ワニなつノート

守る? 何から? (その3)

守る? 何から? (その3)


初めて「援助ホーム」の存在を知ったのは、27歳のときでした。
定時制高校の2年生の女の子が「援助ホーム」から通っているのだと聞きました。

大阪から一人で東京に出てきて、昼間働きながら定時制高校に通っている…。
その彼女の存在感は、圧倒的に私より大人でした。
私は何一つ、この子にはかなわないような気がしていました。

中学卒業して、一人で生きる?
故郷を離れて、東京で?
親の仕送りではなく、自分で働いて?
定時制高校に通う?
自分の夢をかなえるために勉強する?
援助ホーム?

私にはまったく分からない世界でした。
親の金で浪人して、親の金で東京に出てきて、大学の学費も仕送りも親頼みで。大学を出た後も、自分が何をしたいのか分からず。27で失業中に、偶然誘われた定時制高校で、「先生」と呼ばれて。まるで幼稚園の子どもが、高校の先生になってしまったような感覚がありました。

その彼女が、中島みゆきが好きで、中島みゆきを支えに生きている…という話を保健室の先生に聞いたとき、ほっとしたのを覚えています。
彼女の苦労は、私には微塵も分からないけれど、私もまた中島みゆきで生き延びてきた思いがありました。

あれから、たくさんの子どもたちと出会ってきました。
定時制高校というところは、私にとって出会いの宝庫でした。
ベトナム、タイ、フィリピン、中国、韓国から日本にきた子たちに日本語を教えながら、それぞれの子どもの辿ってきた人生を教えてもらったのは私の方でした。
本でしか読んだことのない「難民」という人が、目の前にいました。
小さなボートでベトナムから逃げてきた子どもが、目の前にいました。

同情とか理屈ではなく、「かなわない」と感じる自分を、自分で受け止めざるを得ませんでした。かなわないというのは、自分が自分から逃げているという感覚のようなものでした。
逃げる余裕があるから、自分の苦労に向き合わず、いい加減に生きている、そんなことを感じていたような気がします。

今でも、私に足りないのは「覚悟」という心持ちのような気がします。

中学校の適応教室で仕事をしてみようと思ったのも、定時制での出会いからでした。
定時制で出会った子どもたちとつきあっていて、「あの子は中学では不登校だった、小学校から不登校だった」という話を聞くことが多くありました。

でも、その子たちは、高校に毎日通っていました。
彼らが、中学時代、どんなふうに過ごしてきたのか、知りたいと思いました。
彼らが生きている「中学」と、こうして普通に通ってきている「定時制高校」とは、何が違うのか。
学校が嫌い、集団が嫌い、であるなら、高校だって同じです。
中3から高1で、急に別の人間になるわけもありません。

それなら、そこには、どういう違いがあるのか。知りたいと思いました。
そうして昼は中学校の適応教室、夜は定時制高校という生活を14年くらい続けました。同じ地域の学校だったので、中学1年から定時制4年まで7年間つき合えた子もいました。

知りたかった答えは、子どもたち自身は、どこにいても同じということでした。

子どもたちに「不登校」させるのも、「問題児」にするのも、しないのも、「周りの大人・学校」だという当たり前のことでした。

児童相談所の一時保護所で、虐待された子どもとつきあっているときにも、同じことを感じました。児童相談所というところは、学校とは違って、子どもの気持ちに寄り添うところだと思っていました。でも決してそんなことはありませんでした。学校とか児相とか病院とかの「場所」ではなく、「ひと」でした。

児相で一番ショックだったのは、6歳の子どもにも平気でリタリンを飲ませていることでした。私が学校や会で、ふつうに付き合ってきたと同じ子どもが、ADHDとか名前をつけられて、ただ「おとなしく」させるために、薬を飲まされていました。
二か所の保護所で、そのことを疑問に思っている職員に、一人も会いませんでした。


そして、障害のある子どもたちとのつきあいも、同じでした。
子どもは、みんなふつうの子どもでした。
一人一人がまったく違う、けれどみんなふつうの子どもでした。

支援とか、援助とか、
支えるとか、守るとか、
子どもの心に寄り添う、とか、
「ぜんぜん違うじゃん」と、いろんな職場で思い続けて、
小学校でも、中学校でも、高校、定時制でも、情緒障害児学級でも、ことばの教室でも、児童相談所でも、援助ホームでも、
どこでも、「違うじゃん」と思うことばかりがあって、

そうして、思いがけず、自分でホームを作ることができて、
本当に子どもたちの心を、大事に出来る場所を、作りたいと願っていたはずなのに。
人の気持ち、弱さ、失敗、非常識も世間知らずも、大事に出来るようになりたいと願っていたはずなのに、
実際は、子どもがシッパイしないように、苦労しないように、ちゃんとできるように、そんなことに縛られている自分がいっぱいいます。

「子どもを守る」
何から?
私の常識から。
私のお節介から。

子どもの苦労を、私の押し入れにしまいこんでしまうのは、
私が子どもの苦労を見ないですむようにしたいだけ。

「あなたのため」
そう言いながら、「あなたのために、いい人である私」のためでしかない。

だから、子どもが失敗しないように、ではなく、
子どもが自分の苦労を自分で引き受けるために、
子どもの失敗に揺るがない自分を鍛えた方がいいのかもしれません。

私は、ここにくる子どもたちが、とりあえず19になるまでは、待つだけが仕事のような気もします。

子どもが子どもであることを、「待ってもらえかった」環境が、虐待なのだから。

ここに、いつまでもいられる訳ではないけれど、19歳から残り一年あれば、いまの私のお節介や常識よりは、ましな道が見つかるような気がします。





 ここまで書いてきて、やっぱり思います。
子どもが子どもであることを待ってもらえなかった環境、が虐待だと私が思うとき、
障害のある子どもたちが、迫られている「発達」や「できること」を、親切に迫る環境もまた、虐待ではないのかと。
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