観測にまつわる問題

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自民党愛媛県連リーダー塾第4講義(岡田直樹参議院議員)(憲法改正)

2018-12-16 18:20:09 | みんなでやろうぜ
「災害派遣 平成30年北海道胆振東部地震について <人命救助活動>」陸上自衛隊ホームページ(http://www.mod.go.jp/gsdf/news/dro/2018/20180906.html)

自民党愛媛県連リーダー塾第4講義(岡田直樹参議院議員)と配布資料を元に記事を作成します(>に続く部分は講義・資料の引用・要約、改行してですます調が筆者の意見)。

憲法改正案(1)自衛隊明記案

>①合憲という憲法学者が少なく、②中学校の大半の教科書(7社中6社)が違憲論に触れ、③国会に議席を持つ政党に違憲を主張するもの(注:共産党)があることを問題視し、自衛隊違憲論を解消するのが狙い。

これまであまり強調されておらず、なおかつ重要と考えられる視点は②の中学校教科書だと考えられます。義務教育教科書で憲法違反の疑いもあると明記されてしまう組織のモチベーション維持は難しいのではないでしょうか(教科書そのままの真面目な人ほど憲法学を学んだ人や某党党員に憲法違反と決め付けられて、そういう考え方もありますが~と答えることになると考えられます)。戦後、長く日本の平和を守ってきた自衛隊を正当に評価する必要があると思います。

憲法学は大学で勿論講義されますし、これまた教科書通りの真面目な人ほど、自衛隊=違憲だという考えを持つことになるとも考えられます(ただし政府見解は合憲なので政府関係者は異なるところがあるかもしれません)。別に教科書が間違っていたら書き換えればいいのですが(通説も時に間違います)、学校で学んだことこそ間違っていたというのは可哀相な話ではあると思います。

最高裁判所もそうそう自衛隊のような組織を違憲とはしないと思いますが、憲法学者の違憲を無視して当たり前というのも、あまり健全な話とも思えません。ちなみに憲法学者や某政党が幾ら違憲と決め付けたところで、政府見解こそ合憲であって、それに直接的に覆せる権限があるのは、最高裁判所のみということになります(後に取り上げますが一票の格差が最高裁判所に違憲状態と判決されて合区と相成りました。自民党政府・安倍政権が憲法に従っていない論は完全なるデマです)。ですから、そうそうないとは思われますが、(時折地裁の変な判決が話題になりますが)最高裁判所が憲法学者の大勢に従って、自衛隊は違憲などと判決されてしまうと、政府は自衛隊解散に向けて動かなければならないということになります。これは勿論望ましい状態ではなく、自衛隊明記論は正に必要性に基づくものです。

資料を見てもいろいろな案があったようですが、目的は違憲論を解消するためであり、国会の情勢を考え、加憲論で行こうというのが現行案です。

個人的にはこれまでの政府解釈のキーワード「必要最小限度の実力組織」は、必要に最小をつけるのは望ましくないと考えており、現行案が良いと思います。必要であれば必要なだけ素直に安全保障すればいいと思うんですよね。率直に言って。何でわざわざ必要なのに最小でなければならないのかという(どちらかと言えば、必要の範囲内で最大限にしたいぐらいです)。実際問題、安全保障というのは常に相手の戦力を知る状態になく、従って必要の範囲すら不明確なところもあって、ある程度余裕を持つ必要もありますから、その中で最小に真面目に拘ったらやってられないんじゃないかと思います。自衛隊のような組織が論理的につっこまれる事態は極力避けたいものです。ただし、政治的実現性に鑑み加憲論ということであれば、これまで通り勿論一定の制約がないという訳ではありません。論理的には憲法上も自衛権は否定されておらず、自衛隊が明記されれば、勿論自衛の範囲で違憲論は払拭できると考えられます(現在でも世界には時に自衛に見えない戦争が開始されることがあり、自衛権に限る政策的意味は十分あります。日本の現在の安全保障環境はそのような戦争に加わることを許さないと考えられ、近隣に急成長する強大な国を控え遠征する余裕もさして無い日本において、この程度の改憲でもまずまず妥当であるとも考えられます。個人的な好みは全面改訂でスッキリさせたいですが、要は実際に発議されることが重要です)。

