「無題」 (四)―③

2012-06-17 01:01:47 | 小説「無題」 (一) ― (五)



            「無題」


             (四)―③


 その頃はまだ店の運搬用のワンボックスで通勤していたので、すぐ

にその車で妻と一緒に娘を迎えに行った。私は、娘が私ではなく、実

の父親を求めたことが寂しかった。しかし、実の父親は弘子と別れて

すぐに別の女性と新しい家庭を持っていた。弘子が言うにはその女性

は浮気相手だったという。もちろん、それが離婚の一因でもあった。警

察署に着くと、美咲は意外にも明るく振舞って妻と抱き合い、私に対し

て「ゴメン、お父さん」と謝った。彼女は、母親を「ママ」と呼んでも、私を

「パパ」とは呼ばず「お父さん」と言った。私は「心配したよ」とか「行き先

をちゃんとママに言っとかないと」とか、それ以上のことは言わなかった。

私は、後になって何で涙を流してでも叱ってやれなかったのかと悔やん

だが、いつもそういうことが後になってからでないと気付かなかった。帰

りの車の中で、美咲は途中で買ったハンバーガーを食べながら「前に住

んでた家が急に見たくなった」と言い訳したが、私と妻はそれ以上訊けな

かった。

 その後しばらくはこれといった出来事も起こらなかったが、何しろ

仕事が忙しくなって私は家族の一員だったが家庭の中の一人にはなれ

なかった。やがて、下の子がオムツも取れて一番かわいい時期を迎える

と、妻の両隣の席は一つは下の子が占め、もう一つを私と美咲で奪い合

うまるでイス取りゲームのようだった。私が家に居る時は美咲は自分の

部屋から出て来なかった。彼女は自分の本心を口にしない子なので

いったい何を考えているのか解らず、私はどう接していいのか思い悩

んでいた。

                                     (つづく)



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「無題」 (四)―④

2012-06-15 04:18:44 | 小説「無題」 (一) ― (五)

              「無題」


               (四)―④


 ある日、社長からデンワがあって、何時もの様に仕事の話だと思っ

て聴いていると、子どもは大きくなったかだとか家族とは上手く行っ

てるかだとか、いっこうに肝心の仕事の話に入らないので、「忙しい

ので切りますよ」と言うと、「実は、」と低い声で言い、少し間を置

いてから、娘の美咲が、かつて私と妻が出会ったあの店で万引きを繰

り返しているようだと言った。「どうも間違いないみたいだ」と、社

長は防犯カメラに何度も映る少女を確めた店長の話を打ち明けた。そ

して、もっと早く教えてやればよかったが、私の後輩の店長は随分と

躊躇ったらしい。私は早速店長にその映像を送ってもらって確かめて

から彼に謝り、すぐに弘子に連絡した。「こんなことは絶対に許せな

い」と妻に憤りをぶっつけると、彼女は「まず、私が美咲に確かめる

から」と言って、あなたが感情に任せて頭ごなしに叱ったら美咲が壊

れてしまうから「どうか私に任せてほしい」と言うのでそうした。その日

は土曜日だったが、つまり、店にはやるべき仕事が山のように積まれ

ていたが、主任に責任を預けて夕時のお客さんで賑わう店内を後にし

た。

 妻は、ダイニングテーブルにその店に罪滅ぼしのために注文したと

思われる美咲の好物のにぎり寿司が、それも特上にぎりが並べられた

円形のフードパックを真ん中に置いて夕飯の準備を終えていた。私が

シャワーを浴びてイスに腰を下ろすと、妻に促されて美咲が階段を恐

る々々降りて来て、私自身も緊張が高まってきて冷静を心掛けることが

精一杯で、たとえ目の前に特上すしがあっても食指を動かされることは

なかった。

                                     (つづく)
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「無題」 (四)―⑤

2012-06-14 16:00:21 | 小説「無題」 (一) ― (五)



