まじめにきょういくのはなし(その2)
1.《スイミングスクールで》
学生のころ、スイミングでアルバイトをしていた。
5年も続いたのは子どもとつきあうのが最高に楽しかったから。
35年も前だけど、障がいのある子がなにげにまじっていた。
会社にとくに理解があったという訳ではなく、申し込みがあったんだから、まあ、適当にその時間、面倒見てよ、というゆるい感じだった。
養護学校の子も、そこではふつうにいた。
といっても、上達はしないから、いつまでたっても「初心者」のクラスで、他の子たちは次々進級していく。
新たに入ってくる子は、スイミングは初めての子だから、そこにしゃべらないヘンなお兄ちゃんがいても、そういうもんかと受け入れるしかない。
はじめは、挙動不審な言動に、ちょっと逃げ腰だったりするが、コーチがふつうにその子と「会話?」しているうちに、ああにほんごは通じるらしい、と理解する様子が伝わってくる。
(その内の何人かは、なんの偶然か、たこの木の岩ちゃんのところで「自立生活」をしている。)
そんなゆるいスイミングのあるクラス。
4年生のお姉ちゃんと2年生の弟が同じクラスにいた。
お姉ちゃんの方が先に入会していたのだが、弟の方が上達が早く、一年でお姉ちゃんに追いついてしまった。
お姉ちゃんは平泳ぎの足が苦手で、その級で止まっていた。
このままでは、弟に追い抜かれてしまう。
そう思って私は、お姉ちゃんをよりていねいに教えてあげようとした。
そのときも、他の子たちには反復練習を言い渡して、そのお姉ちゃん一人だけ、その苦手な部分を直してあげようとした。
すると、今まで私になついていた弟君が不機嫌な顏になった。
お姉ちゃんだけひいきして、自分にもちゃんと教えろよ、ということかと思った。
でも、弟の言い分は違った。
「姉ちゃんがかわいそうだ」という。
ひとりだけ、みんなと違う練習をさせられて、かわいそうだと、大人のコーチである私に堂々と異議申し立てをするのだ。
もう顔も思い出せないけど、坊主頭のかわいい弟だった。
学生の私に、大事なことを教えくれた恩人だ。
◇
2.《定時制高校で》
定時制高校で教えていた教科は国語だった。
だから外国の子どもを取り出して、日本語を教える場面があった。
フィリピンの子やタイの子、中国の子どもたちと、個別や少人数での授業をする時があった。
その子たちは本当に日本語が分からなくて困っていた。
授業だけでなく、職場でも、家でも、言葉の壁に困る場面があった。
少しでも早く日本語を覚えたいと思っていた。
だから、普通の授業より、個別の授業のときの方が楽しそうだったり、生き生きする姿があったりした。
そこでは、抜き出す目的と限界がはっきりとわかっていた。教える方にも、生徒の方にも。
いや、日本語を教えるスキルなどない私よりも、生徒の方が学びに真剣だった。
大人が小さい子どもに「教えてあげる」のではない、わたしも生徒もおなじ大人だった。
その一方で、日本人であるふつうの生徒たちは、「個別」を嫌がった。
先生たちが良かれと思って提案する補習授業のようなものも、「自分だけ、抜き出される」ようなニュアンスが匂うときには、野生の狼のように毅然と距離を取った。
こちらとしては、敵じゃないということを示したいのだが、それ以上に、彼らのそのプライドに、私は素直に敬意を感じた。
理屈ではない。善意が分からないのでもない。
8才のわたしがいちばん大切にしたかったものと同じものを、守ろうとしているのだとおもった。
8才のわたしのとなりには、お姉ちゃんを守ろうとした弟君がいた。
◇
3.《東京大学 大学院 教育学研究科 教授のことば》
【学力を下から積み上げるイメージは、底辺校と呼ばれる高校の教師の中に根深く浸透しています。
都市部の底辺校と呼ばれる高校に入学してくる生徒たちは、ほとんどが小学校、中学校で「オール1」に近い成績であった生徒たちです。
したがって、ほとんどの教師たちが、彼らの学力を小学校三年のレベルと判断しています。
ところが、これら底辺校と呼ばれる高校の生徒の意識を調査すると、学校に対する最大の不満が「授業がやさしすぎる」ことです。
「もっと難しい授業をしてほしい」という要望が切実に表現されます。
教師は「わかる授業」をつくるのに必死ですが、生徒は「わからない授業」を求めているのです。】
【・・・私が協力している底辺校と呼ばれる高校で、入学時の生徒の数学の学力レベルを調査してもらいました。
その結果を見ると、教師たちの予想に反して、ほとんどの生徒が小学校六年のレベルの学力を形成していました。
しかし、中学校一年のレベルになると半数、中学二年のレベルになると3分の1、中学三年レベルでは5人の1以下に正答率が減少していました。
この結果は、学力が上から引き上がることを傍証していると思います。
この生徒たちの通う高校で、もし通常の高校の授業が行われたならば、やはり数学の成績それ自体は「1」のレベルにとどまるかも知れませんが、卒業時には中学校三年のレベルにまで学力の遅れを修復する可能性があるのです。
「もっと難しい授業をしてほしい」という多くの生徒の切実な声は、理にかなった要求だったのです。
もう一度くりかえしますが、学びには《背伸び》と《ジャンプ》が必要です。】
【学力を問い直す 佐藤学 岩波ブックレットNO.548】より
◇
4.《わたしが受けとり、教えられること》
数学の話は、障害児には当てはまらない、という人もいるだろう。
足し算もできないのだから、どんなに難しい高校の授業を受けても、小6の学力レベルになんかなる訳がない、と。
それはそうかもしれないと、わたしもおもう。
でも、ここで話しているのは、そういうことじゃない。
1~3の話に共通しているのは、子どものはなしではなく、教える側の「勘違い」のはなしだ。
教える側のあまりに「無理解な態度」と「無反省の態度」、そして「無知」についての話しだ。
それともうひとつ。
前回の小学生の女の子の「わからないことがたのしい」「あたらしいせかいをおしえてもらえることがたのしい」ということばは、能力や授業や評価のはなしをしているのではない。
先生への信頼の話をしているのだ。
「わからない」ことがあるわたしに、「あたらしいせかい」をしるたのしさを、おしえてくれる先生へのしんらいを、ことばにしているのだ。
わたしが「わからない」としても、だれもバカにしたり、排除したりしないで、いっしょにまなび、わたしの知らないことをおしえてくれる、なかまへの信頼が揺るぎないからこそ、言えることばだ。
底辺校の生徒が「わからない授業」を求めるとき、そこに、まだ「学校への信頼」「先生への信頼」が残っていると、読むべきなのだ。
小学校から中学校まで、×、×、×、1、1、1と見捨てられたような評価を叩きつけられながらも、学びたい気持ちと、応えてくれる先生への信頼がまだ残っているから、言えることばなのだ。
そして、もちろん、自分自身への信頼も。
その自分への信頼を、自己肯定感と呼ぶのではないか。
その信頼に、応えるのはだれか。
「オレダなぁ」と、
松山千春のモノマネで答えてもらえるとうれしいのだが…(・。・)
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