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ダム問題。
4600億かかるダム建設に、長い時間かけて既に3000億近く投資していて、今から中止にするかどうかという話。
行っても戻っても茨の道。
時間が経てば経つほど、世代も変わり、時代も変わり、色んなものがどんどん変わっていく。
ダムのように自然に手を入れるのは、その土地に住み着いていた人たちを追い出すということで、先祖代々住んでいた土着を断ち切ってしまうということ。
縄文時代も含め、住んでいた人たちの地層にしみ込んだ長い歴史を人為的に打ち切る。
自然の川の流れ、木や森の全体と部分、動物や昆虫や魚の生きた歴史で調和した、絶妙な関係性を人為的に暴力的に崩すわけである。
Googleとかの航空写真で、日本地図をなんとなく俯瞰的に見ていると、人間が自然を開発して侵食していっている様子が非常によく分かる。
長い時間かけてコツコツと山を崩し、野を開き、木や森を崩して、文明化してきた。よくぞここまでと思ってしまう。
古来、日本人は家を建てるのに竹や木材を多用して、まるでその場にあった自然を再現するように住宅を建てていた。今のようにコンクリートで直線の造形物を立てるようになったのはここ最近なのだと思える。
昔から古民家とか萱葺き屋根とかが個人的に好きです。
別に懐古趣味というわけではなく、人為的に自然を破壊して作り変えた代償に、自然を習い模倣して住んでいた人々の心のありようが好きなのです。そこには暴力性を何故かあまり感じません。
そして、ダム問題は部分と全体の問題からも考えないといけない。
部分と全体の関係性をどう切り取るかで、ダムのあり方は大きく変わりうる。
日本の狭い国土とダム、自然のあり方とダム、水問題とダム、エネルギー問題とダム、税金の使い道とダム、各県の思惑とダム、地元住民とダム、経済問題とダム、動物や植物や魚の生態系とダム・・・・・・・
何を全体と置いた上でダムとの関係性と捉えるか。ダムのあり方はいくらでも議論されうる。
テレビを見ていると、そこをわざと混乱させることで議論を煙に巻いている気がする。そのズルサが透けて見える。
ダム建設で財布が潤った人たちがいっぱいいる。
財布を潤わせた人たちも、自分の思い出が染み付いた自然だったり、自分の生まれ故郷だったら、そこがダムと置き換えられる時の対応はきっと違うはず。
自分の問題として捉えることを意図的に放棄することで、感覚も放棄することができる。無感覚になると、嫌な意味で強固な存在になる。
原発、ごみ処理場、産業廃棄物処理場、火葬場、刑務所・・色んな施設を作るときも、自分の問題か他人の問題かで大きく異なる。
こういうダム問題の大事業は、単に氷山の一角であって、税金をマネーロンダリングのように、右から左へと湯水のように流しているのだろう。
その手法は、近代の金融工学で学んだ資本主義の負の遺産なのかもしれない。
そういう構図は誰もが薄々気付いている。きっと昔から、権力をもった自意識にまみれた人間は、錬金術のような手法ばかり考えて一生を終えていた。
ただ、あまりに色んな人が共犯の関係になるように、わざと複雑な網の目を張っているから、なかなか白日の下に晒されない構図にさせている。
そういう風に、いつのまにか共犯関係にさせていく構図は、色んな世界で起こりうる常套手段なので、僕らはそんなことに敏感でないといけない。そこに怒りの感情が湧くのはごく自然である。その感情のやり場に困っているだけだ。
日本においての自然と人間のあり方を、ロハスとかエコとか・・・外来語で言い換えて無感覚にするのではなくて、これを機に真剣に向き合うきっかけになればいい。
都市世界やバーチャルな世界だけで脳や意識を中心に生きていると、僕らを根底で支える自然の凄さに気付かない。
自然は究極に美しく、そして極限までに恐ろしい。
そんな両極をもった自然と共に生きたり、自然と直接つながりながら生きていると、自然への姿勢はおのずから決まってくる。
そして、僕らが普段から使っている肉体・「からだ」は、自然の造形物そのもの。人為が入っていない。
肉体やからだを意識しながら生きて生活することは、自然と毎日向きあいながら生きることと同じことだと思う。
東京では、外に目を向けても直線世界の都市に満ちていて、曲線世界の自然が少なくなっているは事実。
ただ、自分の内部・「からだ」に目を向けさえすれば、大自然の一部が現にここにあって、生まれてから死ぬまで24時間365日、自分は自然と共存しているという当たり前の事実に気付く。
