観測にまつわる問題

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大山祇神社小考

2018-12-09 22:15:49 | 日本史
大山祇神社は愛媛県今治市大三島町宮浦の神社で伊予国(愛媛県)一宮であり、伊豆の三島大社と並び、全国にある大山祇神社の総本社。

同時に発生したとは考え難く、どちらかがどちらかの流れを汲むと考えるのが普通だと思います。伊豆諸島の開発に伴い伊豆の三島大社が先だという説も有力のようですが、筆者は伊予の大山祇神社が先だろうと思っています。本人としては地元の人間の贔屓目のつもりはありません。

というのも伊豆の三島大社は伊豆の三島の開発に伴い成長したという話なのですが、伊豆諸島のどの島が三島なのか見えてきません。比較的大きく古い(縄文時代からと言われる)歴史を持つ島は大島・三宅島・新島・八丈島であり、これにより小さな利島・神津島・御蔵島を加えて伊豆七島、他に青ヶ島、式根島といった島々もあって、伊豆諸島を三島と呼ぶ必然性があるでしょうか?伊豆諸島を三島と呼ばないのであれば、三島大社を三島と呼ぶ理由は無くなります。また、三島大社・伊豆国府があるあたりは、駿河東端にほど近く、伊豆諸島といった島に関心を払うような位置にありません。伊豆諸島は太平洋上に浮かび、交易の中継点として重要な島でもありません。三島大社が崇敬を受けるようになった主因は、正に鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝の挙兵の地となった偶然に拠るのであり、頼朝に支持されたから神社として成長したのでしょう。

伊予の大山祇神社にはこうした契機がありません。源氏・平氏に支持され、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割が集まっていると言いますから、後の村上水軍にも関係ないはずです。そう考えると、畿内から九州を経て大陸に向かう途中の当地に元々それなりに権威ある神社があったと考えるのが妥当だと思われます。厳島神社に似る事情でしょうか。

大山祇神社の鎮座する大三島は古くは御島(ミシマ)と記されたようです。これが三島と記されるようになっただけでしょう。その理由としては、後の三島村上氏に因む可能性も考えましたが、鎌倉時代に頼朝に支持された三島大社に倣った可能性が高いようにも思います。三島大社の方が三を使った理由はそれこそ漢字表記の揺れなのでしょう。音が同じで漢字が違う例は日本において枚挙にいとまがありません。大をつけたのは三島大社に対し本家をアピールする意図があったようにも思えます。いずれにせよ、当地に三つの島がある訳ではありません。

『釈日本紀』(『伊予国風土記』(逸文)越智郡御島の条)によると、大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたそうです。摂津国の御嶋は諸説あり、三島鴨神社または鴨神社の何れかとされます(以上、ウィキペディア「大山祇神社」2018/12/09)。

おおやまづみは和語ですから、本当は百済から渡来していないフシがあるように思いますが(当時としては箔をつけた可能性があります)、いずれにせよ摂津の御嶋に源流があるようです。畿内から九州~大陸のルートにある大三島に分社が出来、その後本社のようになったと考えて不思議はありません。海洋系の神社としては住吉神社もあって、その住み分け等知識はありませんが、本家の摂津御嶋は特に成長する余地も無かったのかもしれません。

三島鴨神社は淀川の川中島(御島)に祀られていたと言います。摂津鴨神社は川から離れており、御島と名がつく理由が無いように思います。

>近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。(ウィキペディア「三嶋大社」2018/12/09)

『日本三代実録』貞観6年(864年)2月5日条(神道・神社史料集成参照)。
『類聚国史』16(神祇16神位4) 貞観10年(868年)7月27日条(神道・神社史料集成参照)。
『延喜式』26(主税上) 出挙本稲条(神道・神社史料集成参照)。
『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)6月26日条(神道・神社史料集成参照)。

鬼の語源と武士と兵士の歴史、物部氏、琉球王国とアイヌ文化の成立、元寇の勝因

2018-12-09 17:21:55 | 日本史
怪奇素材(黒背景フリー素材)と怖い話

なまはげの鬼面に関連して、鬼(おに)の語源を考えていたのですが、考えがまとまったので記事にしておきます。また、副産物として武士の歴史を考えることになり、自分の考えをまとめておきます(そちらが本筋になったかもしれませんが、鬼武者という言葉もありますし、分離せずそのままにしておきます)。

