「受けとめられ体験」から「受けとめ合い体験」を考えるようになって、
出会ってきた子どもたちのことを、
以前にもましてよく思い出すようになりました。
それと同時に、娘と向き合ってきた日々を思い出しながら、
伊部さんや、たっくんのお母さんたちにもらったものの
暖かさと大きさをあらためて感じています。
よくまあ、これだけたくさんの素敵な親子と、
私は巡り会えたものだと思います。
ことばを話さない子ども、歩くことや食べることも
一人ではままならない子どもを「ふつうに育てる」こと。
その日常には、端から見ているだけで、
こぼれおちる愛情が確かにあふれていました。
どれほどに大事に子どもと向き合い、慈しみ、
ふつうに日々を生きているかを、私は見せてもらってきたのでした。
例会やキャンプといった場所での、親の表情やさりげないしぐさ。
そして、何より我が子と同じ障害のある小さな子どもへ向ける
まなざしのやわらかさ。
語りかける声とともに伝わる小さな命への愛おしさ。
その優しさと同じ目と声と表情で、
子どもに対する理不尽な扱いには、
どんな相手であっても屈することなく、立ち向かう人たち。
願いが叶わなくても、思いが届かなくても、あきらめることなく、
投げ出すことなく、ただまっすぐに歩き続ける人たち。
その世界のすぐそばに、わたしはいさせてもらってきたのでした。
何より、私が一番多くのものをもらったのは、
その子どもたちが暮らす家の中の気配に触れ、
感じさせてもらった経験でした。
私が幸運だったのは、子どもの家の中の気配、
家族の中で交わされる当たり前のやりとりに、
私自身が「受けとめられることの意味」を
感じさせてもらってきたことでした。
当たり前のことですが、外で会うときと、
その子どもの家の中で会うときと、
子どもという生き物はまったく別の子どもになります。
知ちゃん、たっくん、朝子…。
それぞれの子どもの家の中には、
ふつうの親子、ふつうの家族の暮らしがありました。
そこには子どもが生まれたときから呼吸してきた世界がありました。
そうしたそれぞれの家の気配と、子どもたちの顔を思い出しながら、
Yちゃんが亡くなったあとに家におじゃましたときの、
お母さんの言葉をいま思い出します。
いつも静かな子だったから、いまも家のなかに、ここにいる気がすると…。
そのとき、そこで感じたもの、ことばにはできないものを、
いま私はあらためて感じています。
ふつうの親子、ふつうの家族でいることが、そこに確かにあって、
そのふつうの関係の延長に、ただふつうの幼稚園生活、
ふつうの学校生活があったのでした。
そうした場所には、「教育」がことさら入り込む余地はなかったのだと、
本当に、今、この瞬間、気づきました。
たぶん、「高校」もただその先に、
ふつうの生活として現れるものだったのでしょう。そして仕事も。
いまようやく私にわかってくることがあります。
私は、普通学級で生活する子どもたちの手に入れるもの。
それらが誰の目にも見えるものだと、思ってきました。
私自身が、子どものころには知らなかった世界がそこにはあり、
ただそこに居合わせることができれば見えるものだと思っていました。
しかし、教育のまえに、私たちは、子どもの生活を、
もっともっと考え、感じなければいけないような気がします。
伊部さんやたっくんのお母さんと出会うことができて、
私は「障害児」とよばれる小さな人たちへの感性を、
「育ち直し」させてもらったのだと、いま感じています。
それは、ふつうの子どもへの感性を、
「育ち直し」させてもらうことでもありました。
そのことを何とかことばにして伝えたいと思っています。
朝子の笑顔、たっくんの笑顔。康治の笑顔。
そうした笑顔の先には、ひたすら人間的な対応と、
誰に対しても一人の人として受けとめ合う覚悟をもった人たちの
まなざしがありました。
私が、どのような覚悟で、娘と生きてくることができたか。
私と娘の「受けとめ合い体験」を、根底から守りそだててくれたのは、
一番大事なことを教えてくれたのは、康治やたっくん、朝子だったと、
いま確かに分かります。
娘は、いわゆる障害はなく、重い病気もせずにここまで育ってきました。
その中で、たとえ娘が、康治やたっくんや朝子のように障害があっても、
ニィがニィであることに変わりなく、
私とニィの関係も同じだという確信をいつのときも、
確かなこととして支えてくれたのは、
まぎれもなく伊部さんたちとの出会いでした。
ニィが生まれる前、そして生まれてしばらくは思っていたことを、
18年たって、いま思い出しています。
伊部さん。
ちょうどお盆だし、うちにもよってこれを読んでいってください。
「ちがうんだよなー。そうじゃないんだよなー」
いつものようにそう言いながら、寄っていってください。
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