憲法96条に規定がありますから、改憲それ自体は常に合憲です(実際に発議するための法律「日本国憲法の改正手続に関する法律」は安倍第一次政権下で成立しました)(ただし、最高裁判所が(憲法ではなく)法律を違憲だと判断することはあります)。また、憲法それ自体も合憲というか、どんな変な条文でも無謬ということになります(ですから、変な条文は改正しようというのが、そもそものあるべき筋であり、だからこそ憲法改正しようという話になっています)(99条憲法尊重擁護の義務の存在を考えると、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、日本国憲法を尊重し擁護する義務を負うんだそうです。安倍総理や国会議員が変というかスッキリしないことを言っていると思う時は、この辺の事情があるのかもしれません。国民としては変な条文は変だと思いますがね)。

敵基地攻撃論は、事前に攻撃を察知し敵を叩き潰す理論上は素晴らしい考えですが、実際問題例えばミサイル攻撃される前に察知し、なおかつ攻撃される前に叩き潰すのは難しいとも考えられます。費用対効果を考えても日本は打ち出の小槌を持っている訳ではありません。

後、自衛の定義ですが、憲法上は明確ではなく、人命の損失では必ずしも無く、領空・領海等を含む領土侵犯を理由に自衛権を発動できるんじゃないかと思います。そうしないと例えば、明らかに首相官邸や皇居を狙った戦闘機を事前に安全なところで撃墜できません。

集団的自衛権も自衛隊と日米同盟を考えると、キチンと認められるべきでしょう。例えば、日本の規定に準じてアメリカの領空・領海等が侵犯されて戦争が始まったらほぼ自動参戦すべきです(それをやったのは日本ぐらいしか記憶にありませんが)。これは拡大抑止を考えると、安全保障政策上必須だと言える話です(つまりミサイル攻撃も想定すべきで、ゆえにミサイル防衛政策も同盟国の政策と密接に連動する可能性を否定できません)。テロに対して自衛権を発動できるかは解釈の余地があると思います。

宇宙は宇宙条約で領有を禁止されています。

サイバー空間は良く分かりませんが、電線・電力会社と同じ扱いで、ケーブルやサーバーが扱われるんじゃないかと思います。

邦人保護ですが、やはり例えば犯罪組織の誘拐に対して自衛権で戦争という話は聞いたことありません。治安の話は治安の話で、自衛隊は対軍隊の組織だと本来的には明快に定義されるべきです。しかしながら、災害救助で派遣されますように、本来業務でない仕事ができないという訳でもありません。微妙なのが、日本及び同盟国の領域外での戦争に巻き込まれる事態です。これは憲法上、当然避けるべきで、万一偶発的事件に巻き込まれたら、可及的速やかに撤退すべきということになります。ただし、平和安全法制に定める掃海業務等は要するに(海の)地雷除去ですから本来的業務である自衛戦争と認定せず領域外で実行できると考えられます。(後方での)治安維持みたいなものですね。言い訳めいていると思われるかもしれませんが、こうした話は意外に重要で、自衛隊はマルチな能力を持っていますし、当然そういう実力組織であるべきですが、自衛隊が自衛を旨とする限りは、領域外での戦争に適した装備体系を有することなく、従ってそのような計画を持たないと考えられます。マルチな海外活動はそういう現行体制に基づき、必要に応じて実行できると考えられます。自衛隊という実力組織は自衛専門隊ではありませんが、自衛を明記しているがゆえに、明らかに自衛でない戦争を目的としないし、実際行わない(理論上は巻き込まれる可能性はゼロにはならないが撤退すべき)と考えられます。

集団安全保障は自衛隊である限り、難しいかもしれません。例えば、小国が攻撃されて参戦する時、自衛だと言えるのかという話です。参戦することで自ら危険に飛び込んでいる可能性が否定できません。日米同盟の場合は必ずしもそうではなく、やはり核時代・ミサイル時代ということを考えると、アメリカと連動して自衛することは、自衛そのものだと言い切ることが出来ます。(そんなことは無さそうですが)アメリカが滅べば、日本を核ミサイルから守る必要不可欠な戦力が消えることになります(勿論第一に自衛隊が日本を守ることは言うまでもありません)。これが国防軍だと国を守るという理由で集団安全保障できるかもしれません。何故なら、集団安全保障した方が理論上、国は安全になるからです。自衛は自警=Vigilanteと護衛=escortとと同じ漢字をそれぞれ使っており、自分すなわち自国を守るというニュアンスです。つまり他国を守るのは自国を守ることと密接に関連しない限り、難しいとも考えられます。国防の場合は自国ではなく日本国を守るという意味でより広い意味だと受け取る余地があります。