元々中国語で霊魂を表す鬼(キ)をオニと読むことは無く、霊魂はモノという和語で表していたようです(他にカミ・タマ)。これは万葉仮名で分かるようです。これが平安末期にオニにとって変わります。オニの語源は諸説あるようですが、どうもシックリきません。

いろいろ考えたのですが、筆者はモノを使いにくくなった説を提案します。妥当な言葉が何か現れたのではなく、今まで使っていた言葉が使いにくくなったという逆転の発想です。というのもこの頃、武士が登場しています。武士とはすなわちモノノフです。モノノフが活躍しがたゆえに、モノに武士のイメージがついて、モノを霊魂の意味で使いにくくなり、代替用語としてオニが登場したのではないでしょうか?

何故オニにしたかで考えを述べますと、御霊(ゴリョウ)信仰や怨霊(オンリョウ)信仰、霊鬼(レイキ・リョウキ)という言葉が関係するかもしれません。御はオンとも読みますね。御身・御礼など。中古の御はオオンだそうですが、オン→オニという訳です。まぁ通説のおぬ(隠)や陰陽道の陰(オン)かもしれませんが。いずれにせよ、その辺の通説がシックリこないのは、今までモノを使っていたのに、何故わざわざオニに変えたかという部分を説明しづらいからです。

平安時代初期の奇跡や怪異についての話の代表的説話集と言えば、日本霊異記(ニホンリョウイキ)。著者は薬師寺の僧である景戒。薬師寺は興福寺とともに法相宗の大本山。法相宗は大乗仏教ですが、西遊記で有名な玄奘に師事した道昭が広めた宗派のようです。日本は唐から多くを学びましたが、唐自体国際的でインドから学ぶところがあったように思います。

平安時代末期の代表的説話集は今昔物語集。今昔物語集は天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成されます。拙稿「来訪神:仮面・仮装の神々」(ユネスコ無形文化遺産登録)①(薩南諸島・甑島)で、空飛ぶ馬でマハーバーラタに触れましたが、インドの説話を古くは日本人は仏教に関連して(中国が知っていたから)知っていたと思います。

さて、武士=モノノフの話に移りますが、モノノフの語源は物部氏だと言われますが、物部氏は古代日本を代表する軍事氏族として知られますから、これは納得できる説です。物部氏は丁未の乱(物部守屋の変)(587年)で衰退しましたが、686年までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得、石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇るなど活躍したようです。石上神宮は日本書記において、伊勢神宮の他に唯一神宮と記された神社で四世紀日本を知る貴重な金石文資料と言える七支刀が伝来した神社としても知られます。ただし、石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退したようです(以上、ウィキペディア「物部氏」2018/12/09参照)。

物部氏の読みはモノノベですが、海部(カイフ)の読みもありますし、詳しくありませんが部がフでもいいんじゃないかと思います。また、物部氏は軍事だけでなく、宮中祭祀も行っていました。元々霊魂をモノと呼んでいましたが、物部氏は本来、霊魂を司る祭祀の氏族として意識されていたんじゃないかと思います。霊魂を司ると同時に軍事もやっていたということなんでしょうね。

武士は10世紀に登場したと言います。この時、物部氏本宗家である石上氏も中央貴族としては衰退していました。武士の起源は諸説あるようですが、筆者は貴族の私兵であり荘園のガードマンだったのだろうと思います。源氏も平氏も皇室の出で地方の武士も含めて中央貴族と密接な関連があるのは明らかです。武士の登場以前は律令制度が機能していたようですが、9世紀頃衰退を始めたようです。古代道路は8世紀末から9世紀初頭に衰退し始め、10世紀末~11世紀初頭に廃絶しました。和同開珎(708年)を嚆矢とする皇朝十二銭は乾元大宝(963年鋳造終了)に至るまで都及び畿内の外に広がることはありませんでした。

