「無題」 (七)―②

2012-08-30 22:39:25 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                   「無題」


                    (七)―②


「お父さん、その本、返して」

私は驚いて本を閉じて顔を上げると、いつの間にか美咲がテーブル

の前に立っていた。

「あっ!これお前のか」

そう言って本を差し出した。私と娘の関係は彼女が家を出て行って

から少し様子が変わった。親子としての直接的な繋がりが薄れ、彼

女自身の関心が自分のことや友人といったものに移ったからだろう

が、彼女の中ではすでに私は意味のある存在ではなくなった。かつ

てなら絶対に許さなかった私の癖や言動も今では諦めて見過ごすよ

うになり、つまり、どうでもよくなった。それは、親にとっては実

に寂しいことだった。むしろ、これまでのように文句を言って関わ

ってくれることの方が今となっては嬉しかったが、ただ、それと同

時にあからさまな嫌悪感も示さなくなり、意外にも、何でもない会

話なら彼女の方から話し掛けてくることさえあって、今度は私の方

がどう応じていいのかその用意がなかった。

「むつかしい本読んでるな」

美咲は、何も言わずにその本を受け取った。彼女が京都で学んでい

た学校はミッション系だったので、しかも文学部で将来は国語の教

師を目指していたから、それくらいの本を読むことに驚いたりはし

なかった。ただ、自殺騒動の後、それまで彼女に関わってきた者は

どう接していいのか倦ねていた。実際、生きることを捨てようと覚

悟した者がこれまで通りの生活にどれほど興味を持っているのか周

りの者は測りかねて恐る恐る受け応えするしかなかった。それは、

フーテンの寅さんの前で女の話を持ち出さないように心掛ける身内

の者のように、彼女に対してなぜ自殺しようとしたのか聞かなかっ

たし彼女が居なくても触れないでいた。もちろん親であるなら、な

ぜ生きようとしないのかと膝を交えて説得するべきだと言うかもし

れないが、私自身が彼女を改めさせるほどの説得力のある意義を持

ち合わせていなかった。誰も目的を持って生まれてくる者など存在

しないし、そうするより他に生きる手立てを持ち合わせていないで

はないか。我々は異性に欲情して性交し、やがて子どもが生まれて

くれば育てることに何の理屈も求めたりしない。何のために生きて

いるのかという問いは、何故欲情するのか、或いは何故愛するのか

を問うことで、それは理性の預かり知らないことである。もしも、

我々が何らかの使命を受けていて、その本来の目的を見失っている

ならば、恐らく、我々は缶切であるにもかかわらず、缶詰の存在し

ない世界に生まれ落ちたからに違いない。そこで、我々は使命を果

たすべく缶詰を一から作らなければならなくなった。そして、缶詰

を作っているうちに缶切である必要がなくなった。我々は缶詰まで

作れるのになぜ缶切でなければならないのか?ところが、缶切とし

ての使命を捨てた時に我々は目的を失った。使命を捨て去った時に

いったい何が缶切の目的足り得るのか?多分、我々とは目的を失っ

た手段、缶詰のない世界に現れた缶切なのだ。朽ち果てた廃屋の水

屋箪笥の片隅に置き去りにされて目的を果たせなくなった刃の尖っ

た缶切なのだ。目的から解放された手段は新たな目的を見つけるた

めにせめて自由であらねばならない。私は、彼女を傍から温かく見

守る以外に、彼女の人生は彼女に委ねるしかないと思った。確かに、

彼女は日常生活を取り戻していたが、それは世間の建前に従ってい

るだけで、もしかすれば本音は絶望から抜け出せずにいるのではな

いのか不安だったが、実のところは誰も、恐らく彼女自身も解らな

かった。私は、「強くなれ」だとか「頑張れ」だとか、そうなれな

くて苦しんでいる我が子をさらに追い込むことだけは避けようと心

掛けていた。強くなるなら自分の意志で強くなるしかないのだ。他

人に縋って自分の身の丈に合わない見せかけだけの虚勢を張っても、

そんなものは虚栄ばかりの世間の中で見栄を張ることくらいしかで

きない本当の強さとはいえないのだから。私は、美咲には自らの孤

独に負けない精神的な強さを身に付けてもらいたかった。

                                   (つづく)


