「三島由紀夫について思うこと」
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平岡公威が所謂処女作「花ざかりの森」を書き上げたのは昭和1
6年、従って彼が16歳の時だった。作品に感銘を受けた国語教師
の清水文雄によって彼が参加する同人誌に掲載され、その際に「三
島由紀夫」の筆名が決まった。中でも同人の蓮田善明は早くから三
島由紀夫を認めてその後も多大な影響を与えたが、敗戦後すぐに蓮
田善明が出征地で自栽したという訃報を翌年の6月に知った三島由
紀夫は私淑していた恩人に弔詩を献げている。この蓮田善明という
人は1904年(明治37年)熊本県のお寺の住職の子として生まれ
た。三島由紀夫よりも二十歳も年上である。教員生活の傍ら執筆活
動に励んでいたが、二度目の召集によって南方戦線へ出征する。そ
の時「蓮田は三島由紀夫に、『日本のあとのことをおまえに託した』
と言い遺した。」(ウィキペディア[蓮田善明]) 彼が配属された熊本歩
兵部隊は不敗を誇っていたが、しかし1945年8月15日、日本軍
の降伏により終戦の詔書(玉音放送)が昭和天皇よりなされた。それで
も部隊は降伏か抗戦かで分れた。徹底抗戦を主張する蓮田は、責任を
天皇に帰し降伏を受け入れようとする上官に「国賊!」と叫び拳銃を
2弾連発し射殺した。そして彼自身も自らのこめかみに拳銃を当て引
き金を引いた。享年41歳だった。(ウィキペディア[蓮田善明]より)
蓮田善明が生れた熊本県の植木町には、維新後に「神風連(敬神党)
の乱」を起した士族たちが師事した国学者林桜園の尊崇する鐙田杵築
神社がある。「神風連の乱」とは近代化を求める明治政府への不満を
募らせた士族170余名が、鉄砲などを一切使わずに武士の魂である
刀だけで戦った反乱で、それは素より死なんとする戦いであり、当然
近代兵器を駆使する政府軍の前に一溜まりもなく鎮圧され、「神風連
の死者、自刃者は計124名、残りの約50名は捕縛され一部は斬首
された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。」(ウィキ
ペディア[神風連の乱])この事件が嚆矢となって各地でも立て続けに
士族の反乱が起こり、その翌年には西郷隆盛が武士道を貫いた西南戦
争へとつながる。そして、その西南戦争の最大の激戦地、田原坂は彼
が生れ育った植木町にある。彼は当然出生地で起こったこれらの事件
に無関心ではいられなかっただろう、まして国学を志す者にとっては
神道に帰依する「神風連」に強い関心を寄せたことは間違いない。そ
して、それは後の彼の死生観に大きな影響を与えた。三島由紀夫は詩
人 小高根二郎が発表した「蓮田善明とその死」の序文で彼の作品「青
春の詩宗――大津皇子論」の一節、「予はかかる時代の人は若くして
死なねばならないのではないかと思ふ。・・・然うして死ぬことが今
日の自分の文化だと知つてゐる」を引用して、「死ぬことが文化だ」
という考えに傾倒する。そもそも「死ぬことが文化だ」などいう思想
はまるでイスラム教のジハードのようですが、しかしすべての物語は
「死ぬこと」から生まれる。三島由紀夫は最後の作品「豊饒の海」全
四巻の第二巻『奔馬』で「神風連」を加筆してモチーフとして使って
いる。
(つづく)