ワニなつノート

まじめにきょういくのはなし(その1)



まじめにきょういくのはなし(その1)


1.《子どものことば》


母親が知的障害といわれるしょうがいのある子どもにたずねる。

子どもは普通学級に通っている。
高学年になり、よく言われるように授業も難しくなっている。
一年生のころと同じように、休まず学校に通っているけれど、実際のところ、学校生活についてどう思っているんだろう。
そんなことを思って、ふとたずねる。


学校はたのしい?

うん。

どんなときがたのしい?

こくご、さんすう

…(でもテストはほとんどできてないよね)ということばは飲み込んでたずねる。どんなところがたのしいの?

わからないこと(しらないこと)がたのしい。


ほんとうを言えば、お母さんは、「やすみじかん」とか「きゅうしょく」という答えが返ってくるものとおもっていたという。

学校には、毎日、休まず通っている。
でも、勉強はもうかなり難しい。
それでも何か楽しいことがあるから通っているのだろう…。
それが休み時間でも給食でもいい、子どもが何か楽しいと言ってくれるものがあることを、確かめたい気持ちもあってたずねたのだろう。

でも、子どものこたえは、「じゅぎょうがたのしい」という、ことばだった。

しかも、音楽とか図工とか体育ではなく、難しくて嫌いなんじゃないかと予想していた教科だという。


       ◇


2. 《ことばのいみを一年考えて》


その話を聞いたのはもう一年前のこと。
それ以来、そのことばが頭を離れない。

「普通学級に入って、ついていけるか…」、
「わからない授業はかわいそうなんじゃないか…」
「その子のレベルにあわせて教えてあげるのがいいんじゃないか…」

就学相談会などで、そんな言葉を耳にするたび、その子のことばを思い出す
その子の笑顔と声と、一年生のころの顔と、お姉さんになったいまの顔を思い出す。

わからないこと(しらないこと)がたのしい。

この一年をかけて、わたしも彼女のことばを理解できるようになってきた。
そう、彼女の学びの意味、彼女の学びの気づきに、ようやく私も追いつきかけている。

わからないことがたのしい、とは、
自分がわからないことをわかるようになるから、ということ。

学校の授業は、自分のしらなかったことを教えてくれる。
自分の知らない世界が広がる、ことはたのしいこと。
自分が知らなかった新しい世界のことを、学校は、授業は、友だちは、教えてくれる。

それは、ペーパーテストをして、その子がどれくらい知識を覚えているか、一人で文字で読んで一人で考えて一人で文字で答えなさい、というやり方で、図れるたのしさや学びではない。

評価という言葉を使うなら、
その子の学びに対する評価は、
授業で大好きな先生と大好きな仲間と出会う新しい知識や物語の世界そのものを体験するまなびそれ自体の充実感と、
先生や仲間の承認の存在、そしてその学びをよろこび励ます親の態度そのものです。

3とか1とか、○とか△の記号で子どもを「評価」(値踏み)するのは、古い時代の先生のこだわりに過ぎません。

子どものまなびあう喜びが見えず、子どもが△や×に見えるのは、「あまりにかわいそうで心より同情申し上げます。」としか言えない。


     ◇


3.《東京大学 大学院 教育学研究科 教授のことば》


「大半の教師が、子どもがつまずくとそれ以下のレベルの内容に引き下げて教えようとします。
この誤謬は、教育においてもっとも大きな誤謬と言ってよいでしょう。」

「『学力』は基礎から上に積み上げて形成されるのではなく、逆に上から引き上げられて形成されていくのです。
教育心理学を学んだ人は、ヴィゴツキーの『発達の最近接領域』と『内化』の理論を思い出していただければ、この意味が明瞭に理解できるでしょう。」

「『学力』を形成するためには、自分のわかる(できる)レベルにもどって積み上げてゆくのではなく、自分のわからない(できない)レベルの事柄を教師や仲間とのコミュニケーションをとおして模倣し、それを自分の中に『内化』することが必要です。」

「学びにおいて必要なことは、わからない(できない)ときに階段を下りて下から昇りなおすのではなく、仲間や教師の援助によってわかる(できる)方法を模倣し、自分のものにすることが大事です。」

「学びには《背伸び》と《ジャンプ》が必要なのです。」


【学力を問い直す 佐藤学 岩波ブックレットNO.548】より

      ◇


4.《わたしが受けとり、教えられたこと》



知的障害といわれるダウン症の子どものことばと、
15年前に読んだ時にはよく理解できなかった大学教授のことばが、
この一年のあいだに、私の中でまざりあい、腑に落ちていく。

誰が、子どもを「知的」に「障害」があり、よくものが分からない人、難しいことが分からない人、小学校の授業さえ分からなくてかわいそう、などといえるのだろうか。

大学教授のことばも、子どものことばも、
わたしがそのときに理解できなかったのは、
わたしの「まなびの体験の貧しさ」であり、
しょうがいのある子どもとの「出会いの貧しさ」の結果だとわかる。



だから、子どもを分けてはいけない。

子どもたちの出会いのために。

子どもたちの未来のために。

わたしじしんが、子どもとであうために。
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