「無題」 (六)―⑥

2012-09-02 03:44:48 | 小説「無題」 (六) ― (十)



               「無題」

                (六)―⑥


 昔の人は、一本の草木、一握の土くれに到るまで、凡そ森羅万象

には魂があると信じてました。自然界とはそういった魂が絡み合っ

た世界だと思われていた。植わってる木を切る人は切り倒される木

の悲痛な魂の叫び声を同じ魂で聴いた。しかし、社会化が進むと人

々の仕事は分業機械化され、木を切ることは木を切ることを職業に

する人に任せてほとんどの人々は木の魂の叫び声など聴くことはな

くなり、更に機械化によって木を切る人にも聴こえなくなったのか

もしれません。そして、自然の訴えに耳を傾ける人が誰も居なくな

りました。文明社会は決定な力を手に入れて自然との繋がりを変え

てしまった。もちろん、木だけではありません。魚や鶏や豚や牛や、

誰もが毎日食べる生き物たちの肉にしても、我々が直接鶏の首を絞

めたり屠畜したりはしません。生き物たちの魂の叫び声を耳にする

ことなく、敢て言えば後ろめたい思いをすることなくそのいのちを

食べているのです。断っておきますが、私はどちらかと言えば無神

論者で現世利益を授ける昨今の如何なる信仰にも一切縋ろうなどと

は思っていません。それでも、スーパーで働いていて、いのちを奪

われた生き物たちが食べられもせずに毎日大量に棄てられているの

を見ていると、時々この社会が何時までも続くとは思えなくなりま

す。すでに、私たちは食べ物が魂を宿した生き物であることを忘れ

てしまったのではないか。食べるということが如何に後ろめたい感

情を伴う作業によってスーパーの店頭に並ぶのか知らないのです。

それは、生きるということが何ものかの犠牲の上に成り立っている

ということを知らないことになります。やがて自然との繋がりを失

った想像力は、自然の中でしか生きられないにもかかわらず、生き

る感受性を鈍化させ独善的になり、自分たちが安楽に暮らすためな

ら山を削り川岸を固め海岸を埋め立てても何の代償も求められない

と思っている。しかし、我々が何かを得れば間違いなく自然は何か

を失っています。秩序を破壊された自然は、破壊された秩序をその

まま我々に返してくるのです。つまり、如何なる文明であれ自然秩

序に従うことでしか繁栄できないことを我々は忘れてしまったので

はないだろうか。

 昔の人が言うように、自然にも魂があるとすれば、それを秩序と

言ってもかまわないが、自然にも意志があるに違いない。自然の中

で暮らした昔の人々は容易にそれを感じることができただろう。生

き物を殺して食べもせずにただ棄てることがどれほど後ろめたいこ

とであるか知っていた。一本の木を切るにしても無駄にならないよ

うに心掛け祈りながら切った。それほど自然を破壊することを畏れ

た。自然の中でしか生きられない人間は、自分たちの生存と自然秩

序の微妙なバランスの上にしか繁栄は築けないことを知っていた。

ところが我々は、文明への過度の依存から生存が自然の礎の上に築

かれているという当たり前のことさえ忘れてしまった。生きるとい

うことは食べることであり、食べるということは生き物たちのいの

ちを殺めることであるという、生きることの後ろめたさを忘れてし

まったように。自然の意志に逆らった文明は豊かな社会と引き換え

に環境の破壊をもたらし、自然の意志は破壊された環境を復元させ

ずにあるがままに我々に報いるのです。つまり「失くしたものは元

には戻らない」、これが自然の意志です。

 巨木に寄生して日当たりを求める植物が、代を繋ぐうちに大地か

ら遠く離れて、自らが宿主に依存していること忘れ、宿主である巨

木の日差しを奪ってついには宿主を枯らしてしまい、自らの仕業で

自らの「宿命」を終わらせてしまうように、我々の文明もまた、大

地からかけ離れた高層ビルの空調の効いた部屋の中で、生きるため

の糧はすべて大地に依存しながら、豊かさを享受して増長し、自分

