「三島由紀夫について思うこと」
(6)
そもそも近代民主主義は科学技術がもたらした産業革命による生産
性の向上なしには育まれなかった。したがって、民主主義の否定は近
代科学文明の否定にほかならない。国民から主権を奪えば消費者が不
在になり資本主義経済が破たんするのは明白である。ニーチェは民主
主義を否定したが、それは『幸福』だけを追い求める社会そのものを
「畜群」と蔑んで否定した。彼が説く超人思想とは個人的な投企であ
り、民主主義というよりも近代(畜群)社会そのものの否定である。
一方で三島由紀夫は同じように民主主義を否定したが、それは「天
皇とは国体のことである」を実践するためで、ニーチェとはその方向
性がまったく異なる。ハイデガーは自著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱで、形而
上学的思惟によると「存在の本質」はニヒリズムに到るが、そしてそ
れは形而上学的思惟の最終結論だが、しかし形而上学的境涯、常にも
のごとの本質を問う者は、つまりニーチェは、更にニヒリズムを如何
にして超えるかを思惟しようとする。そしてニヒリズムから積極的に
抜け出すために付随的に思索された命題が超人思想であり、永劫回帰
説である。はっきり言って私にはどうしろと言っているのかサッパリ
解らない。そして三島もまたニヒリズムの克服するためには天皇を中
心にした伝統文化への回帰しかないと思った。それはニーチェの「芸
術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である」に同調している。
しかしそれは理性の限界を意味している。そもそも芸術文化は理性に
よって規定されない。つまり三島の天皇国体論は伝統文化の上で成立
しても論理性はない。本人も天皇の存在を「非論理性」と認めている。
余談ではあるが、三島由紀夫は超感性、所謂スピリチュアルな世界
にも強い関心があった。彼は自分が生れて来た時のことを覚えている
と自著「仮面の告白」に書いているし、霊能力者としての美輪明宏と
は政治理念がまったく違うのに終生親しくした。さらに、彼の最後の
作品「豊饒の海」は主人公の輪廻転生を軸にして物語が綴られる。そ
れはまさに彼が愛読したニーチェが説いた永劫回帰説へのオマージュ
と言えなくもない。ニーチェによると、永遠の時間の中で世界が有限
であるなら、世界は同じことを永遠に何度も繰り返すと説き(永劫回帰
説)、回帰は何もかもが寸分の違いなくまったく同じように起こるとい
うのだが(同じものの永遠なる回帰)、それは「再生までにはまだゆっく
りできる、と汝らは思っている、――だが間違えてはいけない。意識
の最後の瞬間と新生の明け始めとの間には、〈少しの暇もない〉のだ。
――それは電光石火のように過ぎてしまう。たとえ生物たちはそれを
幾兆年単位で測り、あるいはそれでも測りきれないかも知れないが。
知性が不在になれば、無時間性と継起とは両立しうるのだ。」(ニーチ
ェ「手記資料」122番(第12章66頁) つまり、回帰(転生)は死んだ
後〈少しの暇もな〉く起こると言うのだ。すでに三島由紀夫の霊は再び
未来の日本に転生して小説を書いているかもしれない。
それにしてもなぜ三島由紀夫は天皇にこだわったのか?そもそも三島
文学の真骨頂は文章の格調の高さにある。その格調の高さは何に由来す
るかと問えば、天皇を中心にした日本古来の宮廷文学に依る。つまり、
三島文学は天皇なしには生れなかった。しかし、彼自身も天皇とは非合
理な存在であると認識している。ただ、これまで記述してきたように生
い立ちから終戦まで、作家三島由紀夫は「死ぬことは文化である」を常
に意識しながら生きてきた。そして、人は必ず死ぬ。自分の意志で生れ
てきたわけではないが、しかし、自分の意志で死ぬことはできる。自ら
の意志によって生きようとする者は自らの意志によって死を覚悟しなけ
ればならない。過去の時代に憧れる者にとって近代社会は想いにそぐわ
ない時代に違いない。高度経済成長を成し遂げた社会はそれとは正反対
の「長生きは文化である」の時代である。それは意志せずに生れそして
意志せずに死ぬことで、生死を自らの意志以外に預けて生きることであ
る。しかし、三島由紀夫は自らの意志によって生きようとして自らを育
んでくれた天皇国体論に自らの死を捧げた。しかし、それは皇国史観の
ために死を賭して訴えたというよりも、どちらかと言うと「死とは文化」
を実践するために国体の在り方を死に場所に選んだのではないだろうか。
それは「長生きは文化」のニヒリズムから遁れるための幻想であること
は充分承知した上で、ニヒリズムへの反対運動としての伝統文化への回
帰を訴えた。ただ、あれほど論理的な思考を重んじる人が論理で躓くと
は思えない。躓くとすれば、已むにやまれぬ感情だとしか思えない。あ
の芝居がかった「劇」で戦後20年を経た民主主義国家日本の主権者で
ある国民が、時代の流れに逆らって「天皇とは国体である」という伝統
文化を受け入れると本気で考えていたとは到底思えない。
(おわり)