ハイデガー「存在と時間」上・下(12)のつづき

2020-09-15 03:29:08 | 「ハイデガーへの回帰」

           ハイデガー「存在と時間」上・下

 

             (12)のつづき

 

 ただ、私は木田元氏の感想ではなく、ハイデガー本人の言葉として、

「世界を〈存在=生成=自然〉の存在概念によって、〈存在=現前性

=被制作性〉による人間中心主義的文化をくつがえそうと企てた」と

いうような言質を得たかったので、さらに、ハイデガーの本「技術と

は何だろうか」(講談社学術文庫)を取り寄せて読むことにした。彼の書

籍は主に講演を書き残したものがほとんどで、それでも全集は実に10

0巻を超えるほどの浩瀚なもので、とても全てを読むわけにはいかない

が、おそらく〈企て〉に近いことが書かれていると思われる後期の本を

選んだ。近代文明の限界を訴える私にとっては、ハイデガーが「人間を

本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそ

らくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて

生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかにゆ

きづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそ

うと企てていた」(木田元「ハイデガーの思想」)ことを、どうしても自

分の目で確かめたかった。何故かと言えば、これも木田元氏の本からだ

が、「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれはなに

をなしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と後期のハ

イデガーは考えていたようである。」(同書) それでは、ハイデガーはい

ったい何を待つことだけだと考えていたのだろうか? たぶんそれは人間

中心主義的文化の限界に違いない。だとすれば、それは環境問題が限界

に達した今この時を措いてほかにない、と思うからです。

                           (つづく)


 ハイデガー「存在と時間」上・下 (12)

2020-09-11 15:56:16 | 「ハイデガーへの回帰」

                ハイデガー「存在と時間」上・下


            (12)

 ハイデガーの「存在と時間」を「一応」読了しました。私はどうし

ても木田元が自著「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で「

『存在と時間』には壮大な文化の転回の企てが隠されている」と語

ったことが気になって読み始めましたが、この本のどこにそんな「

企て」が隠されていたのかと言いたくなるほど現象学的存在論に終

始した内容だった。「隠されている」から見つからなかったと言え

ばそれまでですが、実にわかりづらくて、労多くして功少なしの思

いです。ただ、たとえばハイデガーの言葉として、現存在(人間)と

は「世界=内=存在」であるとするならば、つまり「世界は人間に

先行する」とするならば、現存在とは世界の中から派生した存在で

あり、人間が世界の中心であるという世界観(ヒューマニズム)は、

自らの存在根拠を見失った誤まった認識であることに間違いはない。

ハイデガーはそれを「存在忘却」と呼んだ。そして、われわれは世

界の中から生れてきて、その生れてきた世界を作り変えようとして

いる。それは、プラトン・アリストテレス以来、真理を問う西洋形

而上学によって、存在は本質存在と事実存在に二分され、永遠不変

である真の世界「イデア」こそが本質存在であって、いずれ死滅す

る人間が存在する事実存在としてのこの世界は、「イデア」を模倣

して制作された仮象の世界だと考えられた。すると自然とは制作の

ための単なる材料・質料でしかなく、「当然のこととして制作のた

めの技術知の担い手である人間を世界の中心に据える人間中心主義

(ヒューマニズム)と、顕在的潜在的に連動している」(木田元 著「ハ

イデガーの思想」)もちろんそれは近代科学文明に引き継がれ、今

日では科学技術がもたらす環境破壊は許容の限界を超えて、その影

響はさまざまな環境変化を生んでいる。つまり「世界=内=存在」

という概念だけで「人間中心主義的世界観」、つまり「ヒューマニ

ズム」は事実存在が限界に達した時に行き詰ることが読み取れる。

                         (つづく)


ハイデガー「存在と時間」上・下 (11)

2020-08-23 10:24:35 | 「ハイデガーへの回帰」

       ハイデガー「存在と時間」上・下


            (11)


 ようやく「存在と時間」の上巻を、読んだというよりも目を通した

程度で書棚に戻しました。私は、木田元の「ハイデガーの思想」を読

んで、どうしてもハイデガーの「存在と時間」を読みたいと思ったの

ですが、これまでのところ、木田元のハイデガー論とは、つまり〈存

在=生成=自然〉とする存在概念によって〈存在=現前性=被制作性〉

による「人間中心主義的文化をくつがえそう」という企てはいまだ何

一つ語られていません。たぶんそれは木田元のハイデガー論に他なら

ないのではないかと思えてきました。ただ、ハイデガーによる現象学

的存在論は精緻を極め、一般的な世界認識論とは視点が異なるという

ことは良く分りました。たとえば、われわれの世界観とはわれわれの

理性が創り出す世界観でしかなく、われわれが存在しなければそのよ

うな世界「観」、それだけでなく「世界」さえも存在しない、だとか、

また、「存在とは何か?」という問いを但し「一行で答えろ」と言わ

れたとすれば、その設問そのものが答えを限定するように、また、そ

れとは反対に無限に叙述される答えも真理には的中しないように、つ

まり、「存在」という言葉そのものがすでに「答え」を限定している

とすれば、言葉の限界が認識の限界であり、われわれの理性を超えた

世界認識など決して得られるわけがない。つまり、世界の隅々までも

認識できる「絶対的な理性」というものがあるとすれば、われわれの

理性とはせいぜい明かりの届く手元だけの限られた理性に過ぎないと

いうことである。それらは「絶対的な理性」から見ればしょせん誤謬

でしかない。

                          (つづく)


