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いまさらなことを言いたいと思う。
いまさらだけど、わしは「考える」のが趣味で、そしてすごく好きなんだと改めて気づいた。
「考える」ってのは、「思う」とか「感じる」とか「祈る」とか「悩む」とか、その辺と同じ地平にあって、同じようなカタマリで、光の当て方が違うと違う名前に変化しちゃうだけで、ほとんど仲間のようなもんだと思う。
人間って、基本的にいつも何か「考える」んだと思うけど、全て考え出すとキリがないんで、どこかで区切りをつけて、そこを省略しながら生きていかないといけない。
一日の営みを例にしましょう。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
((((太陽が昇り、朝の目覚め))))
・寝てるときに夢を見る。夢?→まるで謎の世界。
・寝る?→なぜ寝ないといかんのかよくわからん→謎。
・それはともかく、朝目覚めがいい日と目覚めが悪い日がある→謎。
・起きて、歩く→何故こんな複雑な動作ができるのかよくわからん→謎。
・歩いて腹が減ったのを自覚する→何故腹が減らないといけないのかよくわからん→食べて出してを繰り返す人生の謎。
(果てしないので中止)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
もう書いてて頭狂いそうになってくるけど、もう全てが謎に満ちていることばかり。
哲学って、えらく難しい言葉にあふれてて偉そうな場所に鎮座しとらすけど、結局は、こういうあらゆる謎のことを昔の人も考えてたってだけなんじゃないのかなぁ?
何故人は生きるのかとか、人類はどこに向かうのかとか、宇宙の始まりはとか、何故恋をするのかとか、何故自分は自分でしかないのかとか、死後の世界は何もないのかとか、時間って何かとか、素粒子とかのさらに小さい世界とかって極限はあるのかとか、逆に極大の世界は宇宙よりもさらに大きいのかとか・・・・・・もう謎ばかりなんだけど、それを言語という制約ある表現手段で表現してみましたよーっていうノリが哲学なのだろうと思う。
一つ一つを全部考えながら生きていると、非常に生き辛い。
陸地にいながら窒息死しそうになる。
ということで、ある程度省略しながら日々生活していくわけです。
そうして、太陽が昇り、太陽が沈み、1日は終わる。終わったら始まりで、また1日が始まる。
と思いきや、太陽が沈んだのは日本だけで、ほかの国では同じ時間に太陽が昇ってたり、太陽は全然沈まず一日中昼だったりしとるわけです。世界は多様。というか、わが身一つではほとんど理解不能。真面目に考え出すと混乱の無限空間に放り出されちゃうわけです。
ということで、またある程度省略しながら生活していくという話に戻るわけです。
だからと言って、完全にファンタジーとか完全に妄想の世界に浸るっていうのも、なんか現実の世界から逃げているようで、あまり納得できない。
じゃあ、どういう落しどころで落ち着くかというと、
「考えることを、単なる趣味ってことにすればいいんじゃないか」
となるに至ったわけです。
趣味のノリで、ちょっとした空き時間を有効利用するものとして、「考える」営みを継続していく。だから、わしにとって「考える」のは趣味なんだ!と思うに至った。
あと、自分でこれは趣味の領域だなーって他に思うジャンルは、「話す」「歌う」。これも趣味です。「考える」のと同じように、何時間でも何日でも何ヶ月でもできる。繰り返しにも耐えうるし、一つのものがまた別のものを生むので、有限のようなんだけど、もう無限に続いていく。
もちろん、自己紹介とか求められて、『いなばさん、趣味は何ですか?』って聞かれたときに『考えたり話すこと趣味でーす。ホヨヨ。』とか言うと、不思議少年と思われるおそれがあるので、『まあ音楽鑑賞とかマンガとかテレビでしょうか。』って答えとるわけですけどね。
そういうことで、ちょっと空き時間あれば、趣味として、有効な余暇の利用法として、何か考えてる日々なわけです。
