相談会の帰り道は、「あれも言い忘れた、このことも言い忘れた」と、いつも必ず一人反省会になります。でもそれもビールを飲んでいるうちにうやむやになります。
ところが7月の相談会は入院中だったので、ビールを飲まずに病院に帰りました。
そのため、一晩中、頭の中で反省会が続きました(・.・;)
翌日も、ベッドの上で有り余る時間…。
いつまでたっても反省会が終わらないので、仕方なく9月の相談会の準備を始めました。
相談会の後に後悔しないために、どうしても伝えたいことって何だろう…。
◇ ◇ ◇
《子どもを分けないこと》
障害の有無で子どもを分けないこと。
私たちは、子どもにどんな障害があっても、家で家族と一緒に暮らし、きょうだいと一緒に、地域の保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校で、同年齢の仲間と一緒に、子どもたちを育てることのできる環境を作りたいと願っています。
◇
《子どもを分けて(捨てて)きた歴史》
この国は長い間、人間を、子どもを、障害で分けてきました。
それがごく当然のように、非人間的な扱いを行ってきました。
明治時代、学校の始まりから、「廃人」と言われた子どもは、「ソノタ」の扱いでした。
明治33年には、法律で座敷牢に閉じ込めることに決められました。
その対象は「精神病者」とありますが、当時は、「知的障害」も「てんかん」も「肢体不自由」も「脳性まひ」も、時に「ろう」も、「精神障害」に含まれていました。
同じ時期にできた、就学猶予免除の制度は、座敷牢の世界と対のものです。
これが法律で禁止されたのは昭和25年。
いま60歳以上の人たちは、「障害児・者」を押し入れや物置に檻と鍵をつけ、警察が管理する座敷牢に閉じ込めておくのが「法律上」正しい時代に育っているのです。
私は学生の時に、福井達雨さんから、「親を説得して、子どもを座敷牢から学園に連れてくること」と、「どの子も地域の普通学級で共に学ぶべき」だという話を、自分の子ども時代と一つながりの話として聞きました。
今の教育制度を作ってきたのは、そうした文化で学び育った人たちです。
その人たちは、「情緒障害児学級」を、「性格異常学級」と名付けていました。
1961年の改正まで、特殊学級の一つとして学校教育法に明記されています。
同じころ、そうした「異常児」を発見する目的で始められたが、就学時健康診断です。
ちなみに、私が教育実習に行くときに大学から渡された実習ノートの表紙には、大きな文字で「異常児教育実習録」と書かれていました。
明治時代の話ではありません。
1985年(昭和60年)、千葉大学でのことです。
そのことを大学の先生も小学校の先生も誰も気にとめていないのは確かでした。
私は「異常児」の文字を自分で消して使いました。
その後、何年まで「異常児教育実習録」が学生に渡され続けたのかは知りません。
いまは「特別支援教育実習録」とでも書かれているのかもしれませんが、障害のある子どもに対する根底的な敬意のなさが変わっているとは、私には思えません。
(つづく)
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