「無題」
(四)―⑪
美咲は、京都の病院に入院中に担当医に勧められてメンタルヘル
スのカウンセリングを受けた。妻の説明によると、今は抑うつ状態
にあって経過を見ないと早計に診断を下すことは出来ないが、何ら
かの人格障害が隠れているのかもしれないので、自宅に帰って日常
を取り戻したら東京の精神科医を受診するように強く言われた。そ
こで妻は、自堕落な日々を送って愚図る娘を説得して、何ヶ所か診
療所を連れ回してついに美咲も納得できる医師の元へ通い始め、カ
ウンセリングを重ねたその結果、彼女は境界性人格障害だと診断さ
れた。私も、それから初めてその症例を確かめたが、その症状は様
々で一言では断定できないが、なるほど彼女の言動に当て嵌まった。
私は、何よりもまず二度と彼女にリストカットをさせないようにそ
の精神状態から抜け出させようと焦ったが、すると妻は、それが彼
女を追い込むことになるので良くないと言った。
「じゃあ、どうするの?」
「放っておくの」
彼女が再びリストカットをしても、それは彼女が納得してすること
だから周りの人間がとやかく言ってもどうにもならないことだ言っ
た。彼女にはもちろん死ぬ自由は与えられていたが、否、彼女にと
っては生きていることこそが束縛で、自由とは生きることから逃れ
ることだったのかもしれない。私は何時も彼女の自由の行使に怯え
ながら、ただ彼女が生きようとする本能に従うことを願いながら見守
るしかなかった。そのうちに、私にも美咲の苦しい思いが少しづつわ
かってきた。我々は何だってかくも生きることに縛られているのだろう
か?服従を強いられ自由を奪われても抗わないのは、ただ自分を生
きることに縛りつけているからではないのか?私は、もの心が付いた
時から教え込まれてきた社会の常識が徐々に崩れ始めた。
夢幻はかくも冗長なる経緯さえも瞬時に再生させて、更に、私が
危惧していた予測までも演出した。つまり、娘が再びリストