仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(5) 改稿

2022-03-03 09:21:46 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

        (5)改稿

 

 今の社会から古(いにしえ)の時代を省みてまちがいを論(あげつ

ら)うのは過ぎた議論にちがいないが、ただ忘れてならないことは

古人の寿命はわれわれよりもはるかに短かったことである。彼ら

が生死の境界をまるで閾(しきい)を跨ぐようにいとも容易く越えて

しまうことに驚かされるが、それは現代のような医療のない時代に

おいては生き死には神仏に縋るしかないとすれば執着したところで

どうすることもできなかったからに違いない。さらに、仏教の伝来

によって仏教的死生観に救いを得て、生死の閾は更に低くなった。

 天武天皇の後の皇位継承を巡る対立は、鸕野皇后がわが子草壁皇

子の皇位を脅かす甥の大津皇子を陰謀によって殺害して憂いを払っ

たが、ところがそのわずか3年後になんと愛息草壁皇太子が即位す

る前に急逝した。そして草壁皇太子の子軽皇子は幼少だったので鸕

野皇后が仲天皇(なかちすめらみこ)として即位した、持統天皇であ

る。その後、軽皇太子が持統太政天皇の下で十四歳で即位、文武天

皇と称号したが、彼もまた在位十年二十五歳の若さで病死した。

 『日本の歴史』第三巻 あいつぐ女帝 [近親結婚]よりによると、

「まず、天武・持統夫婦がすでに叔父と姪の結婚である。二人の間

に生まれた草壁皇子は、持統女帝の異母妹阿閉(あへ)皇女(元明)と結

婚したから、甥と叔母とが結ばれたことになる。その子が軽皇子、

つまり文武天皇である。草壁皇子は二十八歳、文武天皇は二十五歳

で病死した。この二代の早世は、両親が近親だったことと関係があ

るのではなかろうか。」

 そもそも天皇とは天照大御神より繋がる血統こそが存在理由であ

り、血統こそが権力であることから皇族間での近親結婚が多く、そ

れが皇子たちの夭逝が多かった一因だと言われている。神々と天皇

を繋ぐ天孫降臨の神話は日本最古の歴史書である古事記と日本書紀

に記されているが、それらは漢字が伝来した後の8世紀始めに書か

れた。つまり、「記紀」は記録のない過去の伝承を記憶だけを頼り

にして書かれた神話にほかならない。ところで、人間とはサルから

進化したとする生物進化論から見れば、絶対的な存在である神の血

統を頑なに継承する天皇とは進化から取り残されたサルにもっとも

近い人間であるということにならないだろうか。なるほど、皇位継

承を巡る皇族間の争いは神々による叡智の所業というよりもサル社

会の本能的な争いに近い。

                          (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(5)

2022-02-27 17:03:15 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

        (5)


 今の社会から古(いにしえ)の時代を省みてまちがいを論(あげつら)

うのは過ぎた議論にちがいないが、忘れてならないことは古人の寿命

はわれわれよりもはるかに短かったことである。彼らが生死の境界を

まるで閾(しきい)を跨ぐようにいとも容易く越えてしまうことに驚か

されるが、それは生き死には天のみぞ知ることで執着したところでど

うすることもできなかったからに違いない。さらに、仏教の伝来によ

って仏教的死生観に救いを得て、閾は更に低くなった。

 天武天皇の後の皇位継承を巡る対立は、鸕野皇后がわが子草壁皇子

の皇位を脅かす甥の大津皇子を陰謀によって殺害して憂いを払ったが

、ところがそのわずか3年後になんと愛息草壁皇太子が即位する前に

急逝した。そして草壁皇太子の子軽皇子は幼少だったので鸕野皇后が

仲天皇(なかちすめらみこ)として即位した、持統天皇である。その後

、軽皇太子が持統太政天皇の下で十四歳で即位、文武天皇と称号した

が、彼もまた在位十年二十五歳で病死した。

「まず、天武・持統夫婦がすでに叔父と姪の結婚である。二人の間に

生まれた草壁皇子は、持統女帝の異母妹阿閉(あへ)皇女(元明)と結婚し

たから、甥と叔母とが結ばれたことになる。その子が軽皇子、つまり

文武天皇である。草壁皇子は二十八歳、文武天皇は二十五歳で病死し

た。この二代の早世は、両親が近親だったことと関係があるのではな

かろうか。」(『日本の歴史』三巻【あいつぐ女帝】[近親結婚]より)