また、自衛で敵国の根拠地を叩くことは可能だと思います(先制攻撃はアウトであるにせよ)。実際問題、敵国の侵略により戦争が始まってしまえば、講和するまでは敵国を攻撃するより他ありません。相手が侵入するまでテリトリーで待つみたいな妙ちきりんな(実力が無い)話にはならないと考えます。例えば自警団の領域を攻撃した盗賊団を領域外でも反撃で襲撃しないというようなことが有り得るでしょうか?逃げ出したら回復してまた来るまで待ちぼうけるんでしょうか?アホクサ過ぎますね。そんなことでは到底講和できず平和を守ること等できそうにありません。

しかしながら、相手国を占領するとなると微妙な話になってきます。結果的にと言えど、日本が拡大するきっかけになりません。ですから、例えば盗賊団を叩いて陣地に乗り込み降伏させたとしても、撤退前提の話になるんだろうと思います。

もうひとつ、政府解釈に関してですが、基本的には自由に解釈できると筆者は思っています。ただし、変な解釈だと最高裁判所にやられるという話ではないでしょうか?(だからこそ変な解釈をしない)・・・立法や行政は憲法解釈について歯止めになる主体では理論上そもそも無いと思います。行政が憲法解釈と言うと変な話に聞こえるかもしれませんが、法律は実際のところ所轄の行政府が存在します。憲法解釈というのは(所轄の行政府がある)法律に絡んで憲法を解釈するという話で、憲法の条文そのものの論争は立法の領域です。憲法自体は行政府は当然決めていません。憲法に基づき法律が定められ、これに政府は関係します。これで一定の住み分けは存在していると言えます。立法府が解釈するというのは、選挙も経てメンバーもちょいちょい変わる上、衆議院・参議院もあるのに事実上誰が解釈するって話になりませんかね?内閣法制局の議論があるのは承知していますが、総理が大臣を任命しており、絶対的に有り得ない話でもないと思いますが、責任主体は政治家つまり総理や大臣であって、官僚が決めたら政治家が従うという話ではないんだろうと思います。

憲法解釈がコロコロ変わると安定性が損なわれるという話はあります。ですが、政権が変わって憲法解釈を絶対的に固定するなら、選挙をする意味そのものがありません。何を持って政権が変わったと言えるかと言えば、いろいろな解釈があると思いますが、絶対的に属人的・属党的でもなく、選挙で政権交代が争われたかになるんじゃないでしょうか?(政権交代を掲げる政党が必要かは微妙な話です)つまり第一次安倍政権と第二次安倍政権以降は異なる政府解釈が出来、第二次安倍政権以降、衆議院選挙を伴う安倍政権外の(自民党政権含む)政権が樹立しない限り、政府解釈は変えられないということになると考えられます。安倍政権は第二次政権以降は政権の継続を掲げて選挙を戦ったのですから、政府解釈は変えられないと思います(というより、理論上は可能ですが、選挙で問うことが通常無いと思われます。同じリーダーが継続を求めて選挙を戦うからです。政府解釈の変更を問う必要がある大きな事件があった場合は、解散して問うのが筋なのでしょう)。ですが、第二次政権は政権交代を求めて選挙を行っており(直接選挙で問うたか否に関わらず、平和安全法制はつまり民主党政権を経ており(つまり大きな変化を求められ交代しており)、第一次安倍政権を含む麻生政権以前の解釈を引き継ぐ必要があると思えません)、属人的に解釈を固定する必要があると思えません。国民主権な訳ですから。安倍政権が総辞職して別の自民党政権が成立したら、選挙を経ておらず政府解釈を固定する必要があると思いますが、選挙を経たら(微妙な部分もありますが、選挙で問えばリーダーが変わっていますから)政府解釈を国民主権で変えられると思います。これは引き継いで政権交代したか、自力で政権交代したかの違いです。事実上、こうした流れに参院選は絡まないのも当然です。ハッキリ言って、自民党政権だから、同じ人がやっているからというだけで、永遠に政府解釈が変えられないなら、選挙で議論する意味がありませんし、リーダーを変える意味もありません。任期制の大統領制の方が明快ですが、副大統領が緊急に引き継げば、政府解釈を変えられず、同じ大統領が選挙を経ても(自分で定めていない)憲法の政府解釈を変える必要が通常無く(大統領令は大統領の権限で常に変えられるような気がします)、同じ党の別の大統領なら憲法の政府解釈を変えに行く可能性が(同じ考えの党ですから低いながら)あるということでしょうか。まぁそもそも憲法を変えてきた国と憲法を変えてきていない国のありかたが違う可能性もあるかもしれませんが、念のため。・・・というより、本当は解釈を変えるのではなく、政権交代どうこう以前に憲法を改正して対応するのが本筋なんですが。政権交代による政府解釈変更は確かに脇道ではあるんですが、憲法改正反対こそ明快に96条・99条違反という訳です(更に言えば、国会議員・公党の安倍政権下での~は法の下の平等を定めた14条及び99条違反の可能性が濃厚です。ただ、それを裁く法律が存在しないんでしょう。憲法改正規定も第一次安倍政権までは事実上空文でした)。

