「私という舟」(改)

2012-03-04 21:07:55 | 「存在とは何だ?」



            「私という舟」(改)


 「私」という自意識は私という肉体に宿っている。「私」が「私

は生きている」と言う時、実は生きているのは「私」という自意識

ではなく「私」とは不可分の私の肉体である。「私」が宿る私の肉

体とは謂わば死の海を漂う小舟のようなものだ。私という生命は死

の世界から萌え出て死の海を漂いながら、そして死へと還る「私」

の乗り物なのだ。「私」という自意識は漂流する小舟の中で芽生え

その中でしか存在できない。その小舟は「私」が生まれる前に岸を

離れてしまった。だから、「私」はこの小舟の中で生きること以外

の選択の余地はなかった。岸を離れた小舟は後戻りできないのだ。

そして「私」はその小舟と不可分であるが故に、乗り換えることも

途中で降りることもできない。

 私という存在を「ザイン」、そして、私に「斯くあるべし」と命

じる「私」という自意識を「ゾレン」とすると、「ゾレン」は「ザ

イン」から派生した。つまり、「ゾレン」とは「ザイン」にとって

より良く生きるための手段であった。だから、「ゾレン」が「ザイ

ン」に対して「何のために生きているのか」と問うのは、「ザイン」

の手段であったはずの「ゾレン」が、「ザイン」を支配しようとす

る転倒した思考である。つまり、「何のために生きているのか」と

問うのは、目的と手段を倒錯させた問いなのだ。私の存在は何かの

手段なんかではない。ただ、「ゾレン」は「ザイン」に対して「生

きるために何を為すべきか」としか問えない。自殺とは、「ゾレン」

が理性によって「ザイン」を貶めようとする行為である。「私」と

いう自意識にとって私という存在は「不可解」であり、「在るべき

か在るべきでないか」の選択さえも与えられていない。だから、決

して間違っちゃいけない、私という存在は「私」という自己意識を

乗せた小舟なんかでは決してなく、「私」という自意識は、私とい

う小舟を動かすための漕ぎ手であり、私という存在を生かすための

手段なのだということを。

 やがて、「私」とい自意識を宿した小舟は長い漂流を終えて彼岸

へ辿り着く。かつて、「私」という自意識が生まれる前に小舟が岸

を離れたように、「私」という自意識が消え去った後に漂流を終え

る。

「おお、生きることこそが私の目的だったのか。『私』という自意

識はそのための手段に過ぎなかったのだ」

 
               

