ワニなつノート

わたしは、無条件に子どもの側につく(その3)

《A》 《どの子も普通学級へ》


私にとって、「どの子も普通学級へ」は、
「無条件に子どもの側につく」ことそのものでした。

私にとって、「どの子も普通学級へ」は、
「無条件に子どもの側につく」人に出会うことでした。

それは、親でなければなりません。
親以外に、そこに立つことはできません。

私が、そのことの意味に本当に気付いたのは、
Kさんと、YUに出会えたからでした。

  □     □     □

Kさんは、私にとって初めての「通級児童」の母親でした。

普通学級から、情緒障害児学級への「通級」でした。
週に2日、一人でバスに乗ってきて、
その日は一日、そのクラスで過ごしました。
小学校4年生の一年間を、私はその子と過ごしました。

一年後、彼は「通級」ではなく、
その学級に「転校」することになります。

そのまた翌年、Kさんはもっと障害の重い弟を、
普通学級に入れたいと、私に話してくれました。

「お兄ちゃんのときは、だまされたから」と、
私に言いました。

私は、あのとき、
Kさんと長男を、だます側にいたのでした。

その年の暮、Kさんは脳梗塞で倒れ、亡くなりました。

「お兄ちゃんのときは間違ったから、
この子は、しゃべれなくてもいい、
勉強できなくてもいいから、
普通学級で、みんなの中にいさせてあげたい」

弟はみんなのなかで育てたいという、
Kさんの命がけの願いはかないませんでした。

弟は、お兄ちゃんと同じ、
情緒障害児学級に措置されました。

  □     □     □


十数年後、私は児童相談所にいました。

夏休みのある日、
一人の中学生が一時保護所にきました。

林間学校に出かけているときに、
父親が急死したためでした。
父子二人暮らしで、他に身寄りはないようでした。

「知的障害」と言われる子で、しかももう中2。
養護施設には、受け入れてもらえない子でした。

そうなると行政は彼を知的障害の施設に措置します。
そこから、普通学級に通うということはないでしょう。

彼は、たった一人の家族である父親と、
「普通学級」という居場所を、
一日にして失ったのでした。

私は、Kさんを思い出していました。
Kさんの声を思い出していました。
そして、会ったことのないYuの父親が
どんな人だったろうと思いました。

あのときに、私は、
「無条件に子どもの側につく」ことができるのは、
障害児の場合には、親だけなのだと思い知りました。

この国では、障害のあるふつうの子どもの
当たり前の居場所、
当たり前の子ども時代を守れるのは、
「親」以外にはいないのだと。

親が死んだら、障害のある子どもが
普通学級にいることを守れる人はほとんどいません。
子どもを分けられることから、
差別から守ってくれる人はいません。

児童相談所も教育委員会も、
それまで、父と子が、どんな思いで、
その居場所を守り生きてきたのか、
そんなことは関係なく「仕事」をするのでした。

だから、私は、そのことを伝える
一度きりのチャンスである就学相談会で、
心の底から願うのです。

どうか、「無条件に子どもの側についてほしい」と、
それだけを、こころの底から願うのです。

「条件つき」なら、
子どもを保護する人、子どもを教育する人はいます。
でも、「無条件で子どもの側につける」のは、
とくに障害児の場合、親しかいないのです。


(つづく)

コメント一覧

ishizaki
かいとママさんへ

通所施設にも担任と就学面接?(相談じゃあなんですよね~)があるんですね。
私は、保育所の先生も、発達センターの先生にも、一度も「どこの学校へ行くの?」や「特別支援学校にする?」などと言われたことはないのですが、
そもそも、自分自身が
「こういう子どもは、そういうトコロに行くのが普通で、将来のためにいいんじゃないか」と思い込んでいるところがありました
けれど、近くの学校には特学もないので、普通学級に行くしかないから、前もって就学の相談をしておこうと、教育研究所(教育委員会)へ相談に行きました
そこで、その担当者に、「子どものために、学校を選ぼう」とか「授業についていけないとかわいそう」とか、決まり文句をいっぱい言われ、私は逆に「あいかわらず、学校の先生っていうのは、差別的で信用できない奴らだ!」と確信しちゃいました。

