僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

杏林(とうりん)

2008-01-20 09:08:19 | Weblog
 中学生の時、学校で習った名医のお話をします。

 古代中国、呉の孫権の時代、医師董奉(とうほう)は、貧しい患者からは治療代を受け取りませんでした。代わりに、重病者には5株、軽病者には1株杏(あんず)の苗を植えさせました。
 董奉に恩義を感じた人々は、後に出世して応分の貢物を彼に贈ったといいます。このように徳のある人は、無欲で慈悲深く多くの人民に愛されるものなのです。
 小さな杏の苗は、やがて実のなる大樹となり林ができました。この故事、伝説より杏林は良医を表すようになったのです。
 杏(あんず)はバラ科、サクラ属で英名をアプリコットと言い、唐桃とも表記します。

白糸の滝

2008-01-19 23:15:03 | Weblog
 旧年の夏、デンバーより来るアレックスたちと、戸沢村で最上川舟くだりに興じました。船頭さんの最上川舟歌は、英語バージョンもありましたが、外人さんには皆目理解できなかったみたいです。
 この映像は、冬季、雪見舟から眺める「白糸の滝」です。冬の白糸も風情があっていいものです。

千手千眼自在菩薩(せんじゅせんげんじざいぼさつ)

2008-01-11 23:26:57 | Weblog
 大阪、葛井寺(ふじいでら)の千手観音坐像です。正式名称が「千手千眼自在菩薩」になります。子年の守り本尊で、千の手にはそれぞれ目を備えています。
 千とは、無限という意味で、無限の慈悲で全ての人々と生き物を救うことを象徴しています。
 大手が40本、小手が1001本あり、合掌手以外には持物を携えています。
宝戟(武器)、化仏(仏像)、宝鐸(鐘)、紫蓮華、払子、けん索(投げ縄)
日輪、宝輪、宝螺、玉環、髑髏杖、紅蓮華、傍牌、宮殿、五色雲、宝鉤(ほうこう)宝剣、宝弓、藻瓶(そうびょう) 以上が左手の持物です。
右手には、錫杖(しゃくじょう)、頂上化仏、三鈷杵(さんこしょ)、青蓮華、楊枝、数珠、月輪(がちりん)、宝珠、宝経、宝印、蒲桃(ぶどう)、白蓮華、施無畏、宝鏡、宝きょう、金剛杵(こんごうしょ)、えっぷ(おの)、宝せん(矢)、胡瓶(こびょう)などを持っています。
 体躯のバランスのよさ、端正な表情が美しい天平後期の作品です。

銅鏡

2008-01-11 22:27:35 | Weblog
わたしのコレクションの1つ銅鏡です。いつの時代のものかは不明です。銅鏡は、古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されました。 宗教・祭祀用具としての機能をもち、近代に西洋よりガラス鏡が伝来普及するまで一般に広く使われていたのです。

落語を一席

2008-01-09 00:56:38 | 生き物
 いくみ~コメントサンキュー

今年の干支にちなんで、「ねずみ」という落語を一席紹介しましょう。
 
 左甚五郎といえば、日光東照宮の眠り猫や鳴き龍で日本一といわれた名工、大彫刻家。その甚五郎がふらり旅に出て、ある宿場にやってきました。
 「おじさん、宿はまだ決まってないの」
 声をかけられ、見るとまだ子どもの客引きです。子どもは自分の宿に泊まってくれと一所懸命頼みます。
 案内された旅籠は予想どおりボロボロ、客もいません。向かいの立派で満員の旅籠とは好対照。
 何かわけがありそうなので、尋ねると、じつはこちらが本家だったのだが、おとっつあんが怪我をした時、番頭に身代を乗っ取られ、物置同然の別棟におとっつあんともども追い出されたのです。ついでにおっかさんも乗っ取られたという答え。
 人情に厚い甚五郎、なんとかこのボロ旅籠を盛り返してやろうと考えました。
 しばし考えた甚五郎はノミを取り出して、こつこつと彫り始めました。やがてできあがったのが、一体のみごとなねずみの彫刻。
「これを入り口においてごらん」
 いわれたとおり、子どもがねずみを置くと、なんと木彫りのねずみがチョロチョロ動き出しました。これを通りがかりの人が見つけて、これまたびっくり。
 あっという間に評判が立ち、「ねずみの旅籠」という観光名所になりました。
 一方、向かいの旅籠は閑古鳥が巣を作っているほど暇になります。主人の非道な仕打ちも知られてしまい、客足もパッタリ止まりました。
 本心から反省しない元番頭はためこんだ資金に物を言わせて反撃に出ました。高名な彫刻家に「甚五郎に負けない彫刻を」と制作を依頼。
 「甚五郎がねずみなら強い動物がいい」
 と単純明快な製作態度で虎の像を彫ったのです。
 これを旅籠の前に置くと、あーら不思議。それまで元気に走り回っていたねずみが、ピタリと動かなくなり、ただの木像に。
 この話を伝え聞いた甚五郎、旅籠にとってかえすとねずみの像に向かい、
 「これ、ねずみ。わしはお前を彫る時に、全身全霊をこめたつもりじゃ。なのに、なぜただの彫り物になる。それほどのできばえとは思えぬ虎なのに」
 これを聞いたねずみ、
「えっ、あれは虎ですか。私はまた猫かと思った」