               「もう消したくないよー」 ケケロ脱走兵




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 「存在とは何だ」(5)―②

2012-02-12 22:58:20 | 「存在とは何だ?」



          「存在とは何だ」(5)―②


 我々の理性は「真理」を追い求めるが、「真理」は科学的である

と信じている限り、それは我々の理性にとっての「真理」に過ぎな

いだろう。かつて、我々の理性にとっての「真理」は宗教であった。

「神」への信仰こそが我々を「真理」に導き、科学とは所詮錬金術

でありまやかしだった。信仰こそが我々の理性を目覚めさせ本能か

ら解放し、つまり、我々は理性に縛られるようになった。今日では、

我々の理性は宗教に倦んで科学に取っ換えられたが、問われるべき

は「神」か「科学」かではなく、それらを生んだ我々の理性ではな

いだろうか。もしかして「真理」などという絶対観念こそがまやか

しではないのだろうか。存在を超越した「真理」という絶対的な観

念こそが「神」を生み「科学」を創った。始めに絶対的「真理」が

あって、万物はその道理に従って在るというのはどうも科学的とは

思えない。では、始めに引力があって物質が引き寄せられて地球が

生まれたのだろうか?物質が存在して結合し、その結果引力が発生

し、それが更に物質を引き寄せて我々が地球と呼ぶ惑星が生まれた。

小さな存在の特性が集まって大きな道理となり、やがてその道理が

存在を支配する。つまり、存在こそが道理をもたらすのだ。人々が

助け合って社会が生まれ、社会が理念(イデオロギー)を生む。我々

の理性は、「始めに神がいた」宗教を生んだ誤謬を科学でも再び

繰り返そうとしているのではないだろうか。

 ところで、私の掌に舞い落ちた一片の雪は、私の掌に舞い落ちる

定めに従ってそうなったのだろうか。私の掌に舞い落ちたが故に定

めが、否、記憶が残った。私の理性は道理を遡って諸条件を首尾よ

く計らい軌道の解析を行って「雪粒は私の掌に落ちるべくして落ち

た」と思う。しかし、それらは記憶から生まれた理性によって作ら

れた「真理」、変化することのない過去の絶対性の中から生まれた

「真理」ではないか。我々が「真理」と呼ぶものは実は「過去の結果」
 
なのだ。科学は、同じ雪粒が再び同じ状況で私の掌に落ちれば、
 
それは道理に従ってそうなった説くだろうが、その「同じ状況」こそが
 
まやかしなのだ。科学は同じ状況の下で世界の「真理」を語ろうとす
 
るが、しかし、膨張する宇宙、変化する世界の中で再び同じ状況が
 
再現されることなどない。我々の記憶から生まれた理性は、世界を
 
知ることも生命の不思議も未来を予測することも能わず、ただ、世
 
界の終わりに「世界は終わろうとしている」としか語れないのだ。

 さて、「同じ状況」の下で再現された一片の雪粒は、首尾よく計

られた軌道に従って落ちてきたのだが、ちょうど雪粒が下界に落ち

てきた時、あろうことか、私はサウナ室の中で客との話に花が咲い

て、雪粒を掌で受け止めることなどすっかり忘れ、件の雪粒は甲斐

なく露天風呂の湯の中に虚しく落ちて消えた。
                                                                          

                                 (おわり)

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「存在とは何だ」(5)

2012-02-04 00:11:41 | 「存在とは何だ?」



               「存在とは何だ」(5)



 昼間っから外れの温泉に行って、露天風呂に半身だけ浸かりなが

ら降り頻る雪を何時までも飽きもせずに眺めていた。雪の粒は風に

のって時には横に流され或いは上空へ舞い上がり何処へ落ちるのか

定かでなかった。あるものは樹木に絡まって蕾を凍てつかせ、また

あるものは川面に落ちて渓流を流れ落ち、更にあるものは山肌の積

雪の上に重なった。それらの雪片は蒸発した水が天空で冷やされて

結晶ができ、それらが集まって色々な形状を作り、ついには天空に

留まることが叶わなくなって地上へ落ち、冷たい大気の中を解けずに、

ところがその大気に阻まれてそれぞれの形状がさまざまな落ち方を

させて、その一粒が私の掌の上に落ち、その温もりで再び水へと還り

湯の中に消えた。私の掌(てのひら)に落ちた一粒の雪片は、果たして、

生い立ちを遡(さかのぼ)れば私の掌に落ちるように予(かね)てより定

められていたのだろうか?ボンヤリとそんなことを思った。つまり、

その軌道は全ての条件を解析できればその雪粒が私の掌に落ちるこ

とを予測することができるのだろうか?それどころか、その雪粒が地上

に落ちる間際に掌を差し出した私は、その前には身体を洗い、更にそ

の前にはサウナに10分間入った後に水風呂に浸かって、もっと前に

は今日その時間に車を走らせてその温泉に行こうと思ったことさえも

予(あらかじ)め決められていたのだろうか。つまり、世界は決められた

道理の中に在り、ただ、我々だけがそれを知り得ないだけなのだろうか?

 科学というのが物理的な結果から現象を解いて原因を明らかにし、

そこで知り得た法則や理論を生かして、知り得ないことを解明する

ことにあるなら、恐らく、我々は科学によって世界を知り得ること
 
など出来ないだろう。何故なら、我々の理性とは世界の存在の後に
 
もたらされたからだ。たとえば、我々の生命を支える肝臓で働く一個
 
の肝細胞は、肝臓の役割を知ることが出来ても、自らが支える人体
 
の全貌など知り得ることなどできない。体内細胞には体内での能力
 
しか与えられていない。同じように、世界内存在としての我々は世界
 
内のことしか理解が及ばないに違いない。 

 我々の理性は記憶からもたらされる。我々が知り得る全てのこと

は過去の記憶から導き出されたことである。しかし、我々が本当に

知りたいのは未来のことであったり、存在する意味であったり、宇

宙の外のことであったり、つまり、過去の経験や記憶から導き出さ

れる答えとは異なった知り得ないことなのだ。ところが、そういっ

た問いさえも過去の経験や記憶からもたらされたとすれば、過去の

記憶からしか答えは生まれて来ない。問いと答えが同じなのだ。つ

まり、1+1=1+1である。「2」という概念は浮かんでこない。恐らく、

肝細胞が思い描く人体とは肝臓そのもののような生命体であること

だろう。どうして人間を思い描くことなど出来よう。我々の理性は記

憶からもたらされるが故に、記憶を超えて世界を思い描くことなど出

来ない。

                                 (つづく)