最後に軍法に関しては、実際問題自衛のための実力組織に必要だと筆者は思っています。日本国憲法において(自衛隊員含む)国民は基本的人権を持ちますが、陸上自衛隊員が基本的人権を持つことを主張し、自由に戦線離脱するようでは問題外です(罰則が緩いと命惜しさに理論上無いと言えません)。自衛隊が明記されて違憲論が払拭されれば、公共の福祉やあるいは新設した緊急事態条項を根拠に基本的人権の当然の制約も可能になってくるでしょうし、最高裁判所も容易に違憲判決してこないような気もしますが、残念ながら特別裁判所を禁じた76条が問題になるようです。

憲法改正案(2)緊急事態条項

>世界各国において緊急事態対応が立法化された背景には、例えば独仏でナチスや分断の歴史があって内乱・テロに対応している。日本国憲法においては、参議院の緊急集会のみ54条で定め、災害や有事といった緊急事態対応は個別に法律で対応してきた。日本では有史以来、巨大地震や津波が発生しており、緊急事態条項を制定することにより、①国会機能の維持、②国会機能が確保できない場合、行政権限で対応する必要がある。

東日本大震災の例で民法云々の議論があったように記憶していますが、配布資料には書かれていません。恐らく大規模だからといってこれまでの災害対策法で対応できない事態(権利の制限)を想定しにくいのかもしれません。また、東日本大震災を考えると、南海トラフ大地震でも同様だろうと思います。

ただ、選挙の時期の問題等あると思います。選挙どころではない災害が起きた時、憲法に明記されている国会関連の選挙をどうするかという問題に対して法律で対応するのは困難です。

また、特に首都直下地震についてよくよく考える必要があると思います。国会も行政府も首都にあります。ですから、共にやられる事態すらあります。大規模テロや内乱・武力対応も同様ですが、首都機能麻痺に対して政府が首都に集中する以上、現行憲法で緊急事態で対応できない可能性が否定できません。地方政府の壊滅で地方自治に関する事態も政府で対応できるのか考える必要があるかもしれません。あるいは緊急事態とは憲法に明記されているものが機能不全に陥った場合どうするということなのかもしれません。

具体的には例えば37条国会が唯一の立法機関という規定に対して、緊急事態には国会の代わりに行政が臨時に同様の「立法」をするようなことは考えられますが(結局のところ、憲法の条項間の矛盾は判断根拠が存在しませんから理論上存在しえないと言えます。この場合あえて37条を残す意味は行政等が勝手に国会機能を創造することを防ぐ意味があると考えられます)、行政が同時に麻痺することも想定しないとリアリティが欠如する可能性があると思います。この場合、例えば行政機能を何処か別の場所に臨時で確保できれば、永田町・霞ヶ関周辺の麻痺に対応できるのような。

国民の権利制限に関しては、以前触れたことがあるような気もしますが、公共の福祉の文言修正などは考えられるかもしれませんが、これまで災害関連の法律等で対応してきたので、何故今までの理論では駄目なのか明快に説明する必要があるんだろうと思います。そうでないと、今までやれなかったこととは?で変な想定をされる余地が出てきて(テロ等準備罪でもそうでしたが、ありもしないデマが流れて(実際全くテレビで言われているような事態は起きませんでしたが、説得力があったか世論の批判は結構あって法律の制定は困難でした。憲法改正のハードルの高さは目もくらみます)、憲法改正が困難になる事態も考えられると思います。