物部氏が活躍した6世紀以前は豪族の時代です。朝鮮人は認めませんが、唐という超大国に負け撤退するまで朝鮮南半に強い影響を及ぼし、満州から朝鮮北半の強国高句麗と戦っていたのもこの時代です。結構強かったんじゃないかと思います。しかし律令制度をとりいれ、軍事氏族は衰退し、国家が兵士を動員する時代になりました。ここで軍事的には弱体化した可能性があります。東北地方は日本全体に比べれば、当時そう生産力があったとは思えませんが、数百年に渡って度々反乱がおきています。鎌倉時代以降、反乱の数は激減し、結局蝦夷の反乱なるものは存在しなくなりました。武士が強かったからじゃないでしょうか。何故武士が強く、兵士が弱いかですが、恐らく武士が日々戦闘のため鍛錬する専業で、兵士が普段は農作業等に従事する等あまり鍛えていなかったからではないでしょうか。魏の曹操の屯田制は知られるところですが、農作業をしていないにせよ、中国に兵士道なるもの聞いたことありません。あまり強い兵士は反乱の原因にもなりかねませんが、その理由はさておき、結果的に中国や朝鮮は弱く連戦連敗している印象を拭えません。中国・朝鮮に武士のような存在はおらず、武官が兵士を指揮する国だったはずです。日本も律令制度をとりいれたことによって、当時は中国や朝鮮に近い感じの国になっていたのではないでしょうか?しかし、何時までも律令国家は続かず、武士が台頭してきます。

律令制度は豪族の土地の私有を認めませんでした。開墾した土地は結局国家のものになります。これは一種の社会主義でしょう。開墾は結局下火になったようです。そこで743年に墾田永年私財法が制定され、開墾した土地は私有されるようになります。これが荘園の始まりです。初期荘園は畿内に集中していたようであり、畿内周辺なら検非違使や中央の兵士が治安をある程度維持できたかもしれませんが、賊対策でガードマンに準じる存在がいた可能性もあります。いずれにせよ、10世紀に入り戸籍・班田収授による租税制度がほぼ崩壊し、国司請負制に移行した後、武士が台頭したようであり、国司は結局荘園の治安を維持等できなかったのでしょう。国司自体中央貴族でしたから、公平に治安を守るというような発想もなく、制度も整っていなかったかもしれません。いずれにせよ、律令制度は崩壊し、私兵の時代がやってきます。荘園の経済力で雇った私兵が武士で、ゆえにリーダーは中央貴族だったと考えられます。私兵と兵士は対立したかもしれませんが、前述の理由で兵士は直ぐに淘汰されたでしょう。租税制度が崩壊した理由は不明ですが、単に私有の荘園の方が効率良かったのかもしれません。社会主義経済は自然に滅びます。結果の平等を法で決めたり、結論を法等で決め可能性を詰んでしまうと人は努力しなくなるということだと思います。能力主義にも問題はありますが、共産主義・社会主義が衰退しないはずもありません(以上、ウィキペディア「荘園」2018/12/09参照)。

経済史の観点で言えば、11世紀末頃より北九州の博多中心に宋銭が流入するようになったと言います。12世紀中頃には都周辺にも銭は広まります。平清盛はこれに目をつけたようです。朝廷はたびたび銭の使用を禁止したと言いますが、結局普及した銭の使用が無くなることはありませんでした。これが日本経済の転換点になったんじゃないでしょうか。結局物々交換では保存が利きません。以上、中世の銭貨(コインの散歩道)。

武士の世が到来し博多から銭が流通するようになって、日本が変わった影響は島伝いに南西諸島にも波及したようです。12世紀にグスク時代が到来したと言います。1429年に至って、三山統一。琉球王国が成立しました。やはり本土から海を経て距離があったのが独自の王国を形成した要因なのでしょう。これは日本が成立した事情に似ます。琉球王国には士族がおり、士はサムレーといったようです。これはサムライに違いありません。そういう意味で中国や朝鮮に似ていないのが琉球と言えるのではないでしょうか。薩摩藩は琉球士族に帯刀を禁止したようで、それが結局沖縄が空手を産む要因になったようです。

東北地方においても蝦夷の反乱は消失していき、日本の一部としての性格が強くなっていきます。北海道では13世紀に擦文時代が終わりを迎え、アイヌ文化が始まります。アイヌ文化は鉄器や漆器を特徴とするようですが、これは交易で和人から手に入れたようです。日本経済自体、余剰生産力があったということだと思います。

さて本土に戻りますが、平氏や源氏は中央でも活躍しましたが、結局関東の武士が主導権争いに勝ち、鎌倉幕府が成立。承久の乱を制し、武士の世がやってきます。ここで元が攻めてきました。所謂元寇です。その勝因はいろいろ言われますが、結局のところ、地の利と武士の強さによるのでしょう。集団戦法云々言われ、元が圧倒的に強かったような話も流布していますが、単に世界を席巻したイメージと一騎打ちの文化が廃れたイメージに過ぎないと思います。モンゴルは遥か西方ヨーロッパの征服に失敗しています。ヨーロッパも騎士の国でした。草原が繋がっている範囲においてモンゴルは相当強かったと思いますが、元は中国や朝鮮の兵士を動員しており、結局のところ、イメージと異なり弱兵だったのではないでしょうか。遥か南方ジャワ島の攻略にも失敗していますが、まぁ当たり前と言えば当たり前で驚くようなことではなかったと思います。何故日本が勝てたかという問い自体、愚問だったのでしょう。動員された兵士も命は惜しい。武士の猛攻に閉口し、早々に諦め言い訳を拵え退却したのではないでしょうか。モンゴルも動員した兵士が弱いことぐらいは分かっていたでしょうが、全員遊牧民にする訳にもいきませんし、海に草を生やす訳にもいきません。

ただし、元を倒しても恩賞を貰えなかった武士は不満を持ち、鎌倉幕府は動揺し結局滅亡。南北朝時代を経て、室町幕府においてのつかの間の繁栄の後、応仁の乱が起こり、戦国時代に突入。織田信長による全国統一が見えた段階で、本能寺の変というクーデターで当人は横死(陰謀説が絶えませんが、主人を倒したものの乗っ取りには失敗したクーデターの一類型に過ぎません。例えば、ソ連保守派はゴルバチョフを倒しましたが、エリツィンに倒され、国はのっとれませんでした。エリツィンが保守派を操ってクーデターを起こさせ、満を持して倒した訳ではないはずです)。織田家にとって不運なことに武田家を滅ぼすなど実績を積んでいた後継者で嫡男の織田信忠はクーデター巻き込まれて倒れます。結局主家をのっとり日本を統一したのは、当時の織田家にとって最大の敵だった毛利家に対していた有力武将でクーデターの首謀者を倒して勢威を増した豊臣秀吉。統一後の余勢を駆り、大陸に進出(唐入り)しましたが(中国は大国ですが、何度も周辺の異民族王朝に破れており、勝てない戦争を仕掛けた秀吉の妄想というような何故だかよく見る話こそ妄想のようであり、筆者には違和感ない普通の話のように思えます)、秀吉の死により中止。対した明は結局滅亡し清が成立。秀吉死後、あまりに若く経験も無い後継者の秀頼は何も出来ず、覇権を握ったのは五大老筆頭の徳川家康。江戸幕府が成立します。織田豊臣の同盟者としてずっと東方を担当し、江戸(関東)を首府とした徳川家康は大陸進出に然したる興味も無かったようです。

江戸幕府は結局薩長土肥の連合により倒されます。どこかの島国の支援もあったかもしれませんが、足して自ら単独に及ばない石高差があっても(親藩や譜代を足すと更に圧倒的な差になります)破れてしまう江戸幕府の体たらくでした。平和ボケでしょうか。明治政府は欧米に倣い四民平等の政府を構築し(華族を残したのも欧州諸国に倣ったまでででしょうし、米国の台頭は後の話になります)、武士の世は終わりを告げます。

インフラツーリズム

2018-12-09 15:59:01 | 日本地理観光
国土交通省江戸川河川事務所 首都圏外郭放水路

インバウンドにおける観光資源としてのダムの可能性(Kuriyama Go Travel)

スイスのダムをめぐるツアーもあって、インフラツーリズムへの注目があるんだそう。アルプスを貫くゴッタルド・ベーストンネル(スイス政府観光局)は青函トンネルの3倍の長さ。スイス、意外とパねえな。

青函トンネルは体験坑道(青函トンネル記念館)で対抗するべきかもしれません。日本一短い私鉄「青函トンネル竜飛斜坑線 もぐら号」で坑道へGo。ドーバー海峡のユーロトンネルも同程度の長さのようですが、難工事で言えば青函トンネルの方が上のようです。無茶なところに穴を掘る技術で世界一ということをアピールすべきだと思います。