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「存在とは答えだ」

2011-11-20 00:08:00 | 「存在とは何だ?」

 


              「存在とは答えだ」


 真夜中を過ぎました。雨も降り飽きたようです。虫たちも息をひ

そめる静かな夜です。世界は先ほど営業を終えてひっそり閑として

います。宇宙の中に私だけが取り残されたようです。いや、実は、

私も存在しないのかもしれません。目を閉じると、感覚は私を離れ

て静かな宇宙に繋がります。宇宙も息をひそめて流れています。存

在のよりどころを求めて流れているのでしょうか。いや、何も求め

てはいないのでしょう。そこには問いなどないからです。すべてが

答えなのです。わたしの問いはいつも答えの後ばかり追いかけてき

たけれど、今、知りました。答えがないのではない、わたしが問い

掛けているだけだと。宇宙も大地も、そしてわたしが存在すること

のすべてが答えなんだと。

 

 「世界の中に神秘はない。世界が在ることが神秘だ」
                         
                    (ヴィトゲンシュタイン)


 中国地方のこんな山の中に、あすノーベル物理学賞を受賞された

益川敏英氏が講演に来られます。聴きに行ってみようと思っています。

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「存在とは何だ」(4)

2011-09-20 12:51:35 | 「存在とは何だ?」

            「存在とは何だ」(4)


 本「ハイデガーの思想」に戻ります。

 以下は、著者(木田元) と ハイデガーの言葉が交錯しますので、

便宜上、「 」は著者の、『  』 はハイデガーの、それ以外は私の

言葉とします。

 ハイデガーは、西洋形而上学はプラトン、アリストテレスによっ

てもたらされたと言います。それは、アリストテレスによって、存

在者を「何であるか」(本質)と「それがある」(事実)に区別し概念

化されて、「『この区別の遂行こそが形而上学を成立させたのだ』と

ハイデガーは見るのである。」

 つまり、『存在が区別されて本質存在と事実存在になる。この区

別の遂行とその準備とともに、形而上学としての存在の歴史が始ま

るのである』(ハイデガー著『ニーチェ』)