ハイデガー「存在と時間」上・下 (10)

2020-08-08 14:55:01 | 「ハイデガーへの回帰」

       ハイデガー「存在と時間」上・下


             (10)


 さて、ハイデガーと彼の思想を読み解く木田元の著書「ハイデガーの

思想」から長々と引用しましたが、そもそも形而上学的思惟から導き出

されたイデア論によって本質存在(イデア)と区別された事実存在(自然)

は〈被制作性〉として了解され、人間中心主義的文化の下で科学技術文

明が構築されてきましたが、しかし「存在とは生成である」(二ーチェ)

とすれば、生成変化しない科学技術によって生成循環が遮られた世界は

いずれ行き詰まることは明白である、というのがハイデガーの考えであ

ると木田元は説く。そこで、いずれ行き詰る科学技術文明を見直して、

〈存在=生成=自然〉、言ってみれば「自然に帰れ!」と訴えたが、す

こし時期尚早だったことは否めない。それでは「われわれに何がなしう

るのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけと後期のハイデガーは

考えていたようである。」(木田元)

 私はこの「待つことだけ」という文章を読んで、これまで自分が考え

続けてきた「世界限界論」に繋がったことに驚いた。つまり、ハイデガ

ーはいずれ人間中心主義的文化による近代科学文明社会が行き詰まるこ

とを百年も前に予測していたからだ。そして木田元は、ソクラテス/プ

ラトン/アリストテレスの下で始まったこの形而上学(プラト二ズム)は、

「ハイデガー自身が、この〈哲学〉の解体を企てている以上、彼の考え

では、まだ到来していないにしても、その下限もあるにちがいないのだ

。」(同書)と、ハイデガーは、誤まった存在了解による存在概念〈存在

=現前性=被制作性〉によって始まった人間中心主義的文化はいずれ生

成循環の再生可能性(サスティナブル)が滞って限界「下限」が到来する

ことをすでに予言していた、と言うのだ。しかし、これは木田元による

ハイデガー論にほかならない、と言うのもただいま読書中の「存在と時

間」には(今のところ) 現象学的存在論に関する内容ばかりでそのよう

な文明批判的な記述は一ヶ所も出てこないし、一般にハイデガーが自然

への回帰を哲学者だとは思われていない。木田元によれば〈存在=生成

=自然〉という存在概念はニーチェへの強い共感によるものだと言って

いる。実際、ハイデガーは自身の大学で講義した「ニーチェ」論を書籍

化していて、ニーチェ自身の文章からは何を言ってるのかサッパリ解ら

なかったことが、彼の言葉によれば、こんなにも明解に解説されている

ことに驚かされる。私のニーチェ論はハイデガーのニーチェ論にほかな

らない。

                          (つづく)


ハイデガー「存在と時間」上・下 (9)

2020-08-07 10:53:13 | 「ハイデガーへの回帰」

        ハイデガー「存在と時間」上・下 

            (9)

 ハイデガーは、プラトン・アリストテレス以来の存在概念〈存在=現

前性=被制作性〉、つまり、自然とは〈作られたもの〉〈なお作られう

るもの〉としての制作のための単なる〈物質〉にすぎないという人間中

心主義(ヒューマニズム)的文化をくつがえして、始原の存在概念〈存在

=生成=自然〉としての自然観を取り戻そうと企んだが、またそれが彼

をナチズムへの共感に向かわせたのだが、そして、人間中心主義的文化

をくつがえすということは当然のことであるがアンチ・ヒューマニズム

であることは避けられない。〈存在=生成〉という存在概念は事実存在

としての〈生成=誕生=「死」〉であり、〈存在=生成〉という存在概

念は決してヒューマニズムではありえない。そして、ナチズムに対する

最大の非難とはアンチ・ヒューマ二ズムに対する非難にほかならない。

ここで、木田元のハイデガーがナチズムへ加担したことへの感想を記す

ると、「彼(ハイデガー)に一種の文化革命の理念があったと思っている。

二千五百年に及ぶ西洋の文化形成の原理を批判的に乗り越え、〈生きた

自然〉の概念を復権することによって文化の新たな方向を切り拓こうと

いうその意図を、『地と大地』に根ざした精神的共同体の建設というナ

チズムの文化理念に重ね合わせて考えようとした、あるいはナチズムを

領導しておのれの文化理念に近づけうる夢想した、その心理は理解でき

るように思うのである。」(木田元『ハイデガーの思想』)と語る。ハイデ

ガーが始原の存在概念である〈存在=生成〉によって、ゆきづまりにき

ている人間中心主義的文化、つまり近代科学文明社会をくつがえそうと

する企ては、「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとっておこ

なうというのは、明らかに自己撞着であろう」(同書)と気付いて挫折せ

ざるをえなかった。ただ、存在者を本質存在と事実存在に二分する形而

上学的思惟(プラト二ズム)から演繹される存在概念〈存在=現前性=被

制作性〉に対する批判は変わらなかった。「では、この形而上学の時代、

存在忘却の時代に、われわれに何がなしうるのか。失われた存在を追想

(アンデンケン)しつつ待つことだけ、と後期のハイデガーは考えていたよ

うである。」(同書)

                          (つづく)