「無題」 (七)―③

2012-08-29 00:58:40 | 小説「無題」 (六) ― (十)

        「無題」


         (七)―③


「お父さん、ちょっといい?」

「ん?」

私が何も応えない間に娘は向いの椅子を引っ張り出してゆっくり座

った。立ち去るものだと思っていた私は、

「なっ、なにぃ?」

「実は、」

そう言ってからしばらく噤んだ。彼女がテーブルに載せた左腕の淡

い空色のブラウス袖口から手首に巻かれた白い包帯がはみ出して

いた。私はとっさにそれから視点を逸らして彼女の背後へ移すと、奥

のキッチンでは背を向けて流し台に佇む妻が、音も立てずに家事を

している振りをして聞き耳を立てているのがわかった。私は、美咲が

何を言い出すのかビクビクしながら固唾を飲んでその後の言葉を待

った。

「わたし、できたらまた一人で暮らしたい」

「京都へ戻るつもり?」

彼女が籍を置いていた学校には一応休学届を出していたが、借りて

いた京都の部屋はまだそのままで、何時までもそのままにしておく

わけにはいかなかった。

「もう京都へは戻らない」

「じゃ学校はどうする?」

「できればこっちの学校に移りたい」

「うん」

彼女が言うには、この秋にこっちの大学の編入試験を受けて京都で

の学生生活を引き払うつもりだと言った。それを聞いて私は少し安堵

した。少なくとも大学に在籍している限り、退学してしまうよりは

迷いが少ないと思ったから。ただ、彼女はもう教職を目指すことは

諦めた。そして、

「心理学を勉強したい」

と言った。私は、彼女が傷付いた左手で握り締めているキルケゴー

ルの文庫本に目を遣った。そこには「死に至る病」と書かれていた。


                                 (つづく)


「無題」 (七)―④

2012-08-28 03:33:35 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                 「無題」


                  (七)―④


「おーい、弘子!」

キッチンの流しで背を向けて静止している妻を呼んだ。何時もなら

こういう相談を美咲は私に直接言って来ずにまず母に打ち明けて、

妻が私に伝えてきたので、妻が知らないはずはなかった。

「はい」

妻は、エプロンの裾で手を拭う素振りをしながら応えた。私は、美

咲のすぐ後ろに現れた妻に、

「聞いてただろ?」

「ええ、少しは」

「じゃあ、すぐに京都の部屋を引き払うようにして、いや、待てよ、

部屋を探す方が先か?」

「あっ、それなら。ね、美咲」

「えっ、もしかして、もう決まってるの?」

美咲は小さく肯いて弘子の方を振り返った。ほら、いつもこの調子

だ。私が相談を受けた時には実は何もかもが決まっていて、ただ私

はハンコを押すだけだ。妻の説明によれば、実は、美咲は転入する

学校も決めていてその近くに部屋も見付けて、あとは私の承諾をも

らうだけだった。ただ、今までなら美咲は私への相談ごとは些細な

事でも母を使っていたが、今回は自分から私に話すと決めた。

「よし、わかった。それから、美咲、よく話してくれた。お父さん、

本当にうれしかった」

娘は口元を緩めて応えた。そして、イスから立ち上がって自分の部

屋に戻ろうとしてテーブルを離れた。

「ほら、本、忘れてるぞ」

「あっ、それお父さんにあげる」

「なんだ、もう読んだのか?」

「んん、もう読まない」

そして、私は娘にどうしても伝えたかったことを口に出した。

「あのさ、美咲、焦んなくたって何れ人は死んじゃうんだから」

彼女は、私に背を向けたまましばらく立ち止まってから、黙って階

段を上った。


                                 (つづく)

「無題」 (七)―⑤

2012-08-27 18:45:15 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                  「無題」


