「真理とは幻想である」(3)

2020-10-16 14:07:44 | 「ハイデガーへの回帰」

       「真理とは幻想である」


           (3)


 ハイデガー=ニーチェは、「もしも世界が不断に変遷する無常な

ものであるとすれば」、つまり世界とは〈生成〉であるとすれば、

固定化された永遠不変の〈真理〉は変遷する生成の世界に「そぐわ

ない」と言います。しかし、われわれが世界を認識するための根拠

となるものは〈真理〉以外にあり得ません。たとえば、われわれが

生息する地球は自転しながら太陽の回りを公転しているという事実

は〈真理〉そのものであり、たとえ明日になっても、おっと、自転

しなくなれば明日は来ないので自己矛盾ですが、しかしその〈真理〉

はまず不変に違いありません。不変であると信じるからこそ気にせ

ずに暮しているのです。では、地球は永遠不変に自転しているのか

と言えば、いずれ減速して遂には太陽に引き寄せられると考えられ

ています。つまり、われわれにとっては〈真理らしきもの〉ではあ

っても、真理とは決して〈永遠不変〉ではないのです。ただ、この

〈曖昧さ〉の上にわれわれの科学的認識が存立しているのです。そ

れは「世界とは不断に変遷する無常なものである」からです。そし

て、〈永遠不変の真理〉から導き出された固定化した科学技術は生

成の流転を妨げる、これが今〈世界=内=存在〉としてのわれわれ

が直面している地球環境問題にほかなりません。

                         (つづく)


「真理とは幻想である」(2)

2020-10-14 07:58:17 | 「ハイデガーへの回帰」

          「真理とは幻想である」


              (2) 


 ところで、われわれが創り出した科学技術は絶対不変の真理に基

づいて構成されている。もしも「真理とは幻想である」とすれば、

われわれの創り出した近代科学文明社会もまたいずれ消滅する幻想

でしかないと言うことになる。すでに、再生をもたらす自然循環は

われわれの科学技術が創り出した人工物に阻まれて滞り、地球環境

はいよいよ目に見えて異変を起こし始めている。また、当然、無限

の化石燃料が限られた地球に埋蔵されているはずはなく、地球温暖

化問題の深刻さと比例するようにエネルギー資源の枯渇にも迫られ

てくるに違いない。つまり、何百年後の人類は自然環境の変化とエ

ネルギー資源の枯渇によって科学技術が無用になった世界で、かつ

て「神の死」によってニヒリズムに陥ったように、再びわれわれを

ニヒリズムが襲うことだろう。そもそも本来の生物進化を技術進化

に委ねたわれわれの生存能力は科学技術の無用化によって著しく退

化していることに気付かされるに違いない。もちろんそのような能

力は必要に迫られればいずれ再生されるに違いないが、それでは、

われわれの理性はもう一度原始に帰って生き延びるための生存競争

を繰り返す精神力をよみがえらせることができるだろうか。しかし、

精神力とは神への信仰からもたらされるもので、「神の死」によっ

て萎えてしまい、そして科学技術の無用化という相次ぐ価値の喪失

によってわれわれの理性は「神」「科学」を超える新たな価値を産

み出すことができるだろうか。理性が生存を超えた新たな価値を見

い出せなければニヒリズムから抜け出すことできない。


「あほリズム」(762)

2020-10-09 05:04:05 | 「ハイデガーへの回帰」

          「あほリズム」

 

            (762)

 

 「既得権益」を守るための「前例主義」と「縦割り組織」、

それらに支えられている最たるものは政治家たちである。

学術会議などというのは枝葉末節にすぎない。それを言うな

ら政治家たちはどれほど既得権益に与っているのか。もしか

すると自分たちの既得権益を守るための目くらましだと思え

なくもない。IT化社会の下で、その気になれば「直接民主

主義」(国民投票)でさえも可能な時代に、いまや巨額の歳費

を費やす政治家(代議士)こそが無用ではないか。

「前例主義を見直すと言うならまず初めに政治家を減らせ!」

と、言いたい。


「真理とは幻想である」

2020-10-08 10:43:49 | 「ハイデガーへの回帰」

         「真理とは幻想である」

 

 或るものを、持続的に存立する堅固なものと言う意味において存

在的なりと表象することは、一種の価値定立である。《世界》の真

なるものを、それ自体で持続的に存立している永遠不変なるものへ

持ち上げるということは、とりもなおさず、真理を必然的な生活条

件として生そのもののうちに移すということなのである。しかしな

がら、もしも世界が不断に変遷する無常なものであるとすれば、も

しも世界が過ぎ去り行く不定なものの無常なものにこそその本質を

もっているのだとすれば、そのときには、持続的に存立する堅固な

ものという意味での真理は、それ自体としては生成しつつあるもの

をたんに固定化して打ち固めたものにすぎず、この固定化は、生成

するものに照らしてみると、これにそぐわないもの、これを歪曲す

るものでしかないであろう。正当なものとしての真なるものは、か

えって生成に即応しないことになるであろう。そうなると、真理は、

不=正当性であり、誤謬であり――たとえ必然的なものかもしれな

いが、やはり一種の《幻想》となるであろう。

 こうしてわれわれは、真理とはひとつの幻想であるというあの異

様な箴言が、そこから告げられる方向へ、はじめて眼を向けること

になる。

ハイデガー著『ニーチェ』Ⅱ 平凡社ライブラリー(1―認識とし
ての力への意志 「《生成》としての世界と生」より抜粋)

 


 ハイデガー「存在と時間」上・下(13)

2020-10-04 22:46:33 | 「ハイデガーへの回帰」

        ハイデガー「存在と時間」上・下

 

             (13)


 ハイデガーの本を何冊か取り寄せて、彼がわずかでも「自然に帰

れ」らしき発言を残しているかもしれないと思って探してみたが、

木田元氏が言うようなハイデガーの〈企て〉、それは「人間を本来

性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそ

らくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生

きて生成するものと見るような自然観を復権することによって、明

らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化を

くつがえそうと企てていたのである。」(木田元「ハイデガーの思

想」)、と語られているような明確な言質を見つけることはできなか

った。ただ、〈世界=内=存在〉であるとか、〈始原忘却〉である

とか、それらの言葉から自然回帰への想いは読み取れないわけでは

ない。たとえば、われわれがどれほど自分たちの都合のいいように

世界を作り変えたとしても、〈世界=内=存在〉である人間は〈存

在=生成=自然〉に依存しなければ生きられないことは明白である。

さらに近年は地球環境問題が深刻化して、人間中心主義的文化(ヒュ

ーマニズム)の限界が近づいていることに気付かない者はいない。つ

まり、近代科学文明社会がこれからも永遠に続くことは有り得ない。

だとすれば、われわれが今享受している近代社会はいずれ淘汰され

消滅する幻想文化にほかならない。それどころか、今われわれが営ん

でいる生活そのものがさまざまな機械を代用させることによって、本

来の生存能力を著しく退化させていることは明らかである。いずれ、

エネルギー資源の枯渇によって「快適な生活」を失った近代人が、退

化したい身体を恨みながら、いったい何のために生きているのかさえ

見失って、遂には絶滅するようなことがないようにするために、われ

われは、今のうちから科学技術に頼らずに自らの能力を進化させ、「

人工の世界」を脱け出して「生成の世界」へ回帰するべきではないだ

ろうか。おそらく、その時はすでに訪れている。

「だって将来は誰一人としてそんな風にして暮していないんだよ」

 

                         (おわり)