「・・・」(仮題)⑦ (改)

2012-03-19 07:08:35 | 境界性パーソナル障害(BPD)



              「ボーダー」⑦ 


 途中になりましたがお断りしておきますが、私は、メンタルヘル

スの専門医でもありませんし、心理学を学んだこともないド素人で

すから、どうかこのブログに記してあることを真に受けて深刻に考

え込まないで下さい。もしも、あなたに当て嵌まる症状があれば迷

わずにメンタルヘルスの専門家のカウンセリングを受けるべきです。

その前に予備知識として以下のブログを参考にするのもいいでしょ

う。斉藤学氏はメンタルヘルスの第一人者です。


 さて、近代社会がもたらした個人主義は、それまでは共同生活の

中で忘れることができた虚無感も個人で解決しなくてはならなくな

った。当然のことながら、物質文明は精神、つまり宗教からの離脱

を促します。かつて、中世西洋社会では神への信仰が孤独を救って

くれたが、ニーチェが神を殺してからは、思想界には無神論が席巻

して凄まじい勢いでペシミズム(厭世観)の風が吹き荒れました。孤

独とはただ独り在ることではないのです。孤独とはペシミズムとの

戦いなのです。ペシミズムの旗を掲げて「生きることは無意味だ」

と叫びながら襲って来るのは、もう一人のあなたです。いや、あな

たの理性と言ってもいい。あなたは他者の助けを借りずに独りで立

ち向かわなければならない。孤独とはもう一人の自分との戦いなの

です。

 その戦いを、生きようとする本能と無意味だと言う理性の戦いと

しましょう。この戦いが本能にとって不利なのは、本能は言葉を操

れないことです。本能は「在るべきか、在らざるべきか」などと思

考しないからです。つまり、思考こそが理性のホームグラウンドな

のです。ただ、本能が理性を駆逐することができるのは、生命その

ものだからです。生命そのものが本能のホームグラウンドなのです。

思考といえども生命に宿っています。そこでは「是非」を問う言葉そ

のものが無意味なのです。つまり、生命に「生きること」の是非を問

うこと自体が無意味なのです。生命に従いませんか?


                                   (つづく)
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「あほリズム」(193)

2012-03-18 09:52:45 | 境界性パーソナル障害(BPD)



               「あほリズム」


                 (193)


  理性は、我々が生きることにいちいちケチをつけたがるが、

  理性が命を生むことはない。 



                  (194)


             

               1 + 1 = 「ケチッ!」
  

 
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「ボーダー」⑥

2012-03-17 09:58:10 | 境界性パーソナル障害(BPD)


