狭い水槽に入っている魚の関係性と似たようなものに感じる。
ただ、どんなひとでも、誰かの役に立ちたい、という素直な感性でその仕事をはじめたはずだ、ということは信じている。
医療でもほかの業界でも、その世界を水槽のように狭く定義するのではなく、広く捉えていけばいい。それは決して難しいことではない。
自分の扱う世界の定義を広くすれば、当然自分だけでは手に負えなくなる。
だからこそ、自分のできる範囲でベストを尽くす。
その上で自分の限界を知る。
自分にないものを持っている人たちと敬意を持って協力する。
そんなに難しいことではない。
誰かの役に立ちたいと祈りながら、様々な形で活動している人たちが大勢いる。
ゆるやかにつながれば、狭い水槽ではなく広い大海原の視点でとらえていくことができる。
■
古代ギリシアの時代。
心や体に不調を訴える人がいたら、自然のある広場で運動をして、体をほぐす。温泉に入り、からだに身を委ねる。
そして、演劇や音楽などの芸術を体で体感して心にも栄養を与える。
そして、自然の溢れる場所で、からだにゆだね、眠り、夢を見る。夢の中で、メッセージを受け取り、そのメタファーをみんなと読み解きながら、また日常へ帰って行き、心身を整える。
メッセージの与え手をアスクレピオスのかみさまと人びとは呼んだ。それは、ある意味では内なる自分自身でもある。
ギリシアのエピダウロスや、コス島のアスクレペイオンにもちゃんと残っている。静かに、沈黙のメッセージとして。
ひとは総合的で全体的な存在であるからこそ、運動や温泉や演劇や音楽や芸術や眠りや神聖な存在など、広い概念で人間や医療をとらえていくことが求められている。
未来は、古代や現在とすべてつながっている。
古代は、そうして現代とつながり、未来へとつながることを求めているのを、感じる。
■
狭い水槽に閉じこもるのではなく、古代や未来もあらゆる叡智を含めた大海原へ。
どんな小さい池でも、川であっても、最後には大海原へとつながり、それは空ともつながり、ひとつの世界。
古事記や日本書紀で出てくる「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」の「天(あめ)」は、天(あめ)から雨(あめ)ができ、海(あめ、あま)になって、ひとつのつながっている巨大なものだったこと示唆していると思う。
万葉集や古典研究者の中西進先生の著作だったと思う。
「そら(空)」は実のない「虚」のことを言い、頭上に広がる茫漠たる空間。その「そら(空)」の上にはみづ(水)が満ちていて、それが「あめ(天)」。
かみさまは何もない「そら(空)」ではなく、「あめ(天)」にある高天原に住んでいる。
広大な「あめ(天)」がすべての人の上に広がっている。
そこから時おり、恵みのように水がこぼれ落ちてくる。
それを古代人は「あめ(雨)」とよび、みづ(水)が満ちた海を「あま(海)」と呼び、そこに生きる人々を「あま(海人)」とよんだ。
それはすべてひとつながり。
狭い水槽ではなく、海も天も雨もひとつながりの水という大きなシステム。
■
他の業界も、同じだと思う。
医療もそういう広い視野で捉えていきたい。
ヒントは古代にあるし、すべて存在している。
あとはそのバラバラのピースを、互いに持ち寄りながら、尊重し合いながら、大きな大きな大きな絵にしていくだけなんだろう。
その絵は、宇宙の視点から地球を見てはじめて、全体像が見える大きな絵なんだと思う。
********************
■
さかなクン、鴻上尚史、松井秀喜の「いじめられている君へ」が深いと話題に
http://matome.naver.jp/odai/2134162439182977101
■いじめ防止ネットワーク
http://www.ijimesos.org/message4.html
********************
広い海へ出てみよう/東京海洋大客員助教授-さかなクン
中一のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩が3年になってとたん、無視されてたこともありました。突然のことで、わけわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹をj仲間はずれにして攻撃し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると、残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも、仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。
学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話を聞いてあげたり、励ましたりできなかったけど、誰かが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは、変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。
大切な友達ができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んだりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。
広い空の下、広い海へ出てみましょう。
狭い水槽に閉じ込めると、同じ魚同士でいじめが起きるということ。
(最後に引用)
■
さかなクンが伝えようとしていることは、自分がいる医療業界でも同じ。
同じ業界内で、互いが優劣を競いあい否定し合う関係は、狭い水槽に入っている魚の関係性と似たようなものに感じる。
ただ、どんなひとでも、誰かの役に立ちたい、という素直な感性でその仕事をはじめたはずだ、ということは信じている。
医療でもほかの業界でも、その世界を水槽のように狭く定義するのではなく、広く捉えていけばいい。それは決して難しいことではない。