たちが自然に依存して生きていることさえも忘れてしまい、ついに

は自分たちの「宿命」を自分たちの仕業で終わらせる時がやってく

るのかもしれない。食べるための生き物を自らの手で殺めることも

なく、奪ったいのちを平気で棄て、大地で作られたデンキがなけれ

ば一日たりとも過ごせないコードに繋がれた生活を送っている。デ

ンキがなければ生きられない人々がデンキが止まるかもしれない脱

原発に賛成するはずがない。また、デンキに頼った営みによって生

活を支えている人々も、原発の再稼働に賛成するのは至極当たり前

のことである。何れも、彼らは原発によるデンキに依存しているが

故に、いまさら原発の是非を問うまでもないことなのだ。考えた末

の結論などではない、そうしなければ生活を存続することができな

いからだ。一方で、脱原発を訴える人々は、果たして消費電力を3

0%減らした暮らしを受け入れる覚悟があるのだろうか。さらに、

経済が停滞し失業者で溢れ福祉が後退しても耐え忍ぶ覚悟はあるの

か。我々は、もはや思考停止の賛成や感情だけの反対を叫ぶばかり

ではなく、如何にして生活環境を破壊せずに豊かさを失わない社会

を築くことができるのか、誰にも負えるはずがない責任を「負う」

と出任せを語る政治家に預けるのではなく、高層ビルの部屋での宙

に浮いた議論ではなく地球内生物として大地に根付いた話し合いが

行われなければならない。恐らく、原発問題は継続するにせよ撤退

するにせよ、我々の社会にとって時代の大きな転換点になるだろう。

ただ、我々の意識が何も改まらずに継続されることだけは避けなけ

ればならない。もはや、水道の蛇口を捻ったら無尽蔵に水が出てく

るようにデンキが流れてくる時代は限界を迎えているのだから。


                                  (つづく)


「無題」 (六)―⑦

2012-09-02 02:29:17 | 小説「無題」 (六) ― (十)



          「無題」

         
           (六)―⑦


 道は正面の山の斜面に突き当たって左右に分れていた。T字路に

佇んでどっちへ行こうか思案していると傍らの畑に設えられたビニ

ールハウスの中から、

「おや、またお会いしましたね」

と、例のチョイ悪親父風が現れた。私は最前の経緯には一切触れず

に、

「このハウス、お宅のですか?」

ビニールハウスは入口のある半円の断面を通り過ぎた道に向けて三

棟並んでいた。

「ええ、ここは貸りてるんですがね」

「へぇ、で、いったい何を作ってらっしゃるんですか?」

「ちょっと、待ってください」

そう言って、彼はビニールハウスの中に入って行った。そして戻っ

てくると、真っ赤に熟れた大きなトマトを差し出した。

「えっ!これもしかして福寿ですか?」

「へえ、よく知ってますね。そうです」

「何でまたこんな品種を?」

「近頃の甘いだけのトマトは嫌いでね、まあ、食べてみて下さい」

私はそのトマトのお尻にかぶりついた。すると酸味と独特の匂いが

口いっぱいに拡がった。

「どうです?」

「トマトの味がします、いやあ、懐かしい味です」

「酸っぱいでしょ」

「ええ」

歩き疲れていたこともあったが、もともと私は胃を痛めていたので、

そのほどよい酸味がただれた胃壁を労わり、そして胃袋に冷たい

果肉がどっしりと落ちたがそれでもスーと軽くなり體の疲労物質が

消えていくのがわかった。食い終わると口の中に仄かな甘さと青

臭さが残った。

「これは美味い!」

それは、スーパーで売っている味もそっけもないトマトとは全く違

っていた。一言で言えばクセのある野生的な味だった。

「確かに、桃太郎にはない味ですね」

するとチョイ悪親父風は、

「何でそんなによく知っているのですか?」

「あっ、実は私、スーパーで働いてまして」

「ヘエ、そうですか」


                                  (つづく)