憲法改正案(3)合区・地方公共団体

>人口の減少と一極集中の歯止めがかからない現状で今後も人口比例による一票の格差の是正が図られることになれば、合区の制定により自治体間の不公平感等生まれてくる事態が考えられる。また、憲法規定に地方公共団体の規定はあっても、基礎自治体と広域の地方自治体の規定は存在しない。

後段は特に重要な指摘だと思います。アメリカの州のような憲法上の規定がないから、合区誕生と相成った可能性があると思います。広域の地方自治体と書き、都道府県と書かないのは、道州制が看板の政党に参加の可能性を残すためのようです。筆者はやはり無闇に自治体を分断したり、くっつけたりするのは不公平感の元だと思います。多少一票の格差が出てくるとしても、自治体の一体性は極力守るべきで、そのために憲法改正が必要だという訳です。何でもアメリカではありませんが、一票の格差って何って?いう感じの国もあります(上院)。合衆国ですから分断したり、くっつけたりする訳にはいかないということでしょうが。

山陰の鳥取・島根も問題だとは思いますが、高知・徳島に至っては、結構山塊で分断されており、四県バラバラで四国だという話なのに、一緒に1人ねで悲しい話になっています。二線級であるかのような。

筆者は議員を減らすべきとは言いませんが、減らせば減らすほどこうした問題は出てきます。衆議院と参議院で一票の格差の判断基準が違いますが、その理論的根拠もよく分からない感じです。元々の議員数の違いだけのような。2倍を超えないならまだしも、参議院の3倍まで平等の理論的根拠もよく分からないですしね(合区すべきと全く思っておらず、その逆ですが)。

大都市民は地方が無茶な利益誘導をするとあるいは思っているのかもしれませんが、今時、そんなことは難しくなっており、キチンと計算されていると思います。仮にそうでないところがあるとしても、無理な投資を戒めるためにも、大都市の側も自治体間の明快に不平等な扱いを容認して、過剰な不公平感を煽るべきではないと思います。地方自治体とは何か、実際に二層構造なのですが、憲法上明記することで、同じ階層どうしにおいて、個別の不平等の扱いを抑止しやすくなると思います。高知県も徳島県は存在していますが、高知県+徳島県という団体は存在していません。国会議員は立法府であるとしても、実際問題地域の一体性とは概ね自治体の一体性を指すのであって、国会議員は選挙区、すなわち地方の代表だという側面があります。

東京の小さな区部に一杯議員がいるような事態こそ無駄そのものと言えるのかもしれません。なんとか区代表(区も分断・結合されており必ずしも代表ではないんですが)に対して、高知と徳島はセットで1人みたいな。いや、選挙区のイメージや特性・形みたいなものって結構重要で、人口比で適当な組み合わせでやられると、地域の声を届けるのが難しくなる側面もあるだろうと思います。

憲法改正案(4)教育充実

>義務教育の無償化の規定はあるが、憲法制定から70年が経過する中で、経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保と明記する必要がある。また、憲法89条私学助成禁止と読める規定は改定することが望ましい。

高校無償化は憲法規定はありません。高校進学率の高さから準義務教育と言える状況であってもです。義務ではないにせよ、経済的理由で高校進学を諦めるという人がいたら日本の人的損失と言えるのかもしれません。個別に法律の制定は可能かもしれませんが、明記していなかったからこそ、戦後長らく高校の無償化が無かったとも考えられます。その他、進学率が高まった現在の状況を常に考える必要もあるということでしょう。

また、普通の読み方で私学助成禁止と読める条文は問題あるも考えられます。最高裁判所も憲法学者も何処かの政党も教科書も意外と柔軟というか、ある種の人々に優しいところがあるのかもしれませんが、やはり普通に読める憲法こそが国民の憲法と言えると思います。

戦後保守主義のあるべき国家観(深化と開拓)

2018-12-16 14:46:28 | 政治システム・理論
日本の国旗(パブリック・ドメイン)

自由保守主義(ウィキペディア 2018/12/16)なる政治思想があるようです。伝統主義的な思想とは一線を画し、私的所有権や市場経済など経済的自由や個人的自由を最重視する右派なのだそうです。