ユーロトンネルはカートレインで車を通すらしい。青函トンネルはフェリーのみですが、倣ってカートレインも面白いんじゃないかと考えたものの、鉄道でも3~4時間かかってしまい、フェリーと所要時間は大差ないらしい。JRがペイすればやればいい程度なのかも。ドライブ振興なら、フェリーで大間ー函館(1.5時間)(津軽海峡フェリー/大間-函館‎)が下北半島ドライブ(おすすめドライブコース 下北ナビ)も楽しめそう。青森陸奥湾のイルカもありますが(イルカ・インフォメーション むつ湾フェリー)、確率が高い季節は4月下旬から6月下旬にかけてとのこと。

少し話は逸れますが、長いトンネルって結局換気・排気が問題で列車しかできないんでしょうね。そして列車だと建設費を考えるとフェリーでわりと対抗できるのかもしれません(ユーロトンネルは経営破たん)。豊予ルートの道は険しい。

トンネルに対して橋の博物館は明石海峡大橋のお膝元神戸にあって、橋の科学館というようです。インフラツーリズムを振興するなら要注目なのかもしれませんね。

日本のダムと言えば、第一に黒部ダム(富山県)を思い浮かべる人が多いと思いますが、他に奥只見ダム(福島県)がインフラツーリズムとしては盛りだくさんで面白そう(雪と森の秘境|奥只見 - 奥只見丸山 奥只見観光株式会社)。ダムの他に奥只見シルバーライン(19のトンネルが続き、全長22kmのうち18kmがトンネル。ゴツゴツした岩肌を残す)、スロープカー、奥只見電力館、奥只見乗船場。

青森の水陸両用バス(【青森】バスに乗ったまま湖へGO!東北初の水陸両用バスが話題のバスツアーがスタート おんせんニュース 2017年5月13日)も広い意味でインフラツーリズムか。白川山地の北麓青森県西目屋村ですが、世界遺産白神山地ビジターセンターも。

神妙な気持ちになりますが、田老の防潮堤(三陸ジオパーク)もインフラと言えばインフラ。

インフラツーリズムと言えば、首都圏外郭放水路(埼玉県)も忘れてはなりませんね。洪水防止目的の地下放水路で普段は空堀状態。その手があったか。治水の常識は地下放水路になっていくのかもしれません。

インフラツーリズムもまだ始まったばかりで、ダムなんかはダムカード(国土交通省水管理・国土保全局)や日本の灯台50選(公益社団法人 燈光会)の取り組みがありますが、全国に散らばってますし、ややマニアックなので、これといったものを纏めてインフラツーリズムとして売り出してみるのが面白いのかもしれません。

今なら新幹線、将来的にはリニアが観光対象にもなるのかもしれませんが、シンガポールチャンギ空港なんかは、それ自体が観光の対象とも言いますよね(チャンギ国際空港を遊びつくせ!(Changi Air Port) 旅行観光.com )。エキナカが充実してきた今、駅を観光対象にしてみるとか。鉄道博物館(埼玉県さいたま市)もありますが。

道の駅は観光対象でしょうが、SAやPAも高速道路の収益の柱と言います(海ほたるが特徴あるかと思います)。橋で言えば横浜ベイブリッジ(首都高ドライバーズサイト)も。Honda Collection Hall(ツインリンクもてぎ内)(みんなののりもの)(栃木県茂木町)ではHondaの歴代の市販製品やレーシングマシン展示が。観光ではありませんが、茨城県の自動車安全運転センター 中央研修所ではドライビング・シミュレーターがあって、インフラツーリズムで本気で体験観光をやるなら、何か参考になるのかもしれません。

スカイツリー東京タワーは電波塔。ならば、テレビ局も放送でインフラと言えなくないのかもしれません。ショッピングモールで放送局の様子を見せたりするじゃないですか。築地が観光になったのだから、食のインフラで豊洲もやればいいと思います。