「無題」 (六)―⑧

2012-09-01 00:08:21 | 小説「無題」 (六) ― (十)



         「無題」


          (六)―⑧



「で、どこへ出してるんですか?」

生産者がいくら想いを込めて作っても、それを引き受けてくれると

ころがなければ消費者の口には届かない。たとえば、いくら優れた

小説を書いても、決して私のことを言っているつもりはないが、活

字になって本屋の店頭に並べられないと人口に膾炙されず、それを

扱う出版社などの仲介者の英断がなければ新しい文学は埋もれたま

まで終わってしまうように、集荷と出荷も担う組合はただ扱い勝手

がいいという理由で指定した単一品種以外は扱わないというのであ

れば、味気ない金太郎飴のような桃太郎トマトばかりが出回ること

になる。すると彼は、

「主に直売所ですね、あとはネット販売もやってますが残れば加工

用ですね」

「もったいないですね」

「そんなに作れないから仕方ないですよ」

今や流通業界も寡占化が進み大量仕入れ大量販売によって低価格競

争に曝されていて、現状は良いものであっても価格が大きなネック

になっている。いくら生産者が自信を持って作ったものでも流通か

ら外れたり、たとえ店頭に並んだとしても廉価なものに駆逐されて

しまう。私の勤めるスーパーでも特売日には客が溢れ返っても、次

の日にはその反動に頭を悩まさなければならない。価格破壊は時代

の流れで仕方ないにしても、特定の品種ばかりが店頭に並び、多様

性が失われて昔からある地元の作物が消えていくのは流通に携わる

者としては忍びない。そもそも、農作物というのはそれぞれの地域

環境に適った作物や品種があり、縦長の日本列島で同じ作物同じ品

種が画一的に作られていることこそが愚かしい。かつて「コシヒカ

リ」が売れるとなると北海道から九州まで一斉に「縦」並びになび

く様は滑稽でさえあった。しかも今ではアメリカまでも。恐らく、

その頃からそれぞれの地域環境を無視した無理な農業が始まった。

ビニールハウスの中では、まるで工業製品を扱うように、作業者は

ノギスを糖度計に持ち替えて頻りに製品の糖度ばかり測ってる。そ

もそも農業とは「Agri - culture 」 だが、それも農

業「Agri」かもしれないが、耕すこと( culture )がな

いので文化( culture ) が生まれない。従って、農耕文化や

食文化が育たない。先日テレビを観ていたら、水耕栽培で作ったレ

タスを甘いと言って感心していたが、私は甘いレタスなど気持ち悪

くて食いたくもない。野菜の旨さは決して甘さじゃない、菓子じゃ

ないんだから。野菜の旨さとは野菜独特の苦みや酸味、言ってみれ

ば不味さにこそ本来の味があるのだ。水耕栽培は無農薬を謳うがそ

の養分とは化学薬品ではないか。そこで甘みを増すために他の薬品

を継ぎ足すことに何の躊躇いがあるだろうか。我々の味覚は、まる

で甘味を知らない原始人のように、何でも噛んでもおいしいことと

は甘いことだと飼い馴らされて退化したのかもしれない。そして、

マクドナルド化された野菜工場では野菜独特の個性が失われ何を食

べても同じ味のするドッグフードのようなマクドナルドのハンバー

ガーを、私はそれを「ドッグバーガー」と呼んでいるが、甘さに騙

されてよろこんで食べているのだ。つまり、我々は画一的な味覚に

慣らされて家畜化してしまったのではないだろうか。今更ながらで

あるが、そもそも食べることとは自らの命を守るための、従って命

を賭けた行為であることさえも忘れられてしまった。

 因みに、「うまい」を辞書で検索すればすでに「甘い」があった

のには驚いた。

                                  (つづく)