でも、これってみなさん同じじゃなかろうか。それを意識するか、無意識の領域に押しやって蓋をしちゃうかの違いなだけだと思う。
誰もが、日常とか、生活とか、仕事とか、自然とか、環境とか、風景とか、テレビとか・・・いろんなものを見ると、勝手に何か考えてたり思ったりするもんだけど、そんなことしてるとキリないから無意識に押しやって気づかない振りしてるだけなんじゃなかろうか。絶対同時にそこにあるはずなんだけど、気づかない振りしてるだけ。
それは、ある意味、生き易くするための生活の知恵でもあるかもしれん。
でも、その生きやすさの代償に、失っているものがいかに多いか!ってことにも気づいてしまった。
自分は、「考える」営みを意識していて、その意識しているという点において、趣味たらしめてるんだなぁと。だから、意識してるか、無意識かってだけが違いなんだろうと思う。
・・・・・
とりあえず、最近は「考える」ことの魅力というか面白さを再発見してしまっています。
29歳になったから、人生の区切りとして雪崩現象のようにそうなってるのかもしれませんけどね。人間に組み込まれた仕掛けなのかなぁ。そこに気づいてしまったからには、存分に味わいつくさずにはおれないのです。
しかも、考えるって結構いい効果を生むことが多くて、ちょい前のブログで《イイものをイイと言うこと》って書いたけど、「イイもの」を考え出すと、その人や物が持つ魅力とか奥深さとかがドンドンわかってきて、さらに「イイ!」って見い出すことができるんですよ。自己増殖しちゃうというか・・・。
これは「ワルイ」とか「ネガティブ」ってのも同じ仕掛けがあることに気づいた。それは一種の罠なんです。罠は気づくだけで十分で、その罠にあえて身を飛び込む必要はない。一度その罠にはまって痛い辛い思いをした人が、その罠自体に気づいて、そこを注意しながら生きていくプロセスを堪能すればいいのです。
もちろん、人間は完璧ではないので、その罠に注意してても罠にはまっちゃうこともあります。それはしょうがない。それはそれとして諦めて、そんな人間である自分も認めてしまえ!ってことですかね。
たいてい、その罠って自分ひとりでは脱出することは困難で、他者からヨッコラショって引き上げてもらって、その勢いを利用しつつ、最後の一踏ん張りを自分の力でするっていう流れがほとんどだと思います。
文章で記述すると、えらい大袈裟になったけど、そういうことを、ふと考えました。(今回は比較的短めに抑えてみた)
いまさらだけど、わしは「考える」のが趣味で、そしてすごく好きなんだと改めて気づいた。
「考える」ってのは、「思う」とか「感じる」とか「祈る」とか「悩む」とか、その辺と同じ地平にあって、同じようなカタマリで、光の当て方が違うと違う名前に変化しちゃうだけで、ほとんど仲間のようなもんだと思う。
人間って、基本的にいつも何か「考える」んだと思うけど、全て考え出すとキリがないんで、どこかで区切りをつけて、そこを省略しながら生きていかないといけない。
一日の営みを例にしましょう。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
((((太陽が昇り、朝の目覚め))))
・寝てるときに夢を見る。夢?→まるで謎の世界。
・寝る?→なぜ寝ないといかんのかよくわからん→謎。
・それはともかく、朝目覚めがいい日と目覚めが悪い日がある→謎。
・起きて、歩く→何故こんな複雑な動作ができるのかよくわからん→謎。
・歩いて腹が減ったのを自覚する→何故腹が減らないといけないのかよくわからん→食べて出してを繰り返す人生の謎。
(果てしないので中止)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
もう書いてて頭狂いそうになってくるけど、もう全てが謎に満ちていることばかり。
哲学って、えらく難しい言葉にあふれてて偉そうな場所に鎮座しとらすけど、結局は、こういうあらゆる謎のことを昔の人も考えてたってだけなんじゃないのかなぁ?