自由主義だと言われることもある筆者はこれに近いところもあるのかもしれません。

でも私的所有権を重視するのって当たり前じゃないですか?人のものはみんなものという共同体主義が一方にあるのかもしれませんが、幾らなんでも現代においてそんな考え方で国家は成り立たないだろうと思います。別に私的所有権を最重要視して何でも自分のものと主張している訳では全くありませんが、筆者には私的所有権はごくごく基本的な考えだろうと思っています。今更入会権(村落共同体等が、一定の主として山林原野において土地を総有などし、伐木・採草・キノコ狩りのなどの共同利用を行う慣習的な物権)も何もないというか、保守主義を掲げてそう言い切ってしまうことにリスクはあるのかもしれませんが、とにかく、ごく普通の政策を言っているだけで、ある種の方から反発されるような事態こそどうかしているんじゃないかと思えて仕方ありません。多分普通のことを言っている方が今では特殊な考えの人々の強いモチベーションで攻撃されているんじゃないでしょうか?そもそも反~にあまり良いものがあるとは思えません。例えば反安倍とか反自民とかもう何を言っているか分からない感じですし。

市場主義経済も市場原理主義と言われて、強い反発の対象になりやすいのは理解しています。ただ、経済を普通に成長させようとして、市場経済を全く無視することは出来ません。行き過ぎを戒めるのは問題ないと思いますが、必ずしもそう言われている訳ではなく、社会主義や共産主義的な特殊な人々、経済音痴な人々に感情的反発を受けているだけではなくいかと思うこともあります。何でもよく分からず、極論で反発するべきではないと個人的に思うことはしばしばあります。

議論してこれこれこうなら、別に構いません。でも、現実にはムードで決まって議論無しが多い気がします。反論すると、言い訳・全てが・明らかにで一切説明せず、攻撃一本槍の人って実際多いんです。これは実際のところ、恐ろしい話です。理性で全てが片がつくとは思いませんし、全て一々議論すべきではなく経験でサクサクことを進めることも重要だと思いますが、一時の感情に流され議論をつくさず謎判断で失敗すると後悔してもしきれないんじゃないでしょうか。現代では技術の発展が加速し、世の中の変化はこれまでの歴史環境の中でかなり早い部類だと考えられます。これまでの経験に頼っていれば、概ね問題なかった昔とは状況が全く異なっているだろうと考えられます。特に日本はお手本があってキャッチアップすればいいという国では必ずしもありません。自分の国を自分達で考える必要があって、特に立法(議員)は然るべき手順で議論し物事を決めることが重要なんだろうと思います。何となくムードで結論を決めてしまうというようなことが実はあって、ムードの側から見て正反対にムードで物事を決める方が少なくとも政治においては×なんだろうと考えます。別にイメージや感情を重要視するなと言っている訳では全くありませんが、そちらがわの暴走が目立つ印象です。

結局のところに集団に脳は存在せず、脳は個人に存在しています。ですから、考えと言うものは全て個人の脳から生まれていると言えます。みんなは反論しません。考える脳がありませんから。あるのは結論への異議に対する叩きのみです。然るべき結論が然るべき手順で決まったら、当然従うべきですが、どうもそういうことを言っているのではなく、暴走した感情があるべき議論・手順を消しに行っているように見えます。

そういう訳で少なくとも経済や法律の世界では概ね一種の自由主義的考え方が一般的だし、そうしなければ国自体成り立たないんだろうと思います。これは日本においては明治維新の頃、近代国家を樹立させて以降の基本的な潮流だと考えられます。旧軍の暴走は言われるところですが、どうも戦史やそれに至る過程を概観するに、議論を尽くした形跡がなく、強硬な雰囲気に引き摺られた印象もあって、それに対する意識的警戒は必ず必要なんじゃないかと思えます。失敗を全て他者のせいにして自らは反省しないならば、また同じ失敗をしてまた人のせいにするんじゃないでしょうか。判断は間違う時はありますが、強硬な雰囲気が場を支配し強硬だけが正義になった時、その結論を受け入れられない他の集団と必ず衝突し、やがて破局に向かうのではないでしょうか?完璧な判断はありませんが、せめてベターな判断をくだせるように努めるのが当然なんだろうと思います。