 そもそも天皇とは天照大御神より繋がる天孫としての血統こそが存

在理由であるから近親婚が多く、それが皇族に夭逝が多かった一因だ

と言われている。

                         (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(4)の改稿

2022-02-20 13:39:58 | 「死ぬことは文化である」

   仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

        (4)の改稿


 漢字が書かれた書物の伝来は古代国家日本に大きな社会転換をも

たらした。仏典が説く仏教的世界観への関心はもとより、何よりも

国家意識の共有から中国に倣って官司制の下で中央集権化が図られ

律令制度が布かれた。もちろんそれらは古代中国政府の制度を丸写

ししたもので、今でこそアメリカへの従属意識から中国に対して批

判的ではあるが、しかし明治維新までのおよそ1千年間は政治的に

も文化的にももっとも影響を受けたのは中国だった。まず、その漢

字がもたらした大きな社会転換は仏教の伝来であり、そもそも現人

神の子孫である皇太子が仏教に改宗することも異常なことだが、驚

くべきことに今日でさえも神仏習合の二元論は何の対立もなく器用

に併存している。にも拘らず一つの天皇の御座を巡る一元論の争い

は豪族をまき込んで悲惨な暗殺や自経が繰り返された。以下は「日

本の歴史」(中公文庫全26巻)からの引用だが、古くは587年に

在位2年足らずで崩御した用明天皇の皇位継承を巡って、対立した

皇子たちが近臣蘇我馬子によって相次いで惨殺され、さらに馬子は

自らが擁立した崇峻天皇までも殺害し、そして馬子の孫入鹿は古人

皇子を天皇に擁立するために聖徳太子の長子山背大兄王を自害にま

で追い込んだ。やがて蘇我入鹿の専横を怖れた中大兄皇子は中臣鎌

足と謀って入鹿を宮中で暗殺した、所謂「乙巳の変」である。その

中大兄皇子は古人皇子を謀叛の疑いで殺し、さらに孝徳天皇の有馬

皇子を陥れて絞首刑にして、後に即位して天智天皇となるとその立

太子大友皇子は皇位を狙う皇弟大海人皇子との戦いに敗れて自経し

た、「壬申の乱」である。皇位継承を巡る権力争いはこれが神の所

業かと言いたくなるほど讒言などによる陰謀によって命を奪われる

ことがめずらしいことではなかった。間もなく大海人皇子は即位し

て天武天皇となり、10人の后妃との間に10人の皇子と7人の皇

女をもうけてさらに皇位継承者問題がより複雑になった。その中で

どちらも天智天皇の皇女である鸕野皇后(後の持統天皇)と大田皇女

のそれぞれの皇子である草壁皇子と大津皇子の二人が皇太子の候補

として残ったが、皇后の皇子である草壁皇子が選ばれた。ただ伝え

るところによれば「器量・才幹は大津のほうがすぐれていたようだ

」(「日本の歴史」2巻) 皇位継承問題を抱える天武天皇は皇后と六

皇子を従わせて吉野に行幸し、「天皇は皇后と六皇子とを行宮(かり

みや) の庭に集めて、たがいに二心(ふたごころ)のないことを天地の

神々に盟(ちか)いあった。」(同書) やがて死期を覚った天武天皇は病

の床から、「天下の事は大小を問わず、悉(ことごと)く皇后および皇

太子に啓(もう)せ」と詔して、信頼を寄せる皇后に称制(天皇が在位し

ていないときに、皇后・皇太子などが臨時に政務を行うこと)を委ね

た。ところが、天武天皇の亡き後ひと月も経たないうちに、鸕野皇后

の称制の下で、わが子草壁皇太子の皇位を脅かす大津皇子の謀叛が発

覚したとして、皇子以下三十余人が捕えられ、皇子は早くも翌日には

死刑に処された。死期を悟った大津皇子は以下の辞世を残した、享年

二十四才。

 百伝(ももつた)う磐余(いわれ)の池に鳴く鴫を
 
 今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ

 「きさきの山野辺皇女が、髪をふりみだし、はだしのままあとを追

うて殉死したのがことに世人の涙をさそった。」(同書)