                   (七)―⑤


 バタバタとした生活が片付いた時には目の前に連休が迫っていた。

メンタル・カウンセラーからの許可も得て、その先生が言うには、

同居してれば自傷を思い止まらせることになるかと言えば、その気

になれば何処だってやる。むしろ、その気を起こさせないためにも

本人が望む独り暮らしをさせた方がストレスは少ないと言うことだ

った。こうして、再び美咲は家を出て独り暮らしをすることになっ

た。

 私は、これまで仕事に感(かま)けて、彼女には本当の父親のよう

に向き合おうともせず小さい頃から寂しい想いをさせたことを詫び

たい気持ちでいっぱいだった。彼女にしてみれば、本当の父親は出

て行き、さらに母を知らない男に奪われ、その男は自分には何一つ

関心を示してくれないお父さんという他人だった。つまり、彼女は

親という存在に縋っては何度も見捨てられたのだ。私は躰を壊して

仕事を離れるまでそんなことにはまったく気付かなかった。仕事を

奪われた病院のベッドの上で、ある夜眠れずに目が冴えて考えごと

をしているうちに言い知れぬ不安に襲われた。その不安とは再び職

場に戻った自分を部下たちはこれまでどおり迎えてくれるだろうか

?元通りに回復しなければ時間に追われる職場では私はまったく役

に立たないだろう。これまでとは違った冷たい世界を想像すると暗

闇の病室にその冷たい不安が充満した。そして、その冷たい不安は

美咲が幼かった頃に私を見詰める時の無表情と重なった。あっ!彼

女の無表情やまるで他人事のような言葉遣いは幼いながらもその孤

独から遁れようとして精一杯堪えていたからではなかったのか?私

はその子どもらしくない冷めた態度に何故気付いてやれなかったの

か。彼女は心の中で必死で救いを求めて叫んでいたのではなかった

か。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、私はすぐに病室

を抜け出して美咲のもとへ駆け付けて謝らなければならないと思っ

た。信じていた父親がいなくなって新しい父親が現れても、野球チ

ームの監督を代えるように誰が納得して、まして子どもであれば尚

更、言うことのまったく違う新しい父親の意見に従うことができる

というのか。

「いいか、美咲、独りじゃないんだから困ったときはいつでもここ

に戻って来いよ。ママも、それから私も待っているからな」

「ありがとう、お父さん」

「これまでお前には本当に淋しい思いばかりさせて悪かった。

お父さんを許してくれ」

私がそう言うと、美咲は私の胸に顔を埋めて泣きだした。もちろん、

私だって冷静でいられるはずがなかった。


                                  (つづく)


「無題」 (八)

2012-08-26 02:59:20 | 小説「無題」 (六) ― (十)

           「無題」


            (八)


 美咲が置いていったキルケゴールの本のおかげで通勤電車で退屈

しなくてすんだ。とはいっても、ポテトチップスをサクサク食うよ

うなわけにいかず、スルメイカをいつまでも噛みしめているようで、

わかったつもりで先へ進むと咀嚼されずに飲み込んだイカは嚥下

されずに再び口元へ吐き出されて、飲み込めない箇所に後戻りして

何度も読み直さなければならかった。例えば、「罪とは、神の前で

絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、神の前で絶

望して自己自身であろうとすること、である」と書かれているが、

それじゃあ、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなかった。

ところが、何回も同じところを咀嚼するうちに、「自分自身であろ

うと欲しないこと」というのは、自分との対話の中で、自分自身と

の関わりを放棄することであり、「自分自身であろうとすること」

とはそれとは反対に独我論に陥ることではないか。そこから「罪」

とは罪の意識から逃れることであり、或いは、罪の意識そのものを

認めようとしないこと、なのではないか。例えば、人を殺しておい

て自分は知らないと虚偽することであったり、或いは、あんな人間

を殺してなぜ悪いと自分を正当化することである。ところが、「神

の前で」が意識されなくなった時、相対化した世界の中で絶対への

意志からもたらされる絶望がなくなり、絶対は存在しないのだから、

虚偽や詭弁を用いることの疚しさを感じなくなる。恐らく、キルケ

ゴールは神への信仰が失われた時、つまり現代だが、絶望(精神)か

ら逃れた我々は、彼は冒頭で「精神とは自己である」と言っている

ので、自己を失い同時に絶望が消え失せ、しかし絶望とは自己にと

ってのある一つの基準なのだ、その基準を失った世界は矮小化し虚

偽と詭弁がたしなめられず、そして、遂には虚偽と詭弁を根拠に精

神を失くした自己を正当化するようになり、やがて人間は堕落する

に違いないと思ったのではないだろうか。ほら、自己(精神)を失っ

て嘘と詭弁を繰り返す原子力村の人々ように。

 おお、何時の間にか電車はもう降車駅に着いた。


                                 (つづく)