今は、普通学級に実際に行っているので、就学前の不安はなんにも問題ないと、断言できるのですが、
行ってみるまで、不安はありますよね。
特学のような決まった空間だと、その担当のセンセイ以上には成長できないと思うんですよね。
いろんな子どもに囲まれ、希望と才能にあふれる子どもたちと生活する中で、障害がある子どもも一緒にどんどん成長していくと感じています。

私、ひそかに「トモくんって天才かも・・・」と思っているんです(^^ゞ

かいとママも、4月以降が楽しみですね(^.^)/~~~
かいとママ
友人が通所施設の就学相談(担任との面談)で、「普通学級希望」と伝えた時の話に、衝撃を受けました。    「英語を話す国に入れるようなもの」        「普通学級の先生が何をしてくれるのか」      「普通に入れるなら、今後ビシビシやりますよ」などの暴言。学校を選ぶのは親じゃない、子どもがそこに行きたいと言っ/たのか、と言い、側にいた子どもに、支援学校の名前と支援学級の名前を言い、どちらに行きたいか聞いたそうです。耳を疑うような現実です・・・   その友人から昨日メールがありました。       「障害児の親は子どもの将来に期待したらいけい。  障害者は障害者用のレールの上を黙って進めばいい  そこからはみ出すと、大変なことになる。可能性な  んてないんだよ・・・そう言われているようだった  ありのままのこの子でいいのに、子どもが色々でき  るようになったと勘違いしている親の扱いだった。  障害があっても、普通に生活したいだけなのに、壁  になるのは支援者という人なんだね。子どもの挑戦  を支援し、何かあったら、いつでも相談に乗るよと  いうのが本当の支援ではないの?」         悔しいですね。今まで先生として信頼していた人から、脅迫のような言葉が出るなんて。わたしには、この現実を受け止めることが、なかなかできません。まだ、解かりません。なぜ???       
ai
補足
誤解を招く表現があったので、私と親友のことを少し付け加えさせていただきます。

親友は、息子○と同じ年に、病気で息子さんを亡くしています。小学6年生の秋でした。
彼女の子どもさんにも障害がありましたが、普通学級に在籍していました。そこも壁の厚い地域。悩み苦しみながらの学校生活だったようです。それでも、すてきな関係は、たくさん築けていたようでした。
母親だからこそ解るいろいろな思いを、いつもともに共有してもらっています。



ai
秋風がひんやりと肌寒く感じられるようになりました。
気がつくと、もう10月なんですね。
早くも色づき始めた庭の紅葉を見ながら、夫が亡くなってから無我夢中で走り続けてきた二人だけの生活を思いました。

読みながら、号泣しました。

yoさんのつむぎだす、一言一言にうなずきながら。
子どもを残して先に逝く、夫、Kさん、そしてYUさんのお父さんの思いを感じ胸が痛くなりました。
辛く悲しい現実は、私たちの将来の姿に重なり、涙がとまりませんでした。

いつも流す涙と違い、今朝流す涙は、なぜか頬に温かく感じました。ちょっと待って!どうして、どうして親だけなの?
と怒りの思いが湧いてきました。

かつて、母親だった私の親友に、「もし、私に何かあったら、○を頼みます。」とお願いしました。その人は、私たちの一番の理解者だったからです。「解った。その思いしかと受け止めます。」と言ってくれました。
後から、「私に託された思いが、どんなに責任の重いことかを改めて感じています。」とのメールが送られてきました。無条件に○君の側に立つ覚悟が自分にあるかどうか問われている気がした。でも、自分しかいないことも解る。引き受けるわ。と。

メールを受け取った私は、急がなければならないと決意しました。
無条件で子どもの側に立てるのは親だけなのだということを知らせるため。
そして、そんな親を側でサポートしてくれる人を、一人でも多く見つけることを。

普通学校や普通学級に行けるだけで満足していてはいけないのだ。学校生活は、この子たちの将来につながる大事な道なのだから。
通級、交流、お客様なんて言葉に騙されてはいけない。
そんな形だけの「ともに」はいらない。その中身が大事なんだってことを。

かなえられなかった願い。
必ずかなえたい。
と思いました。









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