仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(2)のつづき

2022-01-29 07:10:55 | 「死ぬことは文化である」

      仮題「心なき身にもあわれは知られけり」


            (2)のつづき


 『まず、その一つはこれまでにも何度も繰り返されてきた「邪馬台

国論争」です。』と言いながら、色々と調べているうちに多分素人の

私の意見などこれまでに何度も専門家たちの間で検証されてきたに違

いないと思うと途端に情熱が冷めてしまってつづきを記す気も失せて

しまいましたが、そもそも「卑弥呼」も「邪馬台国」も中国の歴史書

『三国志』の「魏書」の巻に「倭人」の条に記述されていることから

その存在が知られることになったが、その『三国志』は西晋の陳寿に

よって3世紀末に書かれたが、そのわが国では漢字が伝来してのちに

8世紀始めになって太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂された日

本最古の歴史書「古事記」や「日本書紀」には「卑弥呼」も「邪馬台

国」もいっさい記述されていない。つまり、「魏志倭人伝」に「卑弥

呼」「邪馬台国」の記述がなければそれらは日本の古代史上存在しな

かったことになって、その後いわゆる「空白の4世紀」といわれるお

よそ350年もの長き時を経て突如姿を現す所謂「大和朝廷」が名前

が似ていると言う理由で「邪馬台国」の後裔であると考えるのはあま

りにも短絡的だと思わざるを得ない。もしも漢字の伝来とともに「魏

志倭人伝」が伝わっていたとすれば、記紀は何故いっさい「卑弥呼」

「邪馬台国」に触れなかったのだろうか?それは自分たちとは繋がり

のない祖先だったからではないか?古代史に於いて350年の長きに

わたって同じ支配体制が継続された例は目まぐるしく支配者が変わっ

た中国を見てもまずあり得ないのではないか?我々はおそらく「空白

の4世紀」をワープ(Warp/「歪める」)し過ぎている。

                        (つづく)

 


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(2)

2022-01-10 20:26:06 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」


            (2)