そこから逃げて、在るのに見ない振りをして、意識や精神だけを重視していくと、暴力的に自然を破壊する方向へと容易に流れていく。それは、自分の「からだ」を暴力的に破壊して疎そかにする行為と、ほぼパラレルに起きるのだと思う。
自然を大切にする。
からだを大切にする。
実は同じような現象なのだと思うわけです。
自然もからだも、頑丈で強固で無意識に調和がとれている。
その調和が破壊されて、不調和が眼に見えてから気づいても、諸々の事柄が既に遅いと思うのです。
4600億かかるダム建設に、長い時間かけて既に3000億近く投資していて、今から中止にするかどうかという話。
行っても戻っても茨の道。
時間が経てば経つほど、世代も変わり、時代も変わり、色んなものがどんどん変わっていく。
ダムのように自然に手を入れるのは、その土地に住み着いていた人たちを追い出すということで、先祖代々住んでいた土着を断ち切ってしまうということ。
縄文時代も含め、住んでいた人たちの地層にしみ込んだ長い歴史を人為的に打ち切る。
自然の川の流れ、木や森の全体と部分、動物や昆虫や魚の生きた歴史で調和した、絶妙な関係性を人為的に暴力的に崩すわけである。
Googleとかの航空写真で、日本地図をなんとなく俯瞰的に見ていると、人間が自然を開発して侵食していっている様子が非常によく分かる。
長い時間かけてコツコツと山を崩し、野を開き、木や森を崩して、文明化してきた。よくぞここまでと思ってしまう。
古来、日本人は家を建てるのに竹や木材を多用して、まるでその場にあった自然を再現するように住宅を建てていた。今のようにコンクリートで直線の造形物を立てるようになったのはここ最近なのだと思える。
昔から古民家とか萱葺き屋根とかが個人的に好きです。
別に懐古趣味というわけではなく、人為的に自然を破壊して作り変えた代償に、自然を習い模倣して住んでいた人々の心のありようが好きなのです。そこには暴力性を何故かあまり感じません。
そして、ダム問題は部分と全体の問題からも考えないといけない。
部分と全体の関係性をどう切り取るかで、ダムのあり方は大きく変わりうる。
日本の狭い国土とダム、自然のあり方とダム、水問題とダム、エネルギー問題とダム、税金の使い道とダム、各県の思惑とダム、地元住民とダム、経済問題とダム、動物や植物や魚の生態系とダム・・・・・・・
何を全体と置いた上でダムとの関係性と捉えるか。ダムのあり方はいくらでも議論されうる。
テレビを見ていると、そこをわざと混乱させることで議論を煙に巻いている気がする。そのズルサが透けて見える。
ダム建設で財布が潤った人たちがいっぱいいる。
財布を潤わせた人たちも、自分の思い出が染み付いた自然だったり、自分の生まれ故郷だったら、そこがダムと置き換えられる時の対応はきっと違うはず。
自分の問題として捉えることを意図的に放棄することで、感覚も放棄することができる。無感覚になると、嫌な意味で強固な存在になる。
原発、ごみ処理場、産業廃棄物処理場、火葬場、刑務所・・色んな施設を作るときも、自分の問題か他人の問題かで大きく異なる。
こういうダム問題の大事業は、単に氷山の一角であって、税金をマネーロンダリングのように、右から左へと湯水のように流しているのだろう。
その手法は、近代の金融工学で学んだ資本主義の負の遺産なのかもしれない。
そういう構図は誰もが薄々気付いている。きっと昔から、権力をもった自意識にまみれた人間は、錬金術のような手法ばかり考えて一生を終えていた。
ただ、あまりに色んな人が共犯の関係になるように、わざと複雑な網の目を張っているから、なかなか白日の下に晒されない構図にさせている。
そういう風に、いつのまにか共犯関係にさせていく構図は、色んな世界で起こりうる常套手段なので、僕らはそんなことに敏感でないといけない。そこに怒りの感情が湧くのはごく自然である。その感情のやり場に困っているだけだ。
日本においての自然と人間のあり方を、ロハスとかエコとか・・・外来語で言い換えて無感覚にするのではなくて、これを機に真剣に向き合うきっかけになればいい。
都市世界やバーチャルな世界だけで脳や意識を中心に生きていると、僕らを根底で支える自然の凄さに気付かない。
自然は究極に美しく、そして極限までに恐ろしい。
そんな両極をもった自然と共に生きたり、自然と直接つながりながら生きていると、自然への姿勢はおのずから決まってくる。
そして、僕らが普段から使っている肉体・「からだ」は、自然の造形物そのもの。人為が入っていない。
肉体やからだを意識しながら生きて生活することは、自然と毎日向きあいながら生きることと同じことだと思う。
