「無題」 (十二)―②

2013-05-01 14:47:19 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



       「無題」


        (十二)―②


 事務所の中を詳しく描写する気にならない。そこは、凡そ誰もが

思い描く事務所と異なる場所ではなかった。世界は、未だ様々な地

域と文化の違いによってそれぞれ異なった生活を営んでいるにも拘

らず、こと「事務所」と呼ばれる場所ほど世界共通の空間はないだ

ろう。つまり、何某かが誤まってその部屋へ入ったとしても、すぐ

に「何だ、事務所か」と気付くのだ。たとえバチカンにある多くの

信者を統べる聖なる教会の総本山の事務所も、或いは、霊を騙って

教祖を名乗る教団の事務所であっても、または、アフリカ大陸の奥

地で、原生林の大地を削って鉱物資源を採掘する現場の事務所も、

歓楽街の乱立するビルの一角で客の求めに応じて骨身を削って如何

わしいサービスを提供する業界の事務所も、それを掌る「事務所」

だけを覗けば事業の違いが見分けられないに違いない。人が働き、

そこに利益が生まれ、それを分配する仕組み、つまり経済が発生す

るところには必ず「事務所」が作られ、その画一的な事務所の手続

きこそが合理主義経済のグローバリゼーションをもたらしたのでは

ないだろうか。例えば、生産の現場である画家のアトリエであった

り劇場の楽屋でその類の話を持ち出せば決まって無粋の誹りを免れ

ないが事務所では清算が迫られる。今や世界は事務所に支配され、

我々は生産のために働くのではなく、清算のために働いているのだ。

 つまり、我々とは生まれ出たことの負債を清算するために生きてい

るのだ。


                                   (つづく)


「無題」 (十二)―③

2013-05-01 14:44:08 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



          「無題」


           (十二)―③


「どうかしましたか?」

事務所の中を不審げに見回している私に老人が云った。私は、

「いやあ、こっちから外が丸見えだったんですね」

通りに面した大きな窓からはポスターで隠されたところ以外から、

見られていることなどまったく気付かない通行人の様子が手に取る

ように窺えた。やがて、奥の方から中年の濃紺の事務服を着た女性

が、小さなトレイに黒いプラスチックのホルダーに収まった白い使

い捨てのプラスチック容器に注がれたコーヒーとポ―ションミルク

にスティックシュガー、それにビニール袋に入った攪拌のための貧

弱なスプーンを前のテーブルに屈みながら置いて「どうぞ」と言っ

た。私は「どうかお構いなく」と言いながら、仕方なくそれらをま

るでプラモデルでも組み立てるように調合してから賞味した。近く

の事務机のイスに腰を下ろしていた老人は、

「ええ、実は、貴方が通る度にあの貼紙の前で立ち止まってじっと

見つめてらっしゃるのを失礼ですがこっちから見てました」

私は、トレイの上に散らかったスティックシュガーやカップからこ

ぼれたミルク、それに磁場を指し示す磁針のようなスプーンと、何

故ここに居るのかを見失った空のビニール袋を用心して避けて、テ

ーブルにカップを置いてから、

「なんだ、そうだったんですか」

と気のない答えをした。すると、老人は、

「もう、何でお呼びしたかお分かりでしょ」

「・・・」

私は、証拠を突き付けられた犯人のように否定する余裕すら失っ

て黙り込んだ。それを見て老人は透かさず、

「貴方、店をやりたいんでしょ?」

と詰め寄ったが、私には「お前が殺ったんだろう!」としか聴こえ

ず、私は思わず、

「ええ、ダンナ。確かに、アッシがやりやした」

と、あらぬことを口走ってしまった。


                                (つづく)

「無題」 (十二)―④

2013-05-01 14:43:06 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)