以上のような考え方から、筆者は左右に関係なく、集団主義による政治(合議制ではない、というのもその集団(組織を指しフワっとした概念を指さない)に属さない個人や集団に対してその集団?の結論を強要するような動きが時折みられるからです)・雰囲気だけの政治の方こそが当人達の考え方と逆に有り得ないんだろうと思っています。ゆえに集団主義対個人主義で保守リベラルを分けようという一切の考え方等徹底反対します。そんなもの国柄を一々政治で変えてられませんし、近代国家ではない何処かの隔離された共同体でやりたきゃやればいいんじゃないですか。あるいは前近代が好きなら、好きなところに移住すればいいじゃないですか。そんなことは言ってないつもりかもしれませんが、だとしたら普通のことを主張して問題視される理由がありません。どちらの議論が妥当か議論があればいいですが、それを認められない側こそ逆に問題のはずです。

日本国憲法改正に対する反対が根強いのも、こうした反省がないように見えることが反映している可能性もあります。失敗は失敗だし、TPOはありますが、反対があったら然るべき手順で反対しても当然良い。こういう当たり前の考えがあるいは出来ていないから、また失敗すると思われている可能性が無いとも言えません。まぁガラっと体制を変えることに(失敗したらアプローチを変えるのは当たり前ですが)反対する筆者は保守主義者だと思いますが、とにかく筆者は近代国家に生まれたのであって、そちらが普通。そうでないものが異常だという考えです。安倍だから反対、基準は反安倍か否かみたいな暴論に与する訳にはいきませんが、そのような主張というか、暴走をする方々が政治に結構いらっしゃり、それなりに力を持っているところが頭の痛いところです。ですから、戦前のことでも是々非々。建前論だとしても、必ず守られるべきです。それが守られないように誤解されるような憲法改正は上手くいかないだろうと思っています。

ところで、ここまで書いて筆者は集団主義なるものを必ずしも全否定している訳ではありません。完全に個人主義だと頑張らないのが正義みたいな結論に結構陥り易いと考えられます。自分が頑張らない方が得だと思えば、完全な個人主義においてそれが正義になるからです。人は必ずしも個人だけで生きられる訳ではなく、いろいろな性格を持つ組織等に属して生きています。その最たるものが国家であったり、地域共同体であったり、会社であったり、家族であったりそういうものです。それ個別に様々な考え方が有り得るでしょうが、気をつけなければならないのが、集団主義を掲げれば何でも正義になる訳ではないということです。ここでは個別に詳細を見ることはしませんが、ひとつだけ軍隊・治安維持組織等についてだけ検討するものとします。

軍隊は当然命をかける仕事です。これは実際のところ個人主義では成り立ちそうもなく、それは近代国家においても例外では無さそうです。何故なら、完全な個人主義において命は至上の価値を持ち、命をかける選択肢が存在しないからです。個人主義的な軍隊ほど当然壊走しがちで戦争に負けがちだと考えられます。今は技術が高度に発達していますが、基本的な考え方が通用しなくなっている訳ではありません。北朝鮮なんかもマスゲームを誇示しますが、あれは先軍政治で強い国家をアピールする意味もあるのかもしれません(そんな面倒なだけの国を誰が攻めるのかという話でもありますが)。それはともかく先進国においても同様で、やはり軍隊組織が必要である以上(日本だけ無くしても他所の国に攻められ日本だけが滅亡するのは火をみるより明らかです)、軍人は命をかけなければどうしようもなく、ゆえに個人主義はほぼ成り立たないと考えられ、だからこその愛国心で、人の生死が関わる以上、全く宗教と無縁という訳にもいかないということになります。軍法が存在するのもそうした絡みでしょう。持ち場を離れる兵士がいたら、そこから部隊は全滅しえます。個人主義で命が惜しいを理解する訳にはいかず、軍法会議で悪質なものは射殺すら有り得るのが寧ろ当然で、そうならないよう訓練するということなのでしょう。

先進各国の軍隊は全て同様と思いますが、自衛隊も当然に集団主義的で軍法があって精強な組織を目指さねば意味がありません。自衛隊を認めるというのはすなわちそういうことだと思います。ただ、問題もあって、近代国家は先に述べたように軍隊だけでは当然成り立たず、寧ろ個人主義の方を基礎にする必要があります。強い会社もいいですが、会社のために命をかけろだとか、怖すぎますよね。強い経済なくして強い軍隊もない訳ですし(世界で一番の経済大国かつ軍事大国はどういう成り立ちでどういう考え方の国でしょうか)。会社も利潤を得ることが目的ですから、会社至上で奴隷労働を是としたら、上がる給与もあがりませんし、余裕がありすぎれば単に会社を守る貯蓄ばかりの守りの経営で経済が冷え込むとも考えられます。いずれにせよ、極めて特殊な例を除けば、集団主義による法治国家など有り得ません。憲法は国家において最重要の法律です。ここのところの基礎はシッカリ押さえて誤解無いようにしなければなりません。