              「ボーダー」⑥ 


 世界経済のグローバル化によって、古くから地域に根差した文化

や暮らしが大きく変わり、好むと好まざるに関わらず近代文明の波

は未開の地の津々浦々にまで遍く浸透し、大分前の話だがテレビで、

砂漠の遊牧民ベドウィン族の人がスーパーのレジ袋を提げて歩いて

いるのを観て驚いたことを思い出したが、今では、仮に彼らが駱駝

から降りてセグウェーに乗って移動していても、もうそんなに驚か

ないだろう。近代文明がもたらしたのは単に物質文明だけではなく、

地域に伝わる生活文化をも変えてしまった。機械文明は共同社会を

破綻させ、核家族化を促し、人々の生き方は個人主義的になる。そ

れまでは家族や社会に協調してきた人々も自分の部屋に閉じ籠って

自分自身と向き合う。つまり、人類は近代建築の空調の効いた部屋

の中で初めて自己を知る、否、孤独を知る。そして、

「私とはいったい何だ?」

そこで、生い立ちを遡って自分自身を探そうとする。変わらなけれ

ばならない今の自分が変えることのできない過去の自分に出会う。

アイデンティティーとは「自己同一性」と訳される。今の自分は過

去の自分によって構築された。変わらなければならない今の自分は

過去の自分と向き合わねばならない。過去の自分は何が正しくて何

が間違っていたのか。それは、自分が負わなくてはならないことな

のか?日本人であるとか、男であるとか女であるとか、生まれ育ちで

あるとか。それらは私が望んだ「私」ではない。こうして自省による葛

藤を克服して、自己同一性を獲得する。ところが、たとえば「アイデン

ティティー」という概念を提唱した心理学者エリク・エリクソンのように、

「ユダヤ系の母親の初婚の相手との間の子で金髪碧眼であり、再婚

相手のドイツ人医師の風貌とは似ても似つかない容姿であった。そ

のために自らインポテンツに悩んだという。実は、母の初婚の相手

との結婚生活はごく短期間で、エリクソンはその間の母親の不倫相

手との間の子どもであったらしい。実の父は写真家であったらしい

が、エリクソンの晩年に至るまで存命だった母親は、終生ことの真

相を明らかにしなかったという。自分は誰で、どこにその存在の根

を持っているのかという疑問が、彼の自らの心の探求の原点になっ

た。」(ウィキペギア「自己同一性」、ローレンス・J・フリードマ

ン著『エリクソンの人生』より)

と、自らの生い立ちさえも辿れなかったり、先に紹介したダイアナ

妃のように「人間になる」前に両親に見棄てられたり、或いは「人

間になる」前にチェリストに成ってしまったり、更には「人間にな

る」前の幼少時に、肉体的、精神的苦痛を受けた記憶がトラウマと

して残り、当のエリクソンによれば、アイデンティティーの喪失を

「自我同一性の拡散」と呼んでいるが、

「『自分が何者なのか、何をしたいのかわからない』という同一性

拡散の危機に陥り、その現れとして、対人的かかわりの失調(対人

不安)、否定的同一性の選択(非行)、選択の回避と麻痺(アパシ

ー)などをあげている。またこの時期は精神病や神経症が発症する

頃として知られており、同一性拡散の結果として、これらの病理が

表面に出てくる事もある。」(ウィキペディア「自己同一性」『同

一性拡散の問題』)

 つまり、生い立ちを遡ってアイデンティティーを探ることがトラ

ウマを蘇えらせてストレスになり、自己が確立されずに自己から

逃れようとして他者に依存するようになる(自己逃避と他者依存)。

もちろん軽重の程度は様々だが、ただ、他者への依存は切迫した衝

動として現れるので、感情的な激昂(すぐキレる)や見境のない性

衝動(セックス依存)、アルコール依存、過食と拒食を繰り返し、人

格が破綻して妄想を生み、遂には自傷行為にまで到る。彼らは何

らかの理由によって自己と向き合うことが苦痛を伴うので、つまり、

孤独に堪えられないので自分自身を忘れさせてくれる社会に執着

する。そして、それは実にそつなく熟(こな)される。世界の人々に愛

されたダイアナ妃のように。いったいどれ程の人が「本当のダイア

ナ妃」を知っていただろうか。



「この後は、どうすればアイデンティティーを取り戻すことが出来る

かを考えたいと思います」

                               ケケロ脱走兵


                                    (つづく)

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「ボーダー」⑤

2012-03-12 09:03:25 | 境界性パーソナル障害(BPD)