         「無題」


          (四)―⑤


 美咲は降りて来るなり私の横に来て、私はイスごと躰を彼女の方に

向けた。彼女はすぐに「お父さん、ごめんなさい」と言って頭を垂れ

ると、同時に両眼に溜まっていた涙が滴になって彼女の足下の床を濡

らした。私は、その落下の軌跡を辿っているうちに、もちろん一瞬の

ことだが、もう彼女を叱る気を失った。乱れた髪の間から俯いた彼女

の顔を覗くと頬が赤く腫れ指の跡だと判るほどそこだけ鬱血して白く

斑になっていた。彼女が嗚咽を繰り返していると、妻が「もうやりま

せんでしょ」と忘れたセリフを教えた。彼女はその言葉を繰り返すと

止めどなく新しい滴で床を濡らした。私は「よしっ、わかった」と言

って初めて彼女の頭を撫でた。すると彼女はもう一度「ごめんなさい」

と言ってその頭を私の胸にうずめた。「もういい、わかったから」、

そう言って私は自分の隣りのイスを引いて席に着くように促した。席

の決まりはなかったが、それは自分がほとんどテーブルを一緒に囲む

ことがなかったからだが、下の子が産まれてからは専ら妻が傍らに着

くので四つの席の占め方は自然とそうなった。「さあ、メシにしよう

!」と私が言うと鬱陶しい儀式は終わって、妻が娘に泣き腫らした顔

を洗ってくるように言い、彼女は洗面所に駆け込んだ。私は妻にごは

んの間はもうそれ以上彼女を咎めないように言って、やっと目の前の

特上すしにも食指が動いた。久々のトロを頬張りながら、例えば、子

どもたちに好きな親を選ばせて、我々は見ず知らずの異性と子ども

の前で仲睦まじい夫婦を演じることが出来るだろうか?恐らく、美咲

がそんな辛い思いをしなくてはならないのは彼女だけの所為じゃない

と思いながら、むしろ、謝らなければならないのは、子どもたちの気

持ちも考えもせずに「パパ」が突然居なくなったり、また、知らない「

おじさん」がある日から「お父さん」になったりと、私たちの感情絡み

の思惑で子どもたちが育っていく根拠を奪ってしまう身勝手な大人た

ちの方ではないかと思うと、彼女が気の毒に思えて仕方なかった。

すると、口に入れたトロのワサビが効き過ぎていたのか、急に涙が

溢れてきてきた。

                                  (つづく)
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「無題」 (四)―⑥

2012-06-14 04:00:01 | 小説「無題」 (一) ― (五)