以上、関東・東北中心にインフラツーリズムの記事をまとめてみました。

なまはげだけじゃない秋田県男鹿半島とツーリング、ジオツーリズム、しょっつる

2018-12-09 11:37:42 | 日本地理観光
第33警戒隊 加茂分屯基地|防衛省 [JASDF] 航空自衛隊

男鹿国定公園(あきたファン・ドッと・コム)

>半島一帯には海、山、湖の景勝地が点在し、変化に富む周遊が楽しめる。主な観光ポイントとしては、全山芝生に覆われ眺望が素晴らしい寒風山、断崖絶壁続く西海岸、珍しい爆裂火口湖(マール湖)の一、二、三の目潟と男鹿水族館のある戸賀湾、半島最北端の入道崎、男鹿温泉郷などがある。

入道崎(男鹿なび)

>ツーリングの定番目的地でもあり、夏は大勢のバイクが駐車場に並びます。

バイクで訪日需要を喚起、官民連携で推進へ(旬刊旅行新聞 2017年11月6日)

>オートバイのレンタルサービス「レンタル819」を全国展開するキズキレンタルサービス(松崎一成社長、埼玉県川口市)と広告会社のアドフロンテ(木村謙吉代表、東京都港区)はこのほど、日本政府観光局(JNTO)が行う「ツーリングなどを通じた日本各地の魅力発信による訪日旅行促進事業」を受託した。

>整備された高速道路や、英語表示の道路標識、島国ならではの海沿いの道、自然の表情豊かな山間部のカーブが続く道などコースの魅力は多い。

賀曽利隆の「東北ツーリングで行きたい絶景ルート10選」(ウェビック バイクニュース)

男鹿半島は見所の多い景勝地であり、ドライブもいいでしょうが、ツーリングの対象としても面白いんじゃないかと思います。潜在需要としてはやはりインバウンドでしょう。渋滞も少なく、風光明媚な東北地方こそ、あるいは北海道よりポテンシャルがあるのかもしれません。というのも、陸奥と出羽に分かれた東北地方こそ魅力的な観光地を周遊しやすいからです。ただし、日本は多雨ですから、雨対策が必要なことは事前に周知された方が良いかもしれません(ライダーに聞く、雨の日のツーリング事情 マイナビニュース 2013/05/20)。

訪日外国人向け『NAVITIME for Japan Travel』、徒歩ルートの音声ナビゲーションと、カーナビゲーション機能を追加(NAVITIME JAPAN)を参照すると、訪日外国人向けのカーナビも存在するようです。ガソリンスタンドや食事・宿泊等、環境整備を行って旅行者のストレスを軽減し、周知していけば、潜在需要を開拓できるのかもしれません。東北には八幡平国立公園等、雄大で美しい自然も多いのですから、それを活かさない手はありません。

男鹿目潟火山群一ノ目潟(男鹿市)

>一ノ目潟は安山岩中にマントル起源の捕獲岩を含んだ噴出物のあった火山として、世界で初めて知られ、世界的に注目を受けています。

男鹿半島・大潟ジオパークは当地ですが、スペインのジオパークとジオツーリズム(ResearchGate)によると、ヨーロッパでは一般の観光客にも、ジオツーリズムの人気は高く、先進地域はドイツ、オーストリア、スペインだとか。日本は火山も多く特有の地質環境にありますので、ジオツーリズムのファンがつけば、また違った可能性もあるのかもしれません。

男鹿半島は半島のように見えるかもしれませんが、本来は島だったと言います。北側から米代川、南側から雄物川による土砂堆積によって2本の砂州で繋がったようですが、八郎潟はかつて琵琶湖に継ぐ2番目の大きさの湖だったようです。それが干拓されて今の半島の風景になりました。

食や土産物としては秋田県の県魚ハタハタが挙げられますね。

ハタハタ博物館(男鹿水族館GAO)

当地ならではの魚醤がしょっつるです。かつてはハタハタが主に使われていましたが、漁獲高の激減で別の魚を使っていた時期もあるそうです。現在では秋田県平成4~7年の全面禁漁のおかげでしょう、漁獲量がやや回復し(ハタハタ日本海北部系群の漁獲量推移(水産庁))、近年は再びハタハタも使われているようです。漁獲高の変動があるのは当然ですが、それでも獲り過ぎを防止し、一定以上の漁獲高を確保することで、ブランド価値はつくられていくんだろうと思います。原料が安定しなければ、ブランドも何もあったものではありませんから。観光がてらに試食してもらい、気に入ってくれれば、その場で配送でお届けみたいなシステムがどの程度整備されているかは知りません。公共交通を利用した観光やツーリング・サイクリング・インバウンドも重要ですから、(荷物を積み込める)自家用車だけを想定した観光政策は成り立たないと考えられます。amazon並に安く配達できれば身軽な旅行が実現するかも。ネットでポチッもいいですが、やはり現地で試すことができるのが、旅行の醍醐味だと考えられます。