自分の扱う世界の定義を広くすれば、当然自分だけでは手に負えなくなる。
だからこそ、自分のできる範囲でベストを尽くす。
その上で自分の限界を知る。
自分にないものを持っている人たちと敬意を持って協力する。
そんなに難しいことではない。
誰かの役に立ちたいと祈りながら、様々な形で活動している人たちが大勢いる。
ゆるやかにつながれば、狭い水槽ではなく広い大海原の視点でとらえていくことができる。
■
古代ギリシアの時代。
心や体に不調を訴える人がいたら、自然のある広場で運動をして、体をほぐす。温泉に入り、からだに身を委ねる。
そして、演劇や音楽などの芸術を体で体感して心にも栄養を与える。
そして、自然の溢れる場所で、からだにゆだね、眠り、夢を見る。夢の中で、メッセージを受け取り、そのメタファーをみんなと読み解きながら、また日常へ帰って行き、心身を整える。
メッセージの与え手をアスクレピオスのかみさまと人びとは呼んだ。それは、ある意味では内なる自分自身でもある。
ギリシアのエピダウロスや、コス島のアスクレペイオンにもちゃんと残っている。静かに、沈黙のメッセージとして。
ひとは総合的で全体的な存在であるからこそ、運動や温泉や演劇や音楽や芸術や眠りや神聖な存在など、広い概念で人間や医療をとらえていくことが求められている。
未来は、古代や現在とすべてつながっている。
古代は、そうして現代とつながり、未来へとつながることを求めているのを、感じる。
■
狭い水槽に閉じこもるのではなく、古代や未来もあらゆる叡智を含めた大海原へ。
どんな小さい池でも、川であっても、最後には大海原へとつながり、それは空ともつながり、ひとつの世界。
古事記や日本書紀で出てくる「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」の「天(あめ)」は、天(あめ)から雨(あめ)ができ、海(あめ、あま)になって、ひとつのつながっている巨大なものだったこと示唆していると思う。
万葉集や古典研究者の中西進先生の著作だったと思う。
「そら(空)」は実のない「虚」のことを言い、頭上に広がる茫漠たる空間。その「そら(空)」の上にはみづ(水)が満ちていて、それが「あめ(天)」。
かみさまは何もない「そら(空)」ではなく、「あめ(天)」にある高天原に住んでいる。
広大な「あめ(天)」がすべての人の上に広がっている。
そこから時おり、恵みのように水がこぼれ落ちてくる。
それを古代人は「あめ(雨)」とよび、みづ(水)が満ちた海を「あま(海)」と呼び、そこに生きる人々を「あま(海人)」とよんだ。
それはすべてひとつながり。
狭い水槽ではなく、海も天も雨もひとつながりの水という大きなシステム。
■
他の業界も、同じだと思う。
医療もそういう広い視野で捉えていきたい。
ヒントは古代にあるし、すべて存在している。
あとはそのバラバラのピースを、互いに持ち寄りながら、尊重し合いながら、大きな大きな大きな絵にしていくだけなんだろう。
その絵は、宇宙の視点から地球を見てはじめて、全体像が見える大きな絵なんだと思う。
********************
■
さかなクン、鴻上尚史、松井秀喜の「いじめられている君へ」が深いと話題に
http://matome.naver.jp/odai/2134162439182977101
■いじめ防止ネットワーク
http://www.ijimesos.org/message4.html
********************
広い海へ出てみよう/東京海洋大客員助教授-さかなクン
中一のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩が3年になってとたん、無視されてたこともありました。突然のことで、わけわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹をj仲間はずれにして攻撃し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると、残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも、仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。
学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話を聞いてあげたり、励ましたりできなかったけど、誰かが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは、変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。
大切な友達ができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んだりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。
広い空の下、広い海へ出てみましょう。
ごくごく狭い社会なのに、なぜあちこちに派閥と対立があるのか、理解できずにいました。
この1ヶ月半は、混乱し、あちこちで感情がうずまいている状況を、微力ながらも先生がおっしゃるような状態に整えたくて、ときには厳しいことも伝えたりしながら、それでもその根底には、「人に対する愛情と敬意」を持って改革に協力させていただいてきたつもりです。
おかげさまで、そうした心労も次第に報われ始めました。 ありがたいことです。 ただ、願わくば、そのような心労を抱えることなく、「意識を大きく」持って「それそれが向上心と互いへの敬意と、日々の暮らしのなかに幸せを感じるこころ」を忘れずにと願っています。
ながながとすみません。つい、最近の思いのたけが。。。いつもありがとうございます。感謝しています!