                 「無題


                  (四)―⑥


 美咲が席に着いて夕餉が始まった。彼女は私と妻の世間話を最初は

神妙な態度で聞いていたが、何といっても下の子の、彼女の名前は「

己然」と書いて(キサ)と読む、私が「美咲」の音をもらって漢字を当

てた会心の命名だが、みんなからはお坊さんみたいと評判は悪い、そ

の己然の無邪気な振舞いに誰もが顔を崩さずにはいられなかった。と

りわけ美咲は妹の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれた。やがて、美咲も斑

だった頬も元通りに戻って屈託のない笑顔を見せてくれた。私は久しぶ

りに一家団欒を味わった。こうゆう時間を毎日持つことが出来ないで果

たして家庭と呼べるのだろうか。私は調子に乗って、というよりも殊更み

んなが気にしていることを避けているのもおかしいと思って、敢て自らの

子ども時分の万引き体験の話をした。

 近所に天理教の大きな教会があって、夏になると信者の子供たちが

集まった。親しくなって遊びに行くうちに「おつとめ」までするよう

になり、今でもその時の手振りを覚えている。一時期流行ったパラパ

ラ踊りは天理教の「てをどり」が原点に違いない。ある日、その子ら

に「おもしろいこと」に誘われて、柵を潜って私鉄の駅に入り、電車

をただ乗りしてターミナル駅へ行き、再び柵を潜るとそこには鉄道会

社が経営するデパートがあった。その地下売場には客がセルフサービ

スで商品を取るお菓子売場があった。彼らは各々が気に入った菓子を

気付かれないようにポケットに突っ込んでバレることなく巧みにその

場を立ち去った。それまで親からそんな行為を厳に諌められていた私

は、とりわけ教会の子供は悪い子等ばっかりだと教えられていたので、

呆気にとられて何一つ取ることが出来なかった。外へ出てそれぞれが

戦果をポケットから取り出した。五六人居たと思うがただ私だけが何

も「仕事」をしていなかった。それでも彼らは話し合ってそれを人数

分に分けて私にも与えて呉れた。夏が終わると何時の間にか彼らは姿

を消したが、私は、その菓子の味と彼らが教えてくれた友情が何時ま

でも忘れられなかった。後年、暇を持て余していた小学校の同級生を

誘って悪巧みをして地元のスーパーに向かった。私がリーダーで他に

三人ほど居た。実は、私は万引きを実行するのはその時が始めてだっ

た。あの時の経験からそれぞれがバラバラになって行うことと決めた。

私は勇気を振り絞って誰にも見付からずにチョコレートをポケットに

入れた。そして、店を出た時に他の三人が捕まっているのが見えた。

一人が私を見つけて救けを求めていた。側で客のおばさんが「許して

あげて」と係員に訴えていた。私は一瞬逃げようと思ったが、それで

は彼らを見棄てることになる。呆然と立ち竦んでいる私に係員が駆け

寄って来て「お前もか?」と言って事務所に連れて行かれた。私は逃

げることが出来たのに逃げなかったのは友情からだった。ところが、

彼らは問い詰められると、私に唆(そそのか)されたとあっさりと裏切

った。更に此奴は前からやっていたとまで暴露した。私は悲しくなっ

て泣きながら「違う!やってない!」と叫んだ。結局、万引きを実行

していたのは私だけで、店はチョコレート代を払うだけで見逃してく

れた。

「それから、もう万引きは懲りた。本当は、万引きなんかどうでもよ

くて、ただ友だちとの絆を求めていただけだった」

すると、美咲は神妙になった。私は、

「どうせするならうちの店じゃなくて何で〇〇屋でやらんのや」

〇〇屋とはもちろんうちのライバル店のことだ。彼女が私の会社の店

で万引きするのには、もしもの時は容赦が得られると踏んでのことか、

それとも、私自身への反感なのかは解らなかった。妻は大きな声で、

「お父さん!そんなこと教えたらダメでしょ!」

と私を諌めた。すると、大人しくしていた己然が、近頃覚えたばかり

で意味も解らずにすぐに口にする「なんで」という言葉を母に吐いた。

そのタイミングの良さに誰もが一瞬話を理解して言っているのではな

いかと驚いたが、すぐに関心は食べ物に移ったので、みんなで笑い

転げた。

                                   
                                   (つづく)

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「無題」 (四)―⑦

2012-06-07 00:58:34 | 小説「無題」 (一) ― (五)
  


          「無題」


           (四)―⑦


 あくる朝、美咲はかつてそこで働いていた母に連れられて店を訪れ、

店長に謝り、二度としませんと誓約して容赦してもらった。それから

何事もなく過ぎ、やがて受験勉強に追われる日々が始まり、志望校へ

の高校への入学を果たした。その頃から夕方だけコーヒーショップで

アルバイトとして働き始め、高校生活も特に何事もなく過ぎ、三年生

になるとすぐに大学受験が控えていたのでそれどころではなくなった。

当初は自宅から通える都内の大学を受ける予定だったが、ところが願

書を送る直前になって突然京都の大学へ行きたいと言い出した。それ

は、仕送りを求められる親にとっては大きな負担だった。妻から都内

の学校にするように説得してもらったが思い直してはくれなかった。

彼女は子供の頃から頑固で一度言い出したら人の話を聞こうとはしな

い。遂には学費だけ工面してくれればアルバイトをしながらでも通うと

まで言い張った。もちろん彼女の京都への憧れは知っていたがいった

い何故京都の学校なんだ、すると妻が、

「彼氏が京都の大学を受けるのよ」

「何だ、そういうことか。それで上手くいってんのか?」

「今はね」

離婚歴のある彼女にとってそれは含みのある言葉だった。妻が言うと

ころによると、彼氏の実家はそもそもが京都にあった。父親の転勤で

一家で東京暮らしを選んだが、いよいよ年が明ければ京都へ戻ること

になっていた。

「どんな子?」

すると妻が、アルバムを持ってきて美咲の彼氏を教えてくれた。もち

ろん見覚えがなかったが、なるほど美咲の好きになる男とはこういう

青年なのかとシゲシゲと眺めていると、

「ほら、この前の美咲の誕生日に居たじゃない」

「ああ、私が帰って来るのを待っていた奴か」

彼は、次女に「己然」(キサ)と名前を付けた親の顔が見たいと言って

一人残って私の帰りを待っていた。頭を下げた青年は今でいうイケメ

ンだった。私は親の直感からただの友達ではないと気付いたことを思

い出した。もうその頃には、私は美咲から疎まれて話しもしてくれな

くなっていた。それはある朝、便所に入ろうとするとすでに満室で、い

くら待っても施錠が解かれる様子がなく、妻によれば娘が便秘で苦し

んでいると教えてくれたので、それでは「鍵」が明かないと思い馴染み

のコーヒーショップに駆け込んで用を足した。帰り掛けにマスターが「

故障?」と訊くので、確かにクソ丁寧に「娘が便秘で便所から出て来

ない」みたいなことを吐いたのを、巡り巡って何時の間にか当の美咲

の耳にまで届いて、彼女は血相を変えて私に詰め寄り、

「もう、絶対に口を利かない!」

と、ついに絶縁を言い渡されるに到った。

                                    (つづく)


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