何故人は生きるのかとか、人類はどこに向かうのかとか、宇宙の始まりはとか、何故恋をするのかとか、何故自分は自分でしかないのかとか、死後の世界は何もないのかとか、時間って何かとか、素粒子とかのさらに小さい世界とかって極限はあるのかとか、逆に極大の世界は宇宙よりもさらに大きいのかとか・・・・・・もう謎ばかりなんだけど、それを言語という制約ある表現手段で表現してみましたよーっていうノリが哲学なのだろうと思う。
一つ一つを全部考えながら生きていると、非常に生き辛い。
陸地にいながら窒息死しそうになる。
ということで、ある程度省略しながら日々生活していくわけです。
そうして、太陽が昇り、太陽が沈み、1日は終わる。終わったら始まりで、また1日が始まる。
と思いきや、太陽が沈んだのは日本だけで、ほかの国では同じ時間に太陽が昇ってたり、太陽は全然沈まず一日中昼だったりしとるわけです。世界は多様。というか、わが身一つではほとんど理解不能。真面目に考え出すと混乱の無限空間に放り出されちゃうわけです。
ということで、またある程度省略しながら生活していくという話に戻るわけです。
だからと言って、完全にファンタジーとか完全に妄想の世界に浸るっていうのも、なんか現実の世界から逃げているようで、あまり納得できない。
じゃあ、どういう落しどころで落ち着くかというと、
「考えることを、単なる趣味ってことにすればいいんじゃないか」
となるに至ったわけです。
趣味のノリで、ちょっとした空き時間を有効利用するものとして、「考える」営みを継続していく。だから、わしにとって「考える」のは趣味なんだ!と思うに至った。
あと、自分でこれは趣味の領域だなーって他に思うジャンルは、「話す」「歌う」。これも趣味です。「考える」のと同じように、何時間でも何日でも何ヶ月でもできる。繰り返しにも耐えうるし、一つのものがまた別のものを生むので、有限のようなんだけど、もう無限に続いていく。
もちろん、自己紹介とか求められて、『いなばさん、趣味は何ですか?』って聞かれたときに『考えたり話すこと趣味でーす。ホヨヨ。』とか言うと、不思議少年と思われるおそれがあるので、『まあ音楽鑑賞とかマンガとかテレビでしょうか。』って答えとるわけですけどね。
そういうことで、ちょっと空き時間あれば、趣味として、有効な余暇の利用法として、何か考えてる日々なわけです。
でも、これってみなさん同じじゃなかろうか。それを意識するか、無意識の領域に押しやって蓋をしちゃうかの違いなだけだと思う。
誰もが、日常とか、生活とか、仕事とか、自然とか、環境とか、風景とか、テレビとか・・・いろんなものを見ると、勝手に何か考えてたり思ったりするもんだけど、そんなことしてるとキリないから無意識に押しやって気づかない振りしてるだけなんじゃなかろうか。絶対同時にそこにあるはずなんだけど、気づかない振りしてるだけ。
それは、ある意味、生き易くするための生活の知恵でもあるかもしれん。
でも、その生きやすさの代償に、失っているものがいかに多いか!ってことにも気づいてしまった。
自分は、「考える」営みを意識していて、その意識しているという点において、趣味たらしめてるんだなぁと。だから、意識してるか、無意識かってだけが違いなんだろうと思う。
・・・・・
とりあえず、最近は「考える」ことの魅力というか面白さを再発見してしまっています。
29歳になったから、人生の区切りとして雪崩現象のようにそうなってるのかもしれませんけどね。人間に組み込まれた仕掛けなのかなぁ。そこに気づいてしまったからには、存分に味わいつくさずにはおれないのです。
しかも、考えるって結構いい効果を生むことが多くて、ちょい前のブログで《イイものをイイと言うこと》って書いたけど、「イイもの」を考え出すと、その人や物が持つ魅力とか奥深さとかがドンドンわかってきて、さらに「イイ!」って見い出すことができるんですよ。自己増殖しちゃうというか・・・。
これは「ワルイ」とか「ネガティブ」ってのも同じ仕掛けがあることに気づいた。それは一種の罠なんです。罠は気づくだけで十分で、その罠にあえて身を飛び込む必要はない。一度その罠にはまって痛い辛い思いをした人が、その罠自体に気づいて、そこを注意しながら生きていくプロセスを堪能すればいいのです。
もちろん、人間は完璧ではないので、その罠に注意してても罠にはまっちゃうこともあります。それはしょうがない。それはそれとして諦めて、そんな人間である自分も認めてしまえ!ってことですかね。
たいてい、その罠って自分ひとりでは脱出することは困難で、他者からヨッコラショって引き上げてもらって、その勢いを利用しつつ、最後の一踏ん張りを自分の力でするっていう流れがほとんどだと思います。
文章で記述すると、えらい大袈裟になったけど、そういうことを、ふと考えました。(今回は比較的短めに抑えてみた)
きょうも考えていらっしゃるのですね
考える ってのは
ある対象があって、その対象と自分とに距離?をとって、その距離を言葉でつないでいく
ってことなのかな
したら わたしは
感じとる ことをやってることが多いのかな
たぶんそうかな
感じとる ってなんだろう
ってのを 考える うちに
あたまがぎゃおー ってなるので
ちゃおー
ふるいえゆうり でした。
ゆるりさんでわかりますよ!プロジェクト大山っこさん!