自衛隊は先の大戦の経緯の反省に基づけば、あるいは先進各国同様の事例を参考にすれば、文民統制(シビリアンコントロール)でなければならないということになるでしょう。自衛隊の集団主義や軍法の新設を認めていくと共に、主客の逆転は無いということも確認しておかなければなりません(誤解のないよう何らかの形でかつて戦前にそういう動きがあったことを率直に認めて然るべきなんだろうと思います)。雰囲気だけで物事を決めると行き過ぎで有り得ない結論が是になりがちだから怖い訳です。

靖国神社も同様の文脈で確認されるべきです。全て是で無批判はどうかと思いますが、個別の事情に応じた流儀もありますし、いずれにせよ、兵士が命をかけ当然死ぬことも有り得る(訓練においても)ことは当然の話であって、当然宗教の話もないということにはなりません。原理主義的な政教分離など凡そどの先進各国にも存在しません。タブー化して議論を全くしない時点で全てアウトです。程度問題や個別の事情は有り得ますが(勿論葬式で議論を始めるの類は全く有り得ない話です)。当たり前のことを徹底すべきですが、意外にもというか、戦前の反動で平和に偏り過ぎたかのような異常な議論が罷り通ってきたのが戦後レジームであり、結果自衛隊が憲法学者7割違憲みたいな状況に陥り、当たり前のことを当たり前にしようという流れになっているんだろうと思います。

命をかけるということにおいて、治安維持の組織も同様のところもあります。消防なんかも同様ですが、軍隊のように軍法までは必要ないにせよ、犯人が怖いから個人の責任において逃げるとか、火が怖いから個人の責任において必要な活動を拒否するなんてことは有り得ません。緊急事態に所定の手続きを踏めないということも当然に十分検討されるべきであり、既に治安関連や消防関連の法律に例外を認めるところはあるんだろうと思います。その憲法的根拠の代表例が所謂(左と呼ばれる方々が嫌いがちな)公共の福祉です。

結局のところ、日本の戦後保守主義とは明治維新=近代国家に基礎をおいて(皇室を筆頭に連綿たる伝統を持つ古い国ではありますが制度面で)、戦前の失敗を踏まえ、戦後の反動を正常化していく動きになるんだろうと思います。なおかつ、停滞し始めた経済を再び成長軌道にのせる試みにチャレンジしなければ、先がありません。東アジアにはテロ国家の核武装という問題や、既存の体制にチャレンジする独裁大国の急成長と領土侵略というキナ臭いファクターが明快に存在しており、見なければ存在しなくなるという訳では勿論なく、冷静に現実を見て問題に対処していく必要性がどうしてもあります(更に言えば人は感情の無いマシーンでもありません)。

日本政治における保守とは当然にこうした全てを包摂するものでなくてはならないと筆者は考えています。政権交代を絶対的に否と筆者はしませんが(ハッキリ言って自分は政権交代論を全く応援したことなく、それどころか逆に実際問題結構頑強に反対してきた事実が存在しますが、そういう考えの政党があっていいんだろうとは思っています)、変な偏りで(感情が暴走したか安倍政権だから話さないのような)有り得ない話を是とする訳にはいかないと確信しています。守るべきは当然日本であり日本国民です(外国人の権利も国際社会の中で、政治的権利など自国民と全く同じではないにせよ、認められる必要があります。念のため)。個別の問題に異論はあるのが当然ですが、こうした総論の方向性に異論はちょっと考えにくい気もしていますが、いずれにせよ、何らかの形で異なる政治的立場や政党を必ずしも禁止するというような国では戦後ずっと日本はありませんし、少なくとも筆者が改めてそういう方向にしようと企んでいる訳では全くありません。

旭日旗ですが、筆者は否定しませんし、寧ろ肯定的に受け止めてはいますが、上記の事情で扱いに気をつけるべきところはあるように思っています。つまりあまり強調して日本第一の旗であるかのように見られれば、軍部が(旭日旗は戦前軍旗でもあった)政治を支配し主客転倒した戦前の失敗をそのまま肯定する動きと同一視される危険性があります。ですから、第一にアピールすべきは日本国の旗、日章旗です。