                「ボーダー」⑤


 我々は未だしも社会的な繋がりが強くて、そうは言っても家族

や組織を重んじる社会で暮らしているが、個人主義の国々では孤

独の虚しさに苛まれた人の絶望は計り知れない。かつて、「本当

のジャックリーヌ・デュプレ」というビデオを観たことがあった。

 ジャックリーヌ・デュプレはイギリス生まれの女流チェリスト

で、天賦の才能は直ぐに開花し、十才のときに国際的なコンクー

ルに入賞して、十六才にして早くもチェロ演奏家として衝撃的な

デビューを果たし国際的な名声を得た。その演奏はビデオの中で

も再三流されていたが、本当にすばらしかったことを記憶してい

る。すぐに、女流チェリストとして演奏を行なって世界を駆け回

り、二十一才の時にピアニスト、ダニエル・バレンボイムと結婚する

が、二十六才の時に「多発性硬化症」という難病に蝕まれて、そ

れからは舞台に立つことなく四十二才で惜しまれながらこの世を

去った。

 彼女は、四才から姉と一緒にチェロを習い始め、姉を追い越し

て十才の時にはすでにその才能が認められた。つまり、彼女は「

人間になる」前にチェリストになってしまった。しかし、チェロ

を演奏して人々を感動させることは出来ても、チェロを持たない

人間としての自分はどう生きて行けばいいのか分からなかった。

チェリストとしての名声よりも「人間になりたかった」彼女は温か

い家庭を求めたが、音楽家としての野心を棄てられない夫には

理解されなかった。あなたは私という人間ではなく、私の音楽を

愛してるだけだったの?チェロが弾けなくなった私を愛してはく

れないの?早くして世界的な名声を得て、さらに言えば若くして

大金を手にしても決して幸せになれるわけではないことを、彼女

は退屈な演奏会を飛び回りながら思った。そして、邦題の「本当

の」が意味する事実が暴露される。彼女は、自分が望んでいたは

ずの幸せな家庭を営む姉夫婦を嫉んでか、あろうことか姉の夫の

肉体を求め、姉は苦渋の末にそれを承知する。この本はそのお

姉さんによって書かれた。やがて、難病からの回復が見込めなく

なり、彼女の往生際を遂に世界的名指揮者となった元夫のダニエ

ル・バレンボイムが訪ねる。ところが、彼女は彼との面会を頑なに

拒み、身内だけに看取られて独りで旅立った。何とも寂しさとやり

きれない思いが残ったが、ただ、彼女、ジャックリーヌ・デュプレが

奏でるチェロの「エルガー」の荘重な調べが気高く流れて涙を堪え

ることが出来なかった。そして、何故か個人主義社会の孤独とは

こんなにも絶望的なものかと思った。

 BPDは個人主義の進んだ欧米ではメンタルヘルスの専門医に

よって随分以前から研究され、今ではその治療法も確立している。


                                  (つづく)

                      
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 「ボーダー」④

2012-03-12 04:27:23 | 境界性パーソナル障害(BPD)



              「ボーダー」



 さて、BPD(境界性パーソナリティ障害)とは、個人の中に、

個人的自我が形成されないまま、情報社会の中で社会的自我ばか

りが増長して、個人的自我が消滅して個人と社会のバランスが崩

れて倒錯が起こり、個人的自我にとっては手段であったはずの社

会が目的化してしまう。個人的自我は萌芽のうちに間引かれて社

会的自我だけが自我を形成する。すると、社会が無ければ「何の

ために生きているのか解らな」くなり、孤独に堪えられなくなっ

て自己を他者に依存するようになる。共同体や国家、或いは宗教

が生きる目的となり孤独の虚しさを埋める。実は、我々は症状の

軽重はあっても誰もがBPDに罹っているのではないだろうか?

 近代文明社会とは物質文明である。我々の暮らしは様々な機械

製品に依存して成り立っている。目の前にあるパソコンを取り上

げられたら、私は恐らく孤独に耐えられなくなって仕方なく本を

読むか、或いは孤独を忘れるために酒に手を伸ばすかもしれない。

というのも、私を形作る器官のほとんどは、皮膚にしろ五官にし

ろ外の世界へ向けられているからだ。自分以外の他者に依存せず

に自らの孤独と向き合うことなど一時も出来ないだろう。そもそ

も「自己」などといっても社会との関わり中から生まれた意識で

ある。自己の充実は社会との関わりの中からしか生まれないでは

ないか。いったい誰が文明を棄てて社会を棄てて自らの孤独と向

き合って自己を満たすことが出来ると言うのか。我々は「依存」

せずに生きることなど出来ないのだ。つまり、我々は、否、生き

ものすべては他者への依存によって生きている「依存症」である。


                                 (つづく)


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