                          (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(3)の改稿

2022-02-08 00:35:01 | 「死ぬことは文化である」

       仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

          (3)の改稿

 文字のなかった古代日本社会の様子はもっぱら中国が日本につい

て書き残した文献に頼るしかないが、その中国は3世紀後半に所謂

『魏志倭人伝』が載った『三国志』が書かれた三国時代の後に「五

胡十六国時代」と呼ばれる群雄割拠する戦乱の時代を迎えて、海の

向こうの島国日本に関心を向ける余裕などなくなり、中国の書籍か

ら日本に関する記述が消え、文字を持たなかった日本の歴史は3世

紀末から4世紀末まで「空白の4世紀」と呼ばれる時代を迎える。

とは言っても人々の往来は頻繁に続いていて、やがて帰化人たちに

よって「漢字」がもたらされた。そして、我国最古の歴史書と言わ

れる「古事記」が漢字によって編纂されたのは712年、続いて「

日本書紀」は720年と「空白の4世紀」は後から「神話」によって

埋められた。そもそも文字が伝わるということは当然書籍が伝わると

いうことで、書籍は必然的に現前性を超えた思想を伝えようとする。

こうして文字、つまり漢字は仏教思想とともに急速に広まった。とこ

ろで、『古事記』『日本書紀』には中国の正史として扱われる『三国

志』の中の所謂『魏志倭人伝』が伝える「邪馬台国」や「卑弥呼」に

関する記述はいっさい見当たらないが、それに代わってその実存が疑

わしい仲哀天皇の皇后である「神功皇后」を「卑弥呼」に見たてた「

新羅征伐」の物語が語られる。しかし、そもそも「卑弥呼」は皇族の

祖先であり、そして「邪馬台国」は大和朝廷へと繋がる古代国家であ

るとすれば、記紀の編纂者たちは当然『魏志倭人伝』を目にしたにも

かかわらず、何故「邪馬台国」「卑弥呼」の記述を知りながら敢えて

それには触れずに、実存しない「神功皇后」に置き換えなければなら

なかったのだろうか?つまり、『魏志倭人伝』が書かれた3世紀末か

ら『記紀』が編纂された8世紀始めまでの間に「卑弥呼」の「邪馬台

国」はそのまま「天皇」の「大和朝廷」へとは繋がらなかったからで

はないだろうか。つまり「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったく別の

国だったのではないのだろうか?ところで、かつて早稲田大学の水野

祐氏(1918年~2000年)は「応神天皇は応神王朝という新しい

王朝の始祖である」という考えをはじめて学界に提出した。(『日本の

歴史』①神話から歴史へP375~「水野学説」) 応神天皇とはその実

在が疑わしい仲哀天皇と神功皇后の子だが、「確実にその実在をたし

かめられる最初の天皇であるといってよいであろう。」(同書) 水野説に

よると、詳細は割愛するが、「3世紀の昔、耶馬台国は狗奴(くな)国と

争い、一度はその勢力をくじかれたのだが、邪馬台国が晋朝の南退(31

4年) によって後援を失うに及んで狗奴国が北九州を席捲した。」(同書)

「この狗奴国王家はさかのぼればツングース族で、早くから九州地方に

侵入し、倭人を征服して原始国家を形成したものであろう。」そして、

「応神天皇はその狗奴国王の後身である。」と言うのだ。つまり、伝説

の存在でしかない初代神武天皇から代を繋いで、その実在が確実な最初

の15代応神天皇とは、「卑弥呼」の「邪馬台国」ではなくツングース

族を祖先にする狗奴族の後裔で、言語の詳細な分析から「狗奴国つまり

応神王朝が、かつて朝鮮半島から渡来した征服王朝であったことの証拠

である。」と言うのだ。つまり、我々大和民族のルーツとは「卑弥呼」

の「邪馬台国」ではなく、朝鮮半島を南下してきたツングース族が北九

州を席捲し、そして「邪馬台国」を征服した狗奴国であると言うのだ。

                         (つづく)


  仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(2)のつづきの続き

2022-01-30 18:16:54 | 「死ぬことは文化である」

      仮題「心なき身にもあわれは知られけり」


         (2)のつづきの続き


 さて、それではその「卑弥呼」が君臨する「邪馬台国」は日本の

どこに在ったのか、つまり大和説と九州説とに分かれる所謂「邪馬

台国論争」ですが、それは「魏志倭人伝」にその行程が極めて詳細

に記述されていることから何の問題もなく特定されると思いきや、

どうもそうではないらしい。その「魏志倭人伝」が伝える「卑弥呼

」の居る「邪馬台国」への行程は、まず朝鮮半島の中西部にあった

帯方郡より「海岸に従って水行し」、そして対馬、壱岐を経て九州

の「末盧(まつろ)国」に上陸する。「末盧国」とは佐賀県唐津市北部

の東松浦半島付近で、さらに「東南に陸行五百里で伊都(いと)国に着

く」とあり、それは糸島半島辺りで、そして「東南の奴(な)国まで百

里」、「奴国」とは博多付近で、それは江戸時代に近くの志賀島から

金印「漢委奴國王」の印が発見されたことからまちがいない。ただ、

それら「東」へと連なる土地の方角が「東南」と記載されていて些か

怪しいが、それは現代のように正しい方角を知ることができなかった

時代のことなので柔軟に受け止めるしかない。次に「東行して不弥(

ふみ)国に到るまで百里」とあるが、ここで「奴国から東行百里」の

「不弥国」とは何処であるかが特定できない。それは九州の中の何処

かに違わないが、方角の不正確さもあって奴国(博多) から「東行百里

」の地は諸説ある。ただ、次にある「南の投馬(つま)国に行くには

行二十日」とあり、ここで突如として里程による表示が日数に変わる

が、水行、つまり船に乗って向かうにはどうしても海に面した場所で

なければならない。もちろん、内陸の河川を遡上することも考えられ

ないわけではないが、そもそも「邪馬台国」が九州にあるとすれば上

陸した後に再び「二十日」もかけて「水行」したりするだろうか?だ

とすれば、「水行二十日」は九州から離れて海上を「水行」する以外

に考えられないのではないだろうか。つまり、それは「九州説」の破

たんにほかならない。

                         (つづく)