           「無題」



            (十二)―④


 「無料!」で店舗を借りる話は障りなく進められた。もちろん、

「無料!」なんだから一円の賃貸料も求められないが、但し、二年

間の期限付きの使用貸借で、売上が発生すればそこから5%の使用

料を支払わなければならなかった。ひと通りの説明をした後に、老人

は、

「で、いったい何をされるおつもりなんですか?」

「まあ、やるとすれば青果しか思いつかないんですけど」

「何だ!それならうちの店を使って下さいよ。冷蔵庫だってちゃん

と使えるんだから」

「えっ!いいんですか?」

「なんのっ、遊ばして使いものにならなくなるくらいならその方がよ

っぽどましでさあ」

実際、生鮮野菜を扱うなら大型のチャンバは欠かせなかった。

「それに、寝泊まりするだけなら二階の部屋も使ってもらったって

構わないんだから」

彼の家族は、と言っても子供たちはすでに独立して家を出て行った

ので、奥さんとの二人だけだったが、近くのマンションで暮らして

いた。

「ただ、こう言っちゃあ何ですが、店長さん・・・」

私はいつの間にか店長にされてしまった。

「今どき八百屋を始めるなんてまったく流行らないですぜ」

「ダメですか?」

「何しろ大手スーパーと競わなきゃあならねぇんだから」

そんなことは十分承知の上で、私にしてみれば今日の画一化した生

産流通システムを何とか変えたかった。実は、近代文明とは我々を

家畜化し、その食べ物でさえも飼料のように作られていることに消

費者は気付いていないのだ。例えば、我々が美味しいと感じるもの

が何と画一的な味覚で味付けされていることか。すでに、我々は喫

煙者がニコチン依存から脱することができないように、もはや人は

ただのパンのみでは生きれなくなってしまった。仮に「美味しい」とか

「豊かさ」とか「安楽」だとか、それらは近代文明が実存に及ぼす洗

脳であるとすれば、我々は文明社会に依存した意志を失った家畜

そのものではないか。つまり、近代文明がもたらしたのは家畜社会

ではないだろうか。もう少し社会への依存から脱して自立するべきで

はないだろうか。そして、文明に依存する社会を俯瞰的に覗う視点、

経済合理性の洗脳から脱した視点で世界を見つめ直すべきではな

いだろうか。何故なら、我々が存在することの合理性など何処を捜し

てもないのだから。


                                   (つづく)


「無題」 (十二)―⑤

2013-05-01 14:40:57 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



           「無題」


           (十二)―⑤



「野菜を百円均一で売るつもりです」

老人は頭を傾げてしばらく考えてから、

「ふーん、面白そうだけどそれで儲けが出るかね?」

私は、自分がこれまでスーパーの店頭でやってきた百均市のことを

彼に話した。もちろん、他のスーパーの特売で売られている値段と

それほど違わないのでそれだけで千客を呼べるとは思っていない。

例えば、ユニクロやマクドナルドといった繁盛店はただ値段が安い

だけで流行っているわけではなかった。やはり商品に魅力がなけれ

ば万来の客は来てくれない。つまり、両方の手で掴まなければ獲物

は逃げてしまうというわけだ。そこで、

「できたら、有機野菜でやりたい」

と言うと、

「バカなっ!そんなことできるわけがない」

「まあそうですね」

「仕入れるだけで赤字になっちまいますぜ」

「ええ」

「自分で作りでもしない限り、農家は絶対に出してはくれませんぜ」

「ええ、ですから非農家に頼もうと思ってるんですよ」

「はあっ? 非農家って素人ってことですかい?」

「まあそうです。確かに素人かもしれませんが、彼らは自分で作る

ものにまで農薬を使ったりしませんからね」

「なるほど。しかし量が集まるかね?」

「集まらなかったら集まらなかったで仕方ないと思っています。要

するに、農村にある直売所のようなものを是非東京に作りたいんで

すよ」

 私は、自分の頭の中でぼんやりとしか描いていなかった下描きを、

彼に迫られて即興で絵にしてしまった過ちをすぐに悔やんだ。だっ

て、そんな話は妻の前でさえも噯(おくび)にも出さなかったんだか

ら。ところで話は変わるが、「噯(おくび)」って「げっぷ」のこと

だけど、漢字で書くと口へんに「愛」って書くんだね。口へんに「

屁」なら何となく解るが、これを思いついた人はよっぽど愛の言葉

に惑わされたんだろうね。確かに言われてみると、愛の囁きなんて

げっぷのようなものかもしれないものね。

 私は老人に、

「家内ともう一度よく話し合ってから伺います」

と言い残して尻を上げた。


                              (つづく)


「無題」 (十二)―⑥

2013-05-01 14:39:55 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)


