ワニなつノート

もっと子どもにあうために(その6)



もっと子どもにあうために(その6)


ふつう学級のための就学相談会で、「この子の一番かわいいところ」を書ききれないという親に出会う。それは「親になる喜び」を「この子にもらった」と聞こえる。


かつて、それを感じさせまいとする声に取り囲まれていた時代があった。

「この子」にもらえる「喜びなどない」と命じる声があった。

『「かわいそうで不幸な障害児」との出会いに喜びなどない。だから産んではいけない。検査してやる』と迫る声は今も続く。

この国では長い間、障害のある子は保育園からも地域の学校から拒絶されてきた。子どもが望んでも、親が望んでもかなわない現実があった。「きょうだい」はその隣にいた。

数年前でさえ、ふつう学級に行けますよと話した時、「行ってもいいんですか?夢のようです」という言葉が返ってきた。

障害は「直さなければいけない」、「この子は仲間じゃない」という声が周りにあふれる。
その社会の片隅で、「お前のきょうだい、しょうがいだろ」と迫られる場面は、ふつう学級、特別支援に関係なく、きょうだいを襲う。


地域のふつう学級に行くことを、「ゆめのようです」という親がいる。その向こう側に、夢もみれないきょうだいもいる。親が悲しむ夢を口にできないきょうだいもいる。保育園や学校だけの話ではない。その先にも人生は続いている。


「子どもは大人の顔を読んで、危機やケガがどれだけ深刻なのかを判断する」。
自分の痛みより、親の怯えた表情を子どもは見たくない。

事故や災害だけが子どものトラウマではない。社会の仕組みが命ずる声が、きょうだいのつながりに楔を打つこともある。何より「言葉にしてはいけない」と自分を責める苦しみを負う。


『直さなければいけない。直らないなら分ける。みんなと一緒にはさせない』。
そういって「恥の感覚」を植えつける声。その声は、「出会えてよかったという喜びと広がりの感覚」をなしにする。「大丈夫、うまくやれる」という希望をなしにする。

その声に囲まれ孤立した時を親が持つなら、本人もきょうだいも同じ時を持つ。「不安しかみえなかった」時を持つ。



そして、きょうだいの寂しさは、親がきちんと関われず気持ちを汲めなかったからだと語られることがある。それはこの子に「障害」があったためであり、「誰も悪くない」とささやく。
きょうだいがうまく「理解」できなかったのは、親が「十分によい」環境を提供できなかったからだと語られるとき。それはこの子に「障害」があったためであり、「誰も悪くない」とささやく。責めてはいけない。誰も悪くない。その現実を受け止められるように、きょうだいにも「支援」をあげる・・・。

それは、「きょうだい」が将来子どもをもち、その子に障害があるとき。・・・誰もがありのままで生きていく社会を「夢のようなもの」に閉じ込めたままにならないか。



この子のいる場所が、ふつう学級であるときと、特別支援学校であるときと、きょうだいに必要な支援は違う。この社会が分けてきた歴史と、これからどこへ向かうのかという話を抜きに、きょうだいに寂しい思いをさせないように、という話は、幼いきょうだいたちに失礼ではないのかな。


本当は、親子・きょうだいがもともと自然につながっていた、ありのままの形を妨げたのは、「障害」でなく、大人たちの「阻害」の影響が圧倒的だ。私の体験はそう教えている。

家族のなかにもともとあったつながりを分ける力。その圧倒的な力に、幼い子どもは抗う術をもたない。

大切なのは、きょうだいがもともと持っているつながりを手放さなくていいと伝える声。
きょうだいである喜びにつながっている姿。それを「手放さなくていいんだよ」と私たちはどうしたら言えるだろう。それを見失ってしまったとしたら、取り戻すためには何ができるだろう。


『レジリエンスは主体性の産物であり、自分の行動には何らかの効果があるのを承知していればこそ生まれる。』


私の出会ってきたきょうだいは、生まれた子どもに障害があるときに、迷わずふつう学級に行く。

「自分の感じている感情に間違いはないと、自分の声、自分の言葉をちゃんと受け止めてくれる人がいるという体験」に支えられている。
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