「あほリズム」(896)

2022-04-04 23:12:02 | アフォリズム(箴言)ではありません

        「あほリズム」

 

         (896)

 

 かつて三島由紀夫は全共闘の学生との討論の場でこう言った、

 「ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っ

ておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間

、全然木像のごとく微動もしない。卒業式で。そういう天皇から私は

時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言

いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的

な歴史の中でそんなことがあるんだ。そして、それがどうしてもおれ

の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天

皇は。― 三島由紀夫「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(1969年5月

13東京大学900番教室壇上において)[ウィキペディア「三島由

紀夫」より]

 私は未だに「三時間全然微動もしない姿」の何が立派なのかがさ

ぱり分らない。


「あほリズム」(895)

2022-03-26 07:52:56 | アフォリズム(箴言)ではありません

   「あほリズム」

 

    (895)

 

 われわれはロシアによるウクライナ侵攻によって、中国による台湾

侵攻ばかりに目が向いているが、むしろ、中国は「独立国」北朝鮮を

けしかけて休戦中の朝鮮戦争を再開させようとするのではないだろう

か。当然のことながら韓国有事の際にはアメリカは米韓同盟の下で韓

国防衛に軍事力を傾けなければならない。中国は米軍が朝鮮戦争に軍

事力を割かれているその間隙を突いて、アメリカの軍事力が及ばない

台湾の併合を易々と成し遂げる。(「米国の台湾関係法は台湾の防衛を

保障するものではない」「台湾有事への軍事介入を確約しない台湾関

係法に基づくアメリカの伝統的な外交安全保障戦略は「戦略的曖昧さ」

Strategic Ambiguity)と呼ばれる。」ウィキペディア) さて、わが国

は近隣諸国が殺し合いをしている時に、ただ「戦争反対」を叫ぶだけ

で済むのだろうか?忘れてはならないのは、韓国と北朝鮮の共通の敵は

日本だということだ。


「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづきの続き

2022-03-10 03:05:07 | アフォリズム(箴言)ではありません

 「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづきの続き

 

 三島由紀夫は『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』の中

で更にこうも言っている、ここでも文中の「日本」を「国家」に置

き換えますが、

「『国家』はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、

ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国

が(極東の一角に)残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人た

ちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」と。

「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」とはどんな世界かとい

えば、まさに三島由紀夫が嘆くような世界に向かわざるを得ない。

デジタル化した世界は、もはや「国体とは天皇のことである」も「

血と大地」も「存在忘却」も、これまで人々が有史以来営々と積み

上げてきた伝統文化も精神も無機化されて、残るのは「機能」とし

ての「システム」だけなのだ。つまり、グローバル化によってロー

カルな民族の伝統文化は淘汰され無意味化される。だって天皇とい

う民族神話を日本人以外だれが信じたりするだろうか。つまり、「

超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」の下では国家はなくなる。

 私は何故ロシアのプーチン大統領がウクライナに対してかくも破

滅的なジェノサイドを決断したのかまったく理解できなかったが、

ただ、これまでにそのような理解不能で無意味な事件は何度か見聞

きした覚えがある。それは、古くは西郷隆盛による「西南の役」で

あり、戦後は連合赤軍による一連の革命闘争や、三島由紀夫自決

だった。おそらく国家主義者プーチンは「無機的な、からつぽな、

ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない」デジタル化した

「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」になびこうとするかつ

ての同邦ウクライナが許せなかったのではないだろうか。私は、プ

ーチン大統領に、新しい時代に希望を見い出せなかった晩年の西郷

隆盛や、連合赤軍、或いは三島由紀夫と同じ、たとえ世界が何と言

おうと「已むに已まれぬ」覚悟を感じないわけにはいられない。た

だ、彼らの覚悟は何れも成就しなかったのだが。

                       (つづく)


「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」

2022-03-09 07:33:43 | アフォリズム(箴言)ではありません

「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづき

 

 すでに世界は科学技術の発展によってグローバル化が進み、望め

ば世界中の見知らぬ人々と自室に居ながらモニター越しではあるが

いつまでも語り合うことができる。つまり、南米に居る人が友人で

あってもでいい時代で、世界中がインターネットで繋がっているの

だ。一般に「国家」の定義が「領土・人民・主権」だとすれば、世

界と繋がった個人を取り巻く生存環境もどうしてもこの国でなけれ

ばならないという必然性が希薄になった。そしてグローバル化の波

はやがて民族性の違いも容易く越えていくに違いない。つまり、領

土に縛られることなく、多様化した民族性の下での「国家」の主権

とは果たしていったい誰の主権なのか。一部の権力者の主権の行使

は他の多くの人民の人権を奪うことになる。やがて主権は人民監視

の下で個人に平等に分け与えられるしかない、こうして、インター

ネットの発達は「国家」の概念を希薄化させる。かつて、明治維新

の恨みから会津藩の人々は遠く離れた長州藩の人に一角の恨みを禁

じ得なかったが、近代化がもたらした交通機関の発達によって、そ

の距離が著しく縮まると、藩を超えた日本という国家の枠の下で、

日本人同士の交流が進むと遺恨が無意味になった。つまり、アナロ

グな「国家」を超えるデジタル化した「超国家主義(スープラ・ナシ

ョナリズム)」の世界では、もはや、領土も、民族も、主権さえも無

意味化して、かつて三島由紀夫が嘆いたような世界、つまり彼が日本

について語った言葉を「国家」に置き換えたなら、

「このまま行つたら『国家』はなくなつてしまうのではないかといふ

感を日ましに深くする」(果たし得てゐない約束―私の中の二十五年)

という予感はまさに当を得ている。

                         (つづく)


「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」

2022-03-08 03:58:39 | アフォリズム(箴言)ではありません

 「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」


 そもそもEU(欧州連合)とはヨーロッパで繰り返されてきた戦争

をなくすために、国家をなくせば戦争する相手がなくなることから

国家を超えた組織を創設しようとして生れた。もちろん、有史以来

それぞれの民族がそれぞれの国土の下で培われた伝統文化は守られ

た上で統治権は制限されることになるが、それ以上に国境がなくな

ることによる個人の行動の自由とそれから生まれる自由主義経済が

もたらす豊かさは広がった。ただ当然のことながら、単に国家を連

合すると言っても何よりも繋がり合える共通の土壌がなければなら

ないが、ヨーロッパの国々は有史以来キリスト教伝統文化を共有し

て育んできたことがその礎となった。たとえば、キリスト教国がイ

スラム教国と国境をなくして連合することはまずできないだろう。

しかし、かつて我が国は「八紘一宇」の理想を掲げて侵略したアジ

アの植民地を、神格化された天皇の下に統治しようとしたが、どの

国も押し付けられた日本固有の国家神道を受け入れるはずがなかっ

た。こうして大日本帝国が目指したAU(アジア連合)は理想として

はEU(欧州連合)の先駆けではあったが、現実を見誤った天皇制帝

国主義は終戦と共に消滅した。

 さて、一方で社会主義国家ソビエト連邦の下で自由を制約されて

きた東欧諸国の人々にとって自由と民主主義を掲げるEUの誕生は

渡りに船だった。ヨーロッパの周辺諸国の多くが雪崩を打って加盟

したが、取り残されたのは旧ソ連と国境を接する繋がりの浅からぬ

国だけで、その一つがウクライナだった。そのウクライナのEU加

盟だけは地政学的な防衛上からも絶対認めることができないロシア

によってウクライナ侵攻が行なわれた。

                  酔ったので(つづく)