        「無題」


         (十二)―⑥


 家に帰って夕飯の用意をしながら、実は、今では暇に任せて朝食

だけでなく夕食にまでも腕を揮った。もちろん、覚えがあるわけで

はないのでPCのレシピを睨みながら、それでも出汁だけは昆布と

削り鰹からとってインスタントには頼らなかった。始めのうちは仕

込みに手こずって時間だけがいたずらに過ぎ、家族の者が待ち切れ

なくなってついにはカップラーメンやら菓子パンなどを摘まみ始め、

いざ出来上がった時には空腹が埋められて箸も伸びなかったが、今

では風呂から上がった娘や妻が順に席に着くころには火から降ろし

たばかりの椀物を出せるまでになった。基本的にテレビはつけなか

った。すでに子どものいる家族の団らんに相応しい番組は久しくな

り、もっぱら芸人たちの弄られんがための大袈裟な振りとそれを笑

いものにする楽屋オチばかりで、そこには笑いに隠れて集団による

ヒエラルキッシュ(序列的)な弱い者いじめが行われていた。抗弁す

れば「誰に言うてんやっ!」と恫喝する。学校でのいじめもまず権

力者である先生が先鞭を着ける。やがて生徒たちは権力者の顔色を

窺いながらその後に続く。いじめとは、目的を共有する者たちが集

まり、ところがその目的を見失うとこんどは集団が目的化すること

から始まる。集団の外へ向かうはずの力が内へと向かう。今の喜劇

人たちは揶揄う相手を見失っているのだ。果たして、我々は無邪気

に笑うためには笑われる者がいなければならないのだろうか?解放

されるためには犠牲が必要なのか?そもそも、お笑いの原点とは、

芸人がバカを演じて社会を嘲笑う転換、弱者が権力者や歪んだ社会

を批判することだったはずだが、今や芸人も社会的地位を得て、イ

ッパシの言論人気取りで弱者を笑いものにするほどりっぱになり、

ところがその一方で、自分たちが身を置く業界の笑えるほど古い体

質は一切口にせず権力には逆らわない。つまり、自らの不道徳は棚

に上げて他人の不道徳を論(あげつら)う。都合の悪いことは隠くし

て他人の不都合を笑う。そんな茶坊主らの作り話を真面目に聴くく

らいなら、家族で語らうことの方がはるかに罪がなかった。当たり

前のことだが、家族という集まりは目的でも手段でもなかった。こ

の前までは「何で?」が口癖だった娘が、今では「お父さん、知っ

てる?」と、学校で習ったことや本で知ったばかりのことを教えて

くれた。すると、こんどは満を持して私が「何で?」と訊く番にな

って、その遣り取りが、つまり誰も傷つけない会話が楽しかった。

その主役だった娘の己然が食事を終えて席を離れると、私は妻に、

商店街の店舗を貸りて商売を始める話を切り出した。妻は、何も言

わずに立ち上がってキッチンに行き、冷蔵庫を開けて缶ビールを手

に取り、私を窺い、

「飲む?」

と、訊いたので私は仕方なく付き合った。以前は、もちろん食前に

嗜んでいたのだが、あるとき度が過ぎてしまい、己然に毅然と叱ら

れてからは、彼女と一緒の食事の時は拙いと気付いて飲まないこと

に決めた。妻は、両手に持った缶ビールの一つを私の前に差し出し

てから自分の缶ビールのプルタブを開けた。そして、投げて置いた

話の続きに戻って、

「それで、上手くいくの?」

と訊いた。私は、

「何っ? ああ、それはわからないさ」

と答えた。すでに夜半は涼しくなり冷たいビールは喉を越えず、た

だ苦いばかりだった。テレビのスイッチを入れると、ちょうどニュ

ースで、宮崎の和牛が口蹄疫の壊滅的な被害を乗り越えて、全国の

品評会で二年連続の日本一に輝いた、と伝えた。映像は伝染病が蔓

延したその当時の、畜産農家がわが子のように手塩に掛けて育てた

牛たちを、病気の拡がりを防ぐために当局が下した全頭殺処分の残

酷な決定に、涙を流して仕方なく従う様子を放送していたが、ただ、

牛たちにしてみれば、病気を防ぐために薬殺されようが、いずれ食

用のためにされようが、どうせ殺される運命には変わりなく、

生産者たちはなぜ殺処分される牛たちだけに悲しみを覚えるのか、

あの時も、そして未だにどうしても理解できず、それほどまでに辛

いのであれば場へも出せない筈ではないか。恐らく、彼らの涙

のわけには、飼育の甲斐なく徒労に終わった自分たちの悔しさが多

分に混じっているからだろうと、勝手な想像をしても、それでもま

だ納得のいく理解を得たわけではなかった。妻を相手にしてそんな

ことを語っていると、秋の夜長がいつの間にか二本目の缶ビールの

プルタブに指を掛けさせた。


                                  (つづく)