東京では、外に目を向けても直線世界の都市に満ちていて、曲線世界の自然が少なくなっているは事実。
ただ、自分の内部・「からだ」に目を向けさえすれば、大自然の一部が現にここにあって、生まれてから死ぬまで24時間365日、自分は自然と共存しているという当たり前の事実に気付く。
そこから逃げて、在るのに見ない振りをして、意識や精神だけを重視していくと、暴力的に自然を破壊する方向へと容易に流れていく。それは、自分の「からだ」を暴力的に破壊して疎そかにする行為と、ほぼパラレルに起きるのだと思う。
自然を大切にする。
からだを大切にする。
実は同じような現象なのだと思うわけです。
自然もからだも、頑丈で強固で無意識に調和がとれている。
その調和が破壊されて、不調和が眼に見えてから気づいても、諸々の事柄が既に遅いと思うのです。
自分の身体は自然の一部であるという発想に、新たな視点を持てた気がしました。朝から、少し衝撃でした。
それと同時に、いくつかのことを納得していました。
まず、自分は自然が好きだということ。その自然の範疇には、自分の内面、心の中が含まれています。そこで浸ることが意外にも相当落ち着くことを、かなり昔に感じていたこと。
だから、ぼくは人と話したり何かをすることも好きだけれど、同じくらい自分の内面の森林のようなところで、考えたり、からっぽの気分になったりすることで随分癒されるのです。
ただ、そこを自然という捉え方はしていなかった。
それは村上春樹さんなんかは井戸や穴に例えたりするけれど、よくよく考えてみると、そこは森であり草原である気がします。
そんな空間を自分が内包していることで、都市の中でも調和をもって生きていける。
そして、その内面にある自然のイメージは、いつか見た風景によってより豊かに彩られ、自分を自分たらしめているようにも思うのです。
どんなところで生きていようが、自分自身が自然であり、内面に存在している風景にはいつも美しい水が流れ、風が吹いていることをイメージできます。
ただ、自然を甘く見ないようにもしてたりします。そこは自分でありながら、コントロールが難しい一面があるというところになります。
自然を作り出すための休息時間や食べ物そういったものも重要ですね。
なんだか、すごく納得した朝でした。
一日を経て、その感想を書いてみました。ありがとう。
おはようございます。
わしも今、朝の仕事の合間に書いております。
Shinくんが、「自然(=自分の内面、心の中)が好き」っていうのは、確かにスタートラインですよね。
大自然を愛している人は、自分自身も愛せると思うのです。
自然自体が無限に開いた構造をしているので、自分を愛するというのは自分だけで閉じるという意味ではなく、開いたように自分を愛するという意味です。この辺りは、「二十歳の原点」(←読んだことある?)のブログの内容でも少しふれたことでもあります。
Shinくんがいうように、自分の内面は森林のようなところをイメージすることありますよね。まさしく自然です。森も道に迷うときもあるし、道が開けるときもあるし、恐ろしくもあるし美しくもある。
僕らが森や自然を見るとき、同時に自分の肉体という自然そのものを見ているのかもしれないし、その肉体と呼応しているのかもしれない。
Shinくんが言うように(『その内面にある自然のイメージは、いつか見た風景によってより豊かに彩られ、自分を自分たらしめている』)、美しい自然に出会いに行くということは、自分の中の自然世界を広げる意味もあると思うのです。
恐ろしい自然、厳しい自然ばかり見ていると、肉体もそういう宮殿だけになってしまうけれど、日本の四季のように移ろいゆく美しく豊穣な自然を見ると、そこで自分の肉体は優しく淡い存在にもなりうる。
人間の体内を60%が水分で占めているように、自然で流れる水を見て落ち着くのも、自分という自然を合わせ鏡で見ているからかもしれない、
自分ひとりだけではなく他の人とも自然を共有するということは、そんな自然を外部でも内部でも共有することと近いのかもしれませんね。この辺は、Shin君と同じで、思考しだすと深く掘っていけそうなテーマですよね。
僕も、からだを追及して考えて、自然を考えていたら、そこがピタリとはまってつながったことに驚きましたよー。
なんか、ダム問題とどんどん関係なくなってはいるけど、まあダムみたいな自然の問題というのは、自分のからだや肉体のような内なる自然をどう捉えていくかということと、相似形なんじゃないかなぁとおもったわけです。
Anyways, 今回のブログもまた素晴らしい!