 それでは、それ以前のギリシャ人たちはどうだったのか?「彼(ハ

イデガー)の考えでは、アナクシマンドロスやヘラクレイトスやパル

メニデスに代表される〈ソクラテス以前の思想家たち〉は、<叡知>

を愛する「アネール・フィロソフォス(叡知を愛する人)」ではあっ

たが「哲学者」ではなかったし、彼らの思索も、「叡知を愛するこ

と」ではあっても「哲学」ではなかった。彼らは哲学者よりも「も

っと偉大な思索者」だったのであり、「思索の別の次元」に生きて

いたのである。」そして、存在者に対する想いとは、「『存在者が

存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在

者が現れ出ているということ、まさしくこのことがギリシャ人を驚

かせた』のであり、この驚きがギリシャ人を思索に駆り立てたのだ

が、当初その思索は、おのれのうちで生起しているその出来事をひ

たすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかなかった、

と言うのである。」つまり、存在者〈がある〉ことに驚き、〈それ

が何であるか〉(何のためにあるか)とは考えなかった。「彼(ハイデ

ガー)は、このようにして開始された思索を『偉大な始まりの開始』

と呼ぶ。」 それでは彼ら(古代ギリシャ人)は存在者をどのように解

していたのだろうか。「万物を<ピュシス>(自然)とみていた早期の

ギリシャ人は、存在者の全体を〈おのずから発現し生成してきたも

の〉と見ていたにちがいない。」 「ハイデガーは、この<ピシュス>

についてこんなふうに述べている。『ピシュスとはギリシャ人にと

って存在者そのものと存在者の全体を名指す本質的な名称である。

ギリシャ人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり

現れきたり、そしておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、

萌えあがり現れきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めて

いるものなのである』」

 ところが、プラトン・アリストテレスによって存在は本質存在と

事実存在に分岐され、「〈始原の単純な存在〉つまり〈自然〉とし

ての存在が押しやられ、忘却されてしまう。この〈存在忘却〉とと

もに〈形而上学〉が始まるのである。」 そして、『イデアとしての

存在こそがいまや真に存在するものへと格上げされ、以前支配的で

あった存在者そのもの(つまり自然)は、プラトンが非存在者と呼ぶ

ものに零落してしまったのである。』 つまり、『イデアの優位がエ

イドス(形相)と協力して、本質存在(何であるか)を基準的存在につ

かせる。存在はなによりもまず本質存在ということになるのである』 

 「以後、形而上学の進行のなかで、この<本質存在>を規定する形

而上学的(超自然的)原理の呼び名は、プラトンの<イデア>から中世

キリスト教神学では<神>へ、さらには近代哲学においては<理性>へ

と変わってゆくが、それによって規定される〈本質存在〉の<事実存

在>に対する優位はゆるがない。」

 つまり、「〈哲学〉にとっては〈それは何であるか〉という問い

が本領であるが、そう問うことによってすでに〈存在〉を〈本質存

在〉に限局してしまっている、ということにほかならない。」それ

では、ハイデガーはその哲学についてどう思っていたのだろうか。

もちろん、時代と共に彼の思想も変遷するが、「西洋=ヨーロッパ

の命運を規定した〈哲学〉と呼ばれる知は、自然を超えた超自然的

原理を設定して自然からの離脱をはかり、自然を制作(ポイエーシス)

のための単なる材料(ヒュレー)におとしめる反自然な知なのだ」。

そして、「近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間

中心主義的文化形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する

<存在=現前性=被制作性>という存在概念にあると見るべきだ」。

そこでハイデガーは、「人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間

性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存

在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような

自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近

代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたの

である」。ところが、彼の企ては挫折してしまった。それは、「人

間中心主義的文化の転換を人間が主導権をとっておこなうというの

は、明らかに自家撞着であろう。」

 「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれは何が

なしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけだ、と後期

のハイデガーは考えていたようである。」(木田元・著「ハイデガー

の思想」より)

 ほとんどが引用になってしまったが、ハイデガーは本質存在「何

だ?」ばかりを追い求め事実存在「ある」を見失ってしまった人間

に始原の〈自然「ピシュス」〉を復権させようとしたが、その自家

撞着によって挫折した。そして、我々にできることはただ「待つこ

とだけだ」と言ったという。ところが、今や我々は人間中心主義的

文化の限界を実感して、合理主義経済がもたらす環境破壊によって

自然環境が激変し、想定(本質)外の自然(事実存在)の反乱に怯えて

いる。たとえば、人間が主導権をとって人間中心主義的文化の転換

を図ることは自家撞着かもしれないが、それでは自然(事実存在)の

変動によってその転換を余儀なくされているとしたらどうだろうか?

本質存在の優位が事実存在の反乱によって脅かされ、「自然共生動

物」或いは「地球内生物」である「世界内存在」としての現存在が

文字通り〈存在=生成〉による転換を迫られているとしたらどうだ

ろうか?自然の猛威とは本質存在に拘束されていた事実存在がその

束縛を断って反抗(生成)しているのだ。忘れ却られていた自然の摂

理がまさにその事実存在によって我々の存在了解(想定)を脅かし、

ハイデガーが言うように、再び我々の「叡知」が甦える時が来ると

すれば、それは将に今こそがその時ではないだろうか。つまり、

ハイデガーの残した思想がようやく輝きを放って、歩むべき道を見

失った近代人を導いてくれるその時が来たのではないだろうか。

 最後に、本の中で見つけたヴィトゲンシュタインの次の言葉を引

用します。

「神秘的なのは、世界がいかに〈あるか〉ではなく、世界がある

〈ということ〉である」

 
「存在者」・・・〔補説〕 (ドイツ) Seiendes存在するもの。
          人・物など個々の存在物を、存在そのものと
          区別していう語。〈大辞林より〉

 尚、本書には到る所に原語のルビがふってありましたが、当然
   その連関を失えば著者の意が伝わらなくなることを承知の
   上で、出来るだけ分り易く伝えるために大部分割愛しました。
   もし伝わらなかったとすれば私の不手際です。

 

                                 (おわり)

 

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