外国の魚醤としては、ベトナムのヌクマム、タイのナンプラー、本場イングランドのウスターソース(リーペリン)が挙げられるようです。アレルギーは有り得るので、特にインバウンド絡みでは表示等その辺の配慮は必要かもしれません。

関連して醤油(大豆、小麦、塩が原料)に関して言えば、アメリカ中部ウィスコンシン州でも生産し、肉にもあうと認知度は上がっているようです(キッコーマンもうけの7割は海外 名誉会長が語る日本の味「しょうゆ」が世界に広がったワケ 産経ニュース 2017.10.29)。資金は銀行に借りたとか。海外投資ですが、醤油の認知度が上がれば、和食の認知度も上がり、インバウンドにおける武器にもなるかもしれません。

「来訪神:仮面・仮装の神々」(ユネスコ無形文化遺産登録)②(東北・北陸)

2018-12-09 05:08:04 | 日本地理観光
農林水産省東北農政局 秋田県庁提供

アマメハギ(ウィキペディア 2018/12/09)によると、「囲炉裏や火鉢に長くあたっているとできる火だこ(温熱性紅斑)のことをアマメと言い、怠け者の証しとされている。これを剥ぎ取る妖怪がアマメハギである。」類似の行事は日本各地に伝わっており特に日本海側に多いとのこと。登録された10件の内、「男鹿のナマハゲ」(秋田県男鹿市)、「能登のアマメハギ」(石川県輪島市・能登町)、「遊佐の小正月行事(アマハゲ)」(山形県遊佐町)がこれにあたるようです。

アマメの語源ですが、火だでピンと来ましたが、ア+マメなんでしょうね(疑問氷解 手にできる「タコ」と「マメ」の違いは何?(毎日小学生新聞 2018年5月1日)によると、マメは水膨みずぶくれ、タコは厚あつい角質なんだそうです)。アの語源は自分にはサッパリ分からないのですが。

鬼が来ると子供を叱ることがあって(子どもを叱るときに「鬼がくるよ!」「お化けが出るよ!」と脅すのはアリ? ベネッセ)、アマメハギの祭りはその一類型なんじゃないかと思います。包丁は「アマメ」を剥ぐ小道具で、子供を脅かすためのものなのでしょう。

鬼面・古代鬼面(タツミ)を参照しましたが、「角のついたリアルな鬼の面は江戸時代頃からで、古くから魔よけとして建物を守ってきた」のだそうです。だとすると、鬼面をかぶる形式は江戸時代に始まったと思えます。

蓑は雪蓑らしく、節分に行う能登町を除き、北陸・東北の小正月(1月15日)の行事のようです。また、吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)も言葉こそ違うものの、小正月行事で(イヌのような)鬼面・蓑のような衣装・囲炉裏に入ってばかりで怠けている子供の脛に付いた火の斑を剥ぎ取る祭りだそうですから、全て日本北部の小正月行事と言えるのかもしれません。正月ですから、この来訪神とは年神の一種なのでしょう。日本海側と少し言葉が違うのは、青森県下北半島尻屋崎沖が海の難所だったことに関係するのかもしれません。

小正月の由来ですが、「中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残りと考えられている」(ウィキペディア「小正月」(2018/12/09)(西角井正慶編, ed (1958-5-23). 年中行事事典 (初 ed.). 東京堂出版. p. 305.))とのことです。前回の記事の薩摩硫黄島のメンドンは八朔(はっさく:八月の朔)に登場し、朔(さく)とはついたちで新月ですが、どうもかつては一月の満月(望)が正月だったようです。正月に餅の風習は望(もち:例えば望月)にかけたのかもしれません。そう考えると、僻地(失礼)での分布は古い伝統が残った証と思えます。