からだという自然で包まれた自分という存在、いわば歩く自然、動く自然がここにいるではないか。すごく当たり前のようでいてOUT OF THE BOX な発想で、私も今朝改めて考えてそれを実感し、味わったよ。
私という「自己」は常に「自然」に守られているのかもしれない。そして自己が自然の力から解放されるときに、水蒸気のように天に昇っていくのか、水のように土中に深く沈んでいくのか・・・どちらにしてもまた別の自然に却っていくのでしょう・・・
「日本においての自然と人間のあり方を、ロハスとかエコとか・・・外来語で言い換えて無感覚にするのではなくて、これを機に真剣に向き合うきっかけになればいい。」
大賛成!なぜこんなにも幾重にも重なる自然というものに囲まれながら、あえてカタカナでないとそれを意識しないのか。逆にいうとあまりにも自然に自然が自分たちの意識に浸透しすぎて分離して考えることができないのかもしれないね。
以前聞いたことがあるけど、日本人には「山を登ること・山で寝ること=登山・キャンプ(yというレジャー)」という発想がなく、これらは外国から植えられた発想であるとのこと。それは山を代表して、自然をそれだけ自分たちと近すぎるものに感じていたからと言われている。一体化していたものを近代の西洋文明によって無理やり切り離されて、今では自分たちの元々持っていたものの重要さに気づくために、西洋からの波を待っている状態。そんな皮肉なことが起こっているのかもしれない。
また回帰していくのだろうけどね。
なんとなくお久ぶりですね。アメリカ出張の話も、いつか聞きたいと思うとります。
『ネットが切れたらコメントも消えちゃった・・・』、これ、ほんと悲しいですよね!あの時間はなんだったんだと、ただただ空しくなります。デジタル世界って本当にゼロになっちゃいますからね。微かな余韻すら残らず。
是非ともメモ帳かワードファイルに打ち込んで、それをコピペするという手法を強くお勧めします。
この手法だと、PCの動きが悪くなってきて、フリーズするんじゃないかという予感が出てきたら、咄嗟に保存したりコピペしてデータを移したり、いろいろやりようがありますし。
ディアドクターのブログの記事も読みましたよ。ブログのコメント読みたかったなー。ま、いつかお会いする時でもいいですけど、もう話題自体を忘れてそうだし。笑
自分のからだと自然を結びつける考え方は養老先生も時々おっしゃってるんですよね。
養老先生は、都市化は脳化社会だと。脳を外に出したのが都市だと。そういう発言が多い。唯脳論もそういう本です。
からだという自然は、都市化できない。脳化できないんですね。本来は制御できない。
おこがましくも、自分の都合で自然を壊して改造していくという思想は、自分のからだを改造したり、人のからだを軽視していく思想と地続きだと思います。
それは性や暴力の問題の根本じゃないかと。
僕の経験上も、ほんとうに自然を愛している人は、自分のからだを愛していると思いますね。本当に自然そのものですから!
それは、他者のからだも自然に愛する。それは外なる自然と同じだから。
インターネットの世界とかって、明らかに自然じゃない。自然を模倣しても、常にはりぼてだし、それは僕らの脳では越えられない限界・壁なんだと思いますねー。
『日本人には「山を登ること・山で寝ること=登山・キャンプ(yというレジャー)」という発想がなく、これらは外国から植えられた発想であるとのこと。』
これはそうかもねー。自然をレジャー化するっていうのは、やはり浸透はしないですよね。
むしろ、自然と一体だから、そこを資本主義で乗っ取られるということは、自分のからだを紙幣で交換していくような考えと同じようなもんではなかろうか。
日本のように、自然の四季があって巡り巡りの場所では、やはり無常感が身にしみて分かるし、それはからだで分かっているんだと思うのです。
からだは、脳よりも感じるセンサーも多いし、実は相当に大量な情報を感じているんだと思う。
それを脳で制御しようとするのは、やはり無理があっていろんなとこがねじれてくる。
だから、頭ではなくて体で感じたことは、きっと大事だと思いますね。それは言語化できない領域だし。
なんとなくその場で感じた雰囲気とか居心地のよさとか、そういうのは、頭で理論で理屈で考えた善悪なんかよりも、よっぽど信用できるんだと思うんです。
この辺は、あと1年くらいかけて深めて考えてみようと思っている途中です。
まあ、いわゆる心身問題とか心と体とか精神と物質とか、古くて新しい問題でもありますねー。