未来へのことば(メモ1)
東田さんの本を読みながら、私は何人かの子どもの顔と、何冊かの本の言葉を思い出していた。
まずは、本のメモを。
◇
a.『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット 講談社)
《遊ぶ様子を見ていた》
「保育園で寂しいと思った記憶はない。
もしからしたら、自分の好きな本やビーズ遊びや円を描くことに夢中だったからかもしれない。
ぼくはほかの子と違うということを、なんとなく気づきはじめていたが、どういうわけかまったく気にならなかった。
友だちがほしいとおもわなかったのだ。
自分の世界で遊ぶことで充分に満足した。
椅子取りゲームなどをして集団で遊ぶ時間になっても、ぼくは加わらなかった。
残った椅子を争うときにほかの子のからだに接触することを思うと怖かった。
いくら園長先生がいっしょに遊ぶよう優しく説得しても無駄だった。
参加せずに、壁のそばに立って、子どもたちの遊ぶ様子を見ていた。
放っておかれるかぎり、ぼくは幸せだった。
保育園から帰ると、すぐに階段を駆け上がって自分の部屋に入った。
…ぼくにとって部屋は聖域だった。
自分だけの空間にいると緊張が解けて心穏やかでいられた。
…両親はいつもぼくに対して辛抱強かった。
いまこのような人間になれたのは、両親のおかげだとつくづく思う。
ぼくは泣いたり、かんしゃくを起こしたりして、育てにくい子どもだったのに。
両親は無条件にぼくは愛し。献身的に支えてくれた。
ぼくは両親をとても尊敬している。」(42)
《大目に見てくれた》
「…ぼくは六歳から思春期に入るころまで、ときどき寝ながら歩き回ったが、それが頻繁に起きるとき
とそうでないときがあった。
…日中でも、勢力を使い果たしてしまった気がして、ひたすら眠りたいと思うときがよくあったが、無理もなかったと思う。
ぼくは学校の教室で机に突っ伏してよく眠り込んだ。
先生たちは、両親から事情を聞いていたので、いつも大目に見てくれた。
二、三十分寝て目を覚ましたら授業が終わっていたということはしょっちゅうだった。
ほかの子どもたちは校庭で走り回っていて、担任の先生がいつもそばでぼくを見守っていてくれた。」
(52)
《当時のことを考えてみると、…理由がわかる》
「ぼくの学校生活は1984年9月に始まった。
教室で勉強するのは容易ではなかった。
子ども同士でしゃべっていたり、廊下を人が歩いたり走ったりしていると、授業に集中できなかった。
外部の音を遮断することはできないので、集中するにはときどき耳に指を突っ込むしかない。
…当時のことを考えてみると、ほかの子どもたちがぼくをいじめて「泣き虫」と呼んだ理由がわかる。
ぼくは7歳になろうとしていたが、ほかの子どもたちはひとりもこの番組を見て怖がったり、動揺したりしなかった。
それでぼくは毎週その時間になると校長室に連れていかれ、ほかの子たちがその番組を見終わるのをそこで待っていた。
校長室にあったとても小さなテレビでモーターレースを見ていたのを覚えている。…」(67)
《まわりにいつも人がいるおかげで》
「…ぼくが小学校に上がってすぐに妹のクレアが生まれた。
その二年後に2番目の弟スティーブンが生まれた。…母は五人目を妊娠し…。
ぼくは兄弟が増えていくことに最初は無関心だった。
…しかし兄弟ができたおかげで、とてもいい影響を受けた。
人と接することが否応なく増えたし、まわりにいつも人がいるおかげで、騒音や変化にうまく対応できるようになった。
兄弟が庭で友だちと遊んでいる様子を二階の窓から眺め、他人と関わる方法も学べた。」(69)
《分で何とかできるという思い》
「学校にいるときはいつもひどく緊張していた。
クラス全員がなにかをやらなければならない行事が近づいていることがわかったり、きまった日常に変化があったりすると、ひどくうろたえた。
ぼくには、何が起きているか、あらかじめわかっていることが大事だった。
与えられた状況を自分で何とかできるという思い、
不安を一時的にでもくい止めておけるという気持ちを持つことが大事だった。
学校が楽しいと思ったことはなかったし、いつでもいたたまれない思いをしていたが、ひとりで自分の好きなことをしているときは別だった。」(84)
《いまでも覚えている》
「校庭を囲むように点在している木の陰に立って、ほかの子どもたちが駆け回ったり、大声をあげたり、遊んだりしている様子を眺めていたことをいまでも覚えている。
十歳のぼくは、自分ではうまく説明できず、ちゃんと理解してもいなかったが、ほかの子と自分が違うことはわかっていた。
…子どもたちが蹴ったボールに当たるのが怖かったので、同級生とはかなり離れた校庭の隅にいるのが好きだった。
休み時間には必ずそうしていたので、すぐにそれが嘲笑の的になり、ダニエルは気に話しかけている、変わり者だ、という評判が立った。
実際には木に話しかけたことはない。答えてくれない物と話すのは意味がない。
ぼくは猫には話しかけるが、猫は少なくともにゃあと返事をする。
ぼくはいつも消え去りたいと思っていた。
どこにいても自分がそこにはそぐわないと思っていた。
まるで間違った世界に生まれてきてしまったような感覚、どこか遠く離れたところにいつもいるという感覚が、絶えず重くぼくにのしかかっていた。
授業中ぼくは、先生がぼくから答えを聞き出したいと思っていることがわからなかったので、ぼくが答えようとしないと先生に思われて辛い思いをすることがよくあった。
たとえば「7×9は」と先生がぼくを見ながら言ったとする。
もちろん、答えが63なのはわかっているのだが、それを声に出してみんなの前で言うことを求められていることがわからなかった。
もう少し明確に「7×9はいくつになりますか」と訊かれないと答えられなかった。
どのタイミングで相手に返事をすればいいか、ということがぼくには直観的にわからない。
いまは人と適切に言葉をやりとりすることができるが、それは多くの訓練を重ねてようやく身につけられたことなのだ。
そうした訓練はとても大事なことだった。
ぼくは何よりも普通になりたい、ほかの子のように友だちをつくりたいと心から望んでいたからだ。(95)
◇
子どものころには、分からなかったこと。
子どものころに、こうなりたいと願っていたこと。
それを、大人になってから、言葉にできる人がいる。
障害がある子どもでも、
障害がない子どもでも、
子ども時代に、思い込んでいたこと、
自分が分からなかった世の中のこと、
みんなの中に、うまくいることができているか、不安におもう気持ち。
そうした子どもの気持ちは、障害があっても、なくても、共通するものがある。
たとえば東田さんは、子どものころから何冊も本を書いている「天才少年」だった。
ダニエルさんは、円周率の暗唱でヨーロッパ記録を持つ数学と語学の天才だ。
彼にとっては、複雑な長い数式が、さまざまな色や形や手ざわりの数字がひろがる風景にみえるのだという。
でも、私の関心は、その「天才」の部分ではなく、その記憶力と表現力の確かさで、子どものころのことを表現してくれるところ。
それは、「天才」だから、感じることではなく、
同じような状況に置かれた子どもや、同じ感性・感受性をもつ子どもが、体験し、感じていること。
それを、彼らは、私たちにも分かるように、言葉にしてくれている。
その言葉にちゃんと耳を傾けることが、目の前の子どもの、言葉にならない思いの気配を感じることにつながる、とおもう。
(つづく)
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