きっと、わしのブログ読んでる人なら、ああいう踊りを生活の中心に据えている人の世界ってすごく興味津津だと思う。
というのも、わしもIs氏もそうだけど、ドップリと言語の住民で、意味の住民だから!
でも、この世にはいろんな世界があって、ゆるりさん達の踊りは、自分の小さい世界の幅をグッと広げてくれた。いろんなものを勝手に得て、勝手に持って帰っちゃいました。
ブログにコメント書くのって、それなりに勇気いると思うんですけど、そこを超えてくれたってのは嬉しい!酒井法子風に言うとマンモスウレP!キャー!って感じ。
踊りの人が言語で書き込むのってむずがゆいと思うんですよね。僕らのような言語世界の住人でも、使いこなせなくてむずがゆいんですから。
だからこそ言語で書き込んでくれたことが嬉しいね。でも、そういう世界の人って、言語に執着してないからこそ、すごくいい言の葉を紡ぐことが多いのも事実なんです。鋭いとこをビンビンついてくる。
ゆるりさんが言う
『考えるってのはある対象があって、その対象と自分とに距離?をとって、その距離を言葉でつないでいく』ってこと、かなり近いですね。流石鋭い。流れる石で流石です。
『距離』ってのはかなり大事な概念ですね。そういう距離感ってかなり謎が含まれてる。
ゆるりさんの指摘に喚起されて
『考えるってのは、謎と謎の距離を感じ、それを言語で結んでみたこと』とも言えるかも。
そうなると、ゆるりさんたちの踊りも、
『謎と謎の距離を感じ、それを踊りで結んでみたこと』とも言える気もする。
いやー。いろいろ喚起されるなー。踊り見ただけでこんなに自分の世界観の幅がグッと広がるとは思ってもみなかった。出会いは大事。
舞踏を確立した大野一雄さんとか土方巽さんとか、踊りをやってる人たちの表現って、非言語なんだけど、かなり前衛的で普遍的なことやってるよね。そのほかの人も含め、あんな広大な世界が広がっているって、意識しなかったなぁ。無意識に追いやってたんだろうなぁ。そういう意味でいい出会いは大事だし、出会い自体をイイと思えるかってこと自体が大事だー。
先日、ネクタイ巻いてた方です。
いなばさんの言うとおり、
ホント、
言葉にしてしまうと、そのままだけど、
僕も、「考える」ことが好きなんだなー。
前に、劇作家の山崎正和さんの「教養論」みたいのを書いたけど、
http://blog.livedoor.jp/daiyoji/archives/64940204.html
そこで、山崎さんは、
「説明」は偉そうで嫌だけど、
「了解」ってのは、多様性を認めて、
かつ、「現実と親しむ」って言っていて、この表現は、僕らが、異常に意味的で言葉に惹かれる感覚を上手く拾い上げてくれてる気がする。戯れたいのですね。
でも、多分、そうした言葉を使って世界と戯れたいっていう欲望自体も、
「考える」前に「感じる」ことからわき上がってくるのだと思う。
(社会学者の大家・見田宗介さんもそういった意味で、感じることや「勘」を何よりも重要視する。)
ちなみに、先日、安室ちゃんの(僕は安室ちゃんの大ファンです)ライブに行ってきたのですが、ビンビン感じまくってきました(笑)。大好きな人を前にすると純になって、エラそうな「自我」が崩れる感じが良いですね。
ゆるりさんとか、ポップミュージックとか、その周辺のダンスとか、どう捉えてるのかとかも、今度、ゼヒ聞きたいです。
そういえば、わしはネクタイ巻いてなかった方です。
>>IS
「考える」ことってかなり面白いよね。
なんとか布教していきたい。
ほんとはみんなやってるORやってたんだけど、時間効率性とかを追求しすぎると、そこは容易に疎かになっちゃうんだよねー。
確かに、「現実と親しむ」ために教養を得るってのはなんとなくわかるかも。
なんか現実をよそよそしい他人行儀な感じで扱うよりも、自分の友人と同じような感じで日々と親しみたいよね。愛着も湧くし。