 おあとがよろしいようで。

天正大判

2008-01-07 22:21:40 | 薀蓄
 1592年以降に豊臣秀吉が作らせた天正長大判金です。縦17,5cm、横10,2cmで金貨幣の中では世界一の大きさになります。
 当時、大判は日常の取引用ではなく、家臣への恩賞用、朝廷・公家などへの贈答用に鋳造された特別の貨幣です。表面には「拾両」という文字と、「後藤」という彫金師の名前が墨書されています。
 拾両というのは額面単位ではなく、重さの事で、約165gにあたります。因みに、一両の四分の一が「分」で、分のさらに四分の一の「朱」とあわせ、この四進法による貨幣単位が江戸時代においても踏襲されることになります。
 十両の天正時代の値打ちは、米40石と古い記録にあり、ひとり一日三合の米を食べたとすると、40年分の米代に相当します。天正長大判金の現在の価格は、希少性や状態の良し悪しで多少差がありますが、概ね一枚3千万から5千万円ぐらいになるのでしょうか。

遠く相模からやってきた鹿児島弁

2008-01-06 23:16:27 | 歴史
 鹿児島では「あんた、男ぶりいいね」というのを「おまはん、よかにせだね」といいます。鹿児島出身の山大生に聞いたので間違いないです。「にせ」とは「青二才」の「二才」で「青年」という意味です。また「ありがとう」は「ありがともさげもした」といい、「有難う申し上げました」という謙譲語のようです。また「あったらし」は「惜しい」という意味の形容詞でアタラヲシから変化したようです。源氏物語の桐壺の巻にも出てくることばです。他に、「候(そうろう)」や「たまえ」も鎌倉時代の言葉で、現在の鹿児島にも生きています。

 なぜ、遠くはなれた鹿児島に古代の言葉が生きているのでしょうか。惟宗忠久(これむねただひさ)が源頼朝に島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられ、島津姓を名乗りました。その後、薩摩国、大隈国、日向国の3箇所の守護職に任じられました。島津氏に従ってこの地にやってきた相模の国の子孫は現在も残っていて、その当時の言葉を保存しているのです。
 薩摩藩がこのように古い方言を残したのは、他国からの侵入者を見分けられるようするためだったという説もあります。
 鹿児島弁と津軽弁は本当に聞き取れないらしいですね。

横手焼きそば

2008-01-06 22:15:46 | 食べ物
 今日は娘の高校が卓球の遠征で秋田の横手市まで行ってきました。朝6時30分に学校を出発し、着いたのが9時30分。雄勝峠付近は氷点下一度でうっすら積雪があり、安全走行を遵守いたしました。小野小町の生誕の地、雄勝町(現湯沢市)を過ぎる際には、美人誉れ高き、小町に思いを馳せ、小町といえば「深草少将は可哀想だった」とか「はえぬきの親はあきたこまちだっけなあ」とかどうでもいいことを考えながらの旅でありました。
 昼食に「横手焼きそば」なるものをごちそうになりました。甘口で水分が多めのソースで、キャベツ、豚肉のひき肉がたっぷり入り、上に目玉焼きがのっており、目で見てよし、食べてみてよしのGood Tasteでした。店の名を忘れたのは相変わらずのおっちょこちょいですが、「後三年の役合戦鍋」とか「きりたんぽ鍋」、うさぎ肉料理までメニューに載っていました。清原氏の栄枯盛衰の舞台が近くにあるとは、なんと歴史のある由緒正しき街だなあと感嘆いたしました。

吾左衛門さば寿し

2008-01-05 00:39:27 | Weblog
 1月2日に食べた吾左衛門寿しという昆布巻さば寿司です。昆布特有の甘みがあり、酢めしの酢加減もちょうど良く、二人前ぺろりと平らげました。
 米屋(内田)吾左衛門は享保(1716)の頃に、鳥取藩の命を受け年貢米の取り扱いを務め、廻船業も兼業し、何艘かの千石船を所有する豪商となりました。吾左衛門寿しは当時、吾左衛門の妻が船子のために弁当として用意したもので、約三百年の歴史を持っています。
 鯖以外に、鱒、鯛、蟹、鯵などの寿司があり、醤油も蟹の旨みが含んでいる美味しいものでした。