「無題」 (六)―⑨

2012-08-31 07:09:40 | 小説「無題」 (六) ― (十)

           「無題」

            
            (六)―⑨


「もしよかったら、ウチの店に出しませんか?」

そう言って、私は自分の名刺を差し出した。大手のスーパーではな

いが、最近では、ま、あまり有難くないことでニュースにも出たり

して、関東近郊では以前から少しは名前は知られていた。

「はあ・・・」

彼は、しばらくその名刺に眼を落して考え込んでいた。私は、

「実は、・・・」

 実は、私は身体を壊す前から、亡くなった創業者の先代社長の許

可を得て、大手スーパーの間隙を狙って毎週月曜日の週一回だけだ

が店頭で食材ばかりの「百均市」を催していた。その名の通り何も

かも単価を百円に均一して、その替わり量であったり全体の損益の

バランスを図って調整しなが、本当のことを言えば週末の売れ残り

を処分する為でもあったが、それでも客離れを食い止める為の採算

を度外視した特売セールだった。そうは言っても、毎回同じものを

並べていてはすぐに飽かれてしまうので、目玉商品を探すのに苦労

していた。自分から提案して余計な仕事を増やしたことが身体を壊

す一因にもなってしまったが、それでも諦められなかった。すでに

スーパー業界は棲み分けを終えてしまって、だんだん小さくなって

いくパイの奪い合いは、たとえ大手と言っても売上を確保するため

には他社とシェアを競い合う他なく、勢い価格競争がし烈を極め、

中小はその煽りを真面に受けて生死を分ける水面がすでに鼻孔の際

まで達していた。そんな限界状況の中で、経営を任されたバカ息子

らが産地偽装に手を染めたのも止むに止まれぬ事情からだった。弁

解に聞こえるかもしれないが、実際の作業の中で故意ではなくとも

結果的に表示ミスは頻繁に起こった。定められた善と悪の境界に立

ってやがて混交に迷い、遂には一線を画する原則を私情によって歪

めてしまった。実は、暴露すればそのような偽装は商いに携わる者

ならば多かれ少なかれ無縁であるはずはなかった。何故なら、そも

そも商売の原則とは安く仕入れて高く売ることであり、更にそれを

如何に上手く偽るかが求められる生業だからである。

 自由競争が淘汰を繰り返して生まれた独占資本に支配された市場

では全てのモノに値札が付いてすでに社会主義社会の配給施設と変

わらないほどに画一的で退屈な店になってしまった。便利なだけの

コンビニや何でもあるが欲しいモノが何もないマクドナルドやユニ

クロのように、客はただ空腹を満たすため服を着るために仕方なく

訪れる。それらの配給所には何一つ新しいものは売られていない。

少なくとも市場の楽しさはない。我々は独占資本主義の下で急速に

競争原理が失われ社会が画一化して社会主義化している事実にまだ

気付いていない。つまり、資本主義とは「命懸けの暗闇への跳躍」

によって破綻を繰り返すものであるが、ところが、グローバル経済

の下で世界には暗闇そのものがなくなり、跳躍しない社会制度を資

本主義とは呼ばないのだ。かつて、跳躍に失敗した金融界を国家の

手で救ったことによって日本の資本主義は終わった。また、同じ理

由によって、リーマンショックから甦ったアメリカも、そして、今

まさに金融危機を立て直そうとするEUも自由を失い急速に社会主

義化するに違いない。価値を失ったものは淘汰される、その原則を

覆して資本主義は成り立たない。つまり、経済のグローバル化と共

に資本主義経済は終焉を迎えようとしている。そんな閉塞的な状況

を唯一破壊してくれそうなのが産地で営まれている直売所ではない

かと思った。そこにはまだいい加減な値札が付けられた怪しいモノが

堂々と並べられていた。外国の市場を訪れた他所者のように、ワク

ワクする好奇心が呼び覚まされた。少なくとも市場の如何わしさが

まだ残されていた。

「いいですよ、月曜だけなら」

彼によると、直売所はちょうど月曜日が定休日なので出荷先を探し

ていたところだったので新しい販路は願ってもない、と二つ返事だ

った。後は買値だったが、当然、一つ百円を越えるわけにはいかな