確かに、Is、ゆるりさんがご指摘のように「考える」手前に「感じる」ことがある気がする。
わしは、ほぼ感じる→考えるが直結しちゃってるかもしれん。もちろん、少し時間のタイムラグがある時も多いけどね。大自然のすごさを感じた時も、その直後は何も考えれないほどの衝撃を受けるんだけど、ふと情景を思い出したりするとき、あの体験は何なんだろう?って考えちゃうよね。別に解答なんて勿論ないんだけど、その考えるプロセス自体がさらに濃密に深みを帯びるというか。
大好きな人を前にすると「自我」が崩れるってのはその通り!素直になれるよね。俺も手塚治虫の漫画読むときとかそうだもん笑 昨日改めて<火の鳥 鳳凰編>読んでみたけど、もうすごいすごい。前読んだときより更に深みが増したよ。
ダンスとか踊りとかってすごく世界が広いんだと思うけど、その辺もゆるりさんの眼差しは聞いてみたいなぁ。
まあ、結局はジャンルとか問わず、イイものはイイ!ってことになっちゃうのかもしれんけどね。ゆるりさんが、フラメンコも好きって言ってくれてうれしかったー。わしもあの踊り、情熱的で官能的で、すごく露骨なんだけど、好きなのよ~。
考えることを改めて考えてみるというのはいいことだよね。
ぼくは、ここのところ大自然のインパクトや少し将来のことも考えながら、思い、感じ、考えることを自分に向けて行ってます。
真っすぐな自分のことを、一番ぶつけられるのはまずは自分ですからね。
今日は100人規模の忘年会があって、それなりにクリエイティブで楽しかったんだけど、楽しむことを期待されている場の盛り上がりに少し疲れるね。
家に帰っても、なんか落ち着かなくて、夜中の12時にやっぱり今日欲しいと思って五反田まで夜の散歩がてら行ってSUPER MARKET FANTASYを買ってきて、じっくり感じてます。
最近、少し自分の中での対話が多い気がするので、また今度会って話そう!
追伸
我王の話は、ぼくも一番好きです。
久し振り!
確かに、アラスカ紀行はよくブログに読みに行ってましたが、ここでの書き込みはおひさですね。
アラスカから日本帰って、その環境の変化がすごいと思うんだけど、それもまた日本を見直すとこもあるんだろうね。
アラスカなんて行っちゃうと、また世界観がグンと広がるんだろうなー。自分が大切なものが確信に変わり、内面にグンと深くなる漢字と、自分以外の世界の外側に向けてグンと広がる感じ。
旅する時の鮮烈な印象ってそんな感じだよねー。この辺はまた話したい!
>考えることを改めて考えてみる
そう指摘されて確かにそうだと思った。
今回の文章は考えることを考えてたね。そして、今それをまた考えてるから、考えるを3重にかさねとるわけですな。
これを見て人が考えればそれが4層になって・・・、果てしない。
でも、感じ、考える営みって、そういう層構造になってて折り重なるんだろうなー。
ミルフィーユと同じ?
>楽しむことを期待されている場の盛り上がり
ってなんか分かるわー。
過剰に意図が介入していると、なんかその思惑というか、予定調和的な楽しさが疲れるのよね。
楽しい時間って、ほんとクラクラするほど濃密な時間で、それが終わった後も数日は余韻を楽しめる。
お互いが何か新しいものを生み出そうとして、それを話している瞬間なんて、すごく至福な時間!
わしももちろん、ミスチルのNewAlbumのSUPER MARKET FANTASY買ったよー。
歌声がやさしいなー。
話してて、「あ、この人の声ってほんとやさしいなー」って思うことがしばしばあるんだけど、そういう感じがする。
不思議なんだけど、別にいい声だとかそういうんじゃなくて、すごく優しい声してる人って、そう感じちゃうんだよねー。
とりあえずの今度は土曜にで話しましょう!それで足りなければまた別の日に持ちこし。それで足りなければさらに別の日に持ち越し!
P.S.
<火の鳥 鳳凰編>って凄まじい話だよね。あの一冊だけで古典になるよ。間違いなく。