一度落ち込んだのですが、
そういう風に傷ついた時は、普通のことが
とてもやさしく感じられ、
この、なんてことのないことを、とても大切に思えるように
あの子は会いに着てくれたのかなあ? と
思ったのでした。
落ち込んでも、子どもや友達のことを考えると
やっぱり元気が出てきます。
しかし、年々相談に来る人の相談が
ディープになってくるのは加齢のせいなんでしょうか。
あんまり大きなショックを受けたので心が一度しぼんだのですが、その日は仕事で73歳のおじいちゃんおばあちゃん35人を相手にお話しなければならなかったので、腹の底から力を出して、逆におじいちゃんのエネルギーを貰ってきちゃいました☆
じいさんパワーで今日も、がんばります~!(^O^)p
そうですね。
常に学ぶことはありますねー!
自分は、やはり日々展開していく現実世界の中に学びがあると思いますね。
からだ・こころの反応と、人間関係、という中には、膨大に自分が学ぶべき事柄があると思っています。
そういう意味で、自分がいる現場では、日々学習することばかりです。。。(^^;
学びが完全に終了すれば、自然にその場から離れていくんでしょうねぇ。不思議なものです・・・。
>スイッチ様
そうですね。それは自分も感じますね。
どんどん本質的な問いに近づいているのかもしれませんよね。表面的な操作をすれば解決するような問いといううよりも、より根源的な問いというか。
ひとはなぜ生きるのか、なんのために生まれてきたのか、というような避けては通れない問いが、人間にはありますよね。
ただ、陰極まって陽に転じる、ということもありますし、悩みが深ければ深い程、解決した時の世の中に爆発して飛び出ていくのもすごいのではないかと思います。
スイッチさんの言うように、僕らはお年寄りから多くの事を学べると思いますね。
いろいろなことがあったけど、結果的に70年も80年も生きているんだ!という、長く生きている人だけが発することができる存在の力から、多くの事を学べるような気がします。(^^
本読んでても、スイッチさんのご家族もほんとすごいですよね!
つい最近も「学びが完全に終了すれば、自然にその場から離れていくんでしょうねぇ。不思議なものです・・・。」
と、思うような経験を致しました。そのように意識する前の時代は、「離れる」ことに対する「恐れ」があったのですけれど、
いまは逆に「いろいろと学ばせていただいて、当事者のみなさま、全ての起こった状況にありがとうございます」という感謝とともに、その「学び」を卒業させていただくようにしています。
すると、空いたスペースに、また新たな心地よい息吹が吹いてきて、「ああ、卒業して、次のステージに行く」ということはこういうことなのかと感じています。
いつも貴重なご教示ありがとうございます。
私自身も「1」ではなく、「1」の背景にある「99」を意識せねばと思わせられることについ最近も遭遇し、反省していたところでした。
そうですね。
やはり守破離というものがあるようですね。
守り、破り、離れる、、、
この繰り返しのようですね。日本の武道や道の奥義というのはなんとも深いものです。(^^