かったがほぼそれに近い金額を伝えると、「ほんとずら」と驚いた。

私はあくまでも採算を度外視した特売用の目玉商品であることを明

かして、つい最近まで私の片腕だった仕入れの担当者にデンワを繋

いで彼に代わった。

「買値はしかっり彼に伝えておいたので、後の送料だとか細かいこ

とはあの男が段取りしてくれるでしょう」

そう言うと、彼は頭を下げて、

「ありがとうございます」

と言ってから、美術館まで送っていく言うので、

「いや、もう美術館はいいですから、出来たらその産直所へ連れて

行ってもらえないですか」

「あっ、それなら今からそこへトマトを持って行くところですよ。

軽トラでもよかったら送りますよ」

もう充分歩いた私は、「実は、」と出勤途中に起きたことや帰りの

電車で寝過ごしたことなどを打ち明けて、

「いやあ、こんなところで商売がまとまるとは思わなかった」

そう言いながら彼が運転する軽トラの助手席に乗り込みながら、さ

っきまで会社を辞めようと決意したことなどすっかり忘れていた。


                                (つづく)


「無題」 (七)

2012-08-31 02:55:10 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                  「無題」


                   (七)


「うなされてた」

「・・・ああ。」

日曜の朝、二度寝してベットから起き上がったのは出勤日なら一仕

事を終えて休憩のコーヒーを飲んでる頃だった。妻から言われるま

でもなく微睡みの中に現れた夢想は、電車に飛び込んで自殺したあ

の女性の眼だった。その生々しい眼は靉光が描いた眼とも重なって

私を上から見下ろしていた。顔を洗ってからキッチンでコーヒーを

淹れて、何時もこの時間にコーヒーを飲む習慣が眠りから目覚めさ

せたに違いないと思いながら、その生々しい眼はまだ上から自分を

見詰めているような気がしてならなかった。

「美咲は?」

「ごはん食べて部屋に上がった」

彼女は昼夜が逆転した生活を続けていた。椅子に腰を下ろしてダイ

ニングテーブルの真ん中に調味料などが並べられた端に一冊の岩波

文庫が置かれていたので手に取った。「死に至る病 キルケゴール」

トーストパンと目玉焼きの皿を運んできた妻がそれを見て、

「あっ、美咲が忘れていったんだわ」

「こんな本を読んでるのか」

「病気の本でしょ」

「バカ、哲学だよ」

「えっ、違うの?じゃ、死に至る病ってどういう意味?」

「絶望のことだよ」

「何だ、読んだことあるの」

「いや、読もうと思ったことはあったけど、最初の数行でやめた」

「何で、難しいから?」

「難しい以前の問題、何言ってるのかさっぱり解らん」

そう言って、手に取った本をめくって始めの数行に目を通した。

「うん、やっぱり解らん」

と言うと、妻が、

「ちょっと読んでみて」

「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。

自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係で

ある、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するもの

なることが含まれている、それで自己とは単なる関係ではなしに、

関係が自己自身に関係するというそのことである。」

彼女はすぐに聴くことを諦めてキッチンの方へ逃げた。

                        
                                   (つづく)


(後記)

実は、キルケゴールなんて一度も読んだことがないので、(図書館で

借りてきてこれから読むところです)、この話をどう結着させるかの当

てはまったくありません。何だって読んだこともないキルケゴールを登

場させたのか自分でもよく解りません。ただ、何故か触覚に触れたん

です。       

                                ケケロ脱走兵