「無題」
(十一)―⑨
如何に社会が希望に満ち溢れていても、それは絶望の大海に浮か
んだ小舟の中の希望でしかない。いずれ人は自己自身を失って単独
者として絶望の海へと還って行く。ただ、キリスト者として生きた
キルケゴールは本当の意味での単独者とは言えなかった。彼には神
がいた。むしろ、いまさら信仰に縋ることのできない私たちこそが
本当の意味での単独者かもしれない。私たちは、何処から来たのか
も知らず、何のために生きているのかも分らず、何処へ行くのかも
知らされずに消える。だから、社会に縋ろうとするのかもしれない
が、単独者として敢てキルケゴールに反論すると、生まれ出ること
が幾何かの希望をもたらすのなら、たとえ世界が絶望で充たされて
いても、実存とは絶望に抗う存在ではないだろうか。単独者が世界
の絶望を知ったからと言って彼は絶望を受け入れたわけではない。
絶望の反対が希望であるなら、実存とは絶望に対する希望、自らの
意志で生きようとする実存こそが希望ではないだろうか。つまり、
生きることとは、世界の絶望(死の世界)に立ち向かう希望(インテレ
サント)なのだ。世界は暗澹たる絶望で充たされていて、生命は限定
的で、それにも拘らず実存は希望の光を放ち続けようとする。確か
に、単独者にとっては世界はあまりにも厖大で絶望以外の何もので
もないかもしれないが、しかし、種としての繋がり、つまり、希望
の繋がりは絶えていない。単独者は、世界を認識するにあたってヘ
ーゲルのように社会(弁証法)を通して世界を見るか、キルケゴール
はヘーゲルの観念論を「彼は、お城のような大きな家を創ったが、
彼自身はそこに住まないで、隣の小屋で暮らしている」と批判した
が、私は観念ばかりで住み難いその家を「ヘーゲル」ハウスと呼ん
でいるが、または、キルケゴールのように絶対者の視点から世界を
窺うかしかないのだろうか。私にはどちらも精神の抜け殻を語って
いるようにしか思えない。キルケゴールは信仰に躓き、ヘーゲルは
観念に躓いたのだ。もちろん、生きることとは何かに躓くことだとし
ての話だが。しかし、単独者は世界から自分を客観視して絶望に
呑み込まれちゃいけないと思う。ほら、世界の絶望の中で君こそが
希望なんだし、なにも社会だけが世界じゃないんだから。上手く言え
ないけれど、我々は理性の、或いは信仰の奴隷になっていないだろ
うか。社会の中で安楽に生きるために、希望としての大切なものを
犠牲にしていないだろうか?つまり、絶望に従っていないだろうか。
ただ私は、何のために生きるのかを問う以前に、生きるために何
をするかを問わなければならなかった。私は本を閉じて、いつの間
にかベンチに寝そべっていた身体を起こして伸びをしてから立ち上
がった。すでに日差しは青葉繁る木立の枝が遮れぬ上空より届いて
いた。夏の名残を留めた強い日差しだった。すると、季節遅れのツ
クツクボウシの鳴き声が何処からともなく聴こえてきた。間もなく
命を終えることを悟った絶命の叫びのように思えた。そのしゃくり
上げるような泣き声に急かされて、私は、神社の参道を抜けて家路
を辿った。
ゆく夏を 「つくづく惜しい」と 法師蝉 不労者
(つづく)