きょうだいという言葉は不思議な言葉だ。
「兄弟」と書いて、きょうだいといい、「姉妹」とかいて、しまいという。男と女で分けられている。
二つに分けるのが当たり前のひとたちによって分けられている。
「兄弟」と「姉妹」は違うという文化は、「男と女は違う」という価値を容易に植え付ける。
「違い」が「怖れ」に変わるのは、たいがい弱い立場の方だ。
「兄と妹」「姉と弟」は「きょうまい」?「しだい」?
多数派はきょうだいと読むが、それもまた男優先の文化の賜物だ。
「兄妹」でも「姉弟」でも、対等で、別け隔てなく育てられた人は、文化のすり替えから、少し距離を取れるかも。
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近年。「きょうだいじ」という新しい言葉が増えた。
少し困るのは、「きょうだいじ」の反対語が、「障害児」になってしまっていることだ。
「障害児の支援」、といい、「きょうだいじの支援」という。
教育だけでなく、支援も、子どもを、障害で分け隔ててしまうのか。
《いや分け隔てられて苦しんできたのは、『障害のないきょうだい』だった。だから、その孤立化され、透明化されたきょうだいを助けたい。あなたたちは一人じゃない。あなたのこと見えているよ、忘れてないよ、あなたは透明じゃない。》
そう、伝えたくて動く人がいるのはよく分かる。
ヤングケアラーもそうだろう。「元ヤン」の人が一番苦労を分かっていて、何が問題かを知っていて、「まだ見ぬ子たち」を助けようとしている。
病院の入り口で放置され、忘れられ、「孤立」し、「透明」にされてきた子どもがいたのも事実だ。今ならそれは「ネグレクト」といわれる状態であった。
でもそれは「親」のせいでも、「病児」のせいでもなかった。「病院」の事情だった。そこでは親も又「付き添い」を「強制」され、縛られ、社会から忘れられ、孤立し、透明にされてきた。
医療、教育、支援、が「個」を直す、助ける、ことに縛られてきたから、親もきょうだいも透明にされてきた。
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そうだとすれば、「きょうだい」や「ヤングケアラー」というやり方で、「個」に焦点を当てすぎることで、その周りで「孤立化・無力化・透明化」する人を作ることになる。
「きょうだいじ」の反対語が「しょうがいじ」になっている現状もその一つ。
「きょうだいじ」は、地域のふつう学級。
「しょうがいじ」は、支援学校。
支援学校は教室が足りないから、もっと支援学校を増やさなくちゃ。一方で、きょうだいじは、取り残されるから、支援が必要。
そうやって、「きょうだい」の距離が遠く分けられていく。
それは、「きょうだいじ」を支援したい人の思いとも、遠くなっていくだろう。
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NICU(新生児集中治療室)を、NIPU(新生児集中育児室)にしようという人たちがいる。
病気の子ども=「個」を助けることだけに集中するのではなく、「つながり」を大事にしようという助け方。
「きょうだい・しまい」を、障害の有無で分けて助けるのではなく、同じ「つながり」のなかで応援する手立ては何か。
障害があってもなくても「きょうだい・しまい」。同じ家族の中の、それぞれ別の子ども、というだけのこと。その「つながり」を支援する、応援する手立てが広がるといいな。
「つながりの安全領域」を広げるやり方。