ワニなつノート

無条件の肯定的態度と相互性・応答性のある暮らし (その5)




無条件の肯定的態度と相互性・応答性のある暮らし (その5)



《「新たな理解」についてのメモ①》



共に生きる社会。
共に生きる学校。
その理解を求めてきた相手は、大人だった。

学校の先生。教育委員会の人。
その他いろいろの大人だった。

子どもに障害や病気の条件をつけて分けないこと。
すべての子どもに、敬意をもって応えること。

求めてきたのは、ごく当たり前のことだった。

いまの時代、20年、30年前には通じなかったことが、思いのほか通じる。

今年、人工呼吸器を使う子どもが、小学校に入るのに、「会」は関わらなかった。
ふつう学級に行きますという親の希望だけで、入学通知は届いた。
もちろん、親の付き添いもなし。

他にも、性同一性障害の子どもへの学校の対応。
体罰のこと。
児童虐待のこと。
先日の、妊娠した高校生への文科省の対応など。

確かに、子どもの人権への理解は少しずつ、実現している。

もし20代の私が、タイムマシンで今の時代に来たら、その「変化」にすげー驚くだろう。


      ◇


ここから、今日の本題。

私たちが求めてきたものは何だったか。


「大人」に求めたのは、「子どもの人権」についての理解だった。

では、「子ども」たちに求めてきたのは何だったか?



子どもたちに求めたのは、「みんなが一緒の理解」をすることではなかった。


一人ひとりの子どもが、出会うこと。

条件に合わない子を分けてしまうのでなく、だれもが相互性と応答性にあふれる日々を暮らすこと。


この子をキライでもいい。
すぐ怒るところがイヤ、と言ってくれていい。
もっとまじめにやれよと、言ってくれる子がいてもいい。

だって、ただの地域の小学校だから。
好きな子、嫌い子、気の合う子、合わない子、いろんな子が集まる場所だろ。

たまたま、同じクラスになった三十人。
クラス替えが楽しみなこともある。

この子が、自分のモノの見方や行動がキライな子どもに出会うこと。
それも、ひとつの理解だ。

好きな子も、嫌いな子もいるクラスのなかで、「いること」は共有できる。


「いること」「いるだけ」
それがどれほど大事なことか。

この社会に、それを説明する言葉は少ない。

「いること」
それは、無条件の肯定的態度そのものだから。


無条件の肯定的態度から育つものは、嫌いとか好きとかを超えたものだから。

それは、「分けられて」育つ「善意の理解」とは、比べ物にならない人生の宝物になる。お互いの人生にとって。  (※1)



(つづく)


(※1)
「いること」「いるだけ」

それが、許せないと感じる人たちは、特別支援教育を信用している訳ではないようだ。

ただ「無条件の肯定的態度」というものが、許せないようにみえる。

「幸せ」や「承認」は、ある条件をクリアした者にだけ、訪れるべきだと教わったからかな。

この話は、また別の機会に。
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