 遅ればせながらですが、

     みなさん明けましておめでとうございます。

     本年もよろしくお願いいたします。

 ところで、更新が遅れた理由は、前回の記事で、かつて後鳥羽上

皇が鎌倉幕府の執権北条義時を討伐せんと挙兵を呼び掛けて、しか

し敗れてしまった承久の乱によって後鳥羽上皇が隠岐島へ配流され

る際に辿った足跡が当地の到る所に残されていると記しましたが、

すると、その後すぐに次回のNHK大河ドラマがその頃を時代背景

にする「鎌倉殿の13人」であることを知りました。たぶん題名が

「鎌倉殿の十三人」ではなく「13人」なのは三谷幸喜脚色の時代

劇、敢えて史実に忠実でないことを窺わせているのかもしれません

。そもそも私は、後鳥羽上皇が命じて編纂させた「新古今和歌集」

から西行の歌を取り上げて話を語ろうと目論んでいたのですが、仮

題の「心なき身にもあわれは知られけり」はもちろん西行の歌から

借りてきたのですが、そこで大河ドラマのことを知ってあわよくば

そのブームに乗っかろうと下心が芽生え、それなら何れにしてもす

こしは時代背景を知っておこうと思って、かつて既読した「日本の

歴史」全26巻(中央文庫)の7巻「鎌倉幕府」を引っ張り出して読

んでみたところ、これはもっと前史から追わないと付け焼刃に終わ

ると分って、1巻の「神話から歴史へ」から読み始めました。おか

げで年末年始はもっぱらそれをインプットすることに終始しました

が、やっと4巻「平安京」の途中まで、「万葉」を経てやっと「古

今」の世界に来ましたが「新古今」はまだまだ先です。ただ、改め

て読み直してみると日本史上の幾つかの疑問や信じ込んでいた誤解

に気付いたので「いざ鎌倉」へ馳せ参じる前に、その疑問を取り上

げてみたいと思います。

 まず、その一つはこれまでにも何度も繰り返されてきた「邪馬台

国論争」です。

                          (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

2021-12-05 17:41:53 | 「死ぬことは文化である」

                仮題「心なき身にもあわれは知られけり」


 私が住む広島県の三次(みよし)市は中国山地の山間に位置し、そこ

には「吉舎」と書いて「きさ」と読む町が所在する。他所から来た者

が「きさ」と読めた例はまずないが、その名前の由来は、一説には、

かつて太上天皇として院政を執った後鳥羽上皇(1180年~123

9年)が鎌倉幕府の執権北条義時を討伐せんと院宣して兵を挙げた「

承久の乱」(1221年)に敗れ、遠流(おんる)の地である隠岐の島

に配流(はいる「島流し」)されることになり、京を出て隠岐の島まで

辿った道程でその地の艮(うしとら)神社に泊り、「吉き舎り(よきや

どり)」と宣われたことが地名の由来だと伝えられている。(『国郡

志御用に付吉舎村書上帳』)。また、上皇は近くに聳える登美志(と

みし)山、つまり「富士(とみし)山」を眺めて「皆人のふじと知られて

傭後なる富士の山の峰の白雪」(『国郡志御用に付安田村書上帳』)と

詠まれ、備後小富士として今に伝わる。それにしても、すでに平安末

期には富士山の存在が遍く知られていたことに感心した。こうして当

地には後鳥羽上皇が隠岐の島へ配流される際に辿った足跡がいたると

ころに点在していて、そのいくつかを数え上げると、 三良坂町には上

皇が渡河した地点に皇渡橋があり、(『国郡志御用に付仁賀村書上帳』

なかなか渡れなかった上皇が残した歌「われこそはわたりゆくべき川水

も 心あらばやかわきだにせよ」が残されている。(『三良坂町誌』) 更

に、隠岐の島へ向かう庄原市高野町には上皇が半年余り滞在したと伝わ

る功徳寺に上皇が詠んだ歌「蔀(しとみ)山降ろす嵐のはげしくて 紅葉の

錦きぬ人もなし」が残され、高野町には関連すると思われる地名だけを

挙げれば、王居峠、王貫峠など、配流地隠岐の島への足跡が辿れる。と

ころが驚かされるのは、その足跡とはかけ離れた北部の作木町の山中に

隠岐の島へ配流されたはずの後鳥羽上皇の墓が存在する。

                        (つづく)


小説「死ぬことは文化である」

2021-10-08 09:59:03 | 「死ぬことは文化である」

   小説「死ぬことは文化である」

 

 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてし

まつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪

で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然と

する。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうに

かなつてゐたのではないか。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。この

まま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を

日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、

からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或

る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つ

てゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

     三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」       

       *       *      *

 

 三島由紀夫はこの国のいったい何に希望をつなごうとしていたの

は知らないが、とは言え、その後の彼の言動を辿れば凡そのこと

は想像がつくが、それにしてもなぜ「天皇」なのかが凡そ理解でき

い。ただ、彼が残した「日本はなくなつて、その代はりに、無機

的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がな

い、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」というおよ

そ50年前の的確な予言にこころを奪われたが、おそらくそれは敗

戦後に堰を切って流れ込んできたアメリカ文化の自由と民主主義に

対する批判に違いないが、だからと言って再び天皇主義に戻ること

など多くの日本人は望んでいない。堅苦しい日本の伝統文化と「無

機的でからっぽな」アメリカ文化のどちらを選択するかと言われれ

ば迷わず「ニュートラルで、富裕な」アメリカ文化を選ぶに違いな

い。何故なら天皇制「原理主義」とは儒教道徳に縛られたリゴリス

ティックなヒエラルキー(厳格な序列)社会だから。つまり、私は「

それでもいいと思つてゐる人たち」の一人で、もしも三島由紀夫が

生きていたら決して口をきいて貰えない男に違いない。たとえば、

われわれ日本人は厳格な教義に縛られたイスラム教の原理主義社会

を憧憬の目で見たりするだろうか?三島由紀夫がやったことは原理

主義への回帰を訴えるイスラム教過激派のテロ行為とそれほど違わ

ないのではないだろうか?しかし、いまさら原理主義、つまりパン

ドラの函に戻ることなどできないのだ。私は、あえて言えば、社会

はむしろ「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色」でい

いとさえ思っている。もしも〈存在〉が〈持続可能な〉(sustainable)

「からっぽ」の世界で、その上に社会が築かれるのであれば、私は

むしろ余計な色に染まらない社会を望む、そしてそれぞれが自分が

望む色に染まればいい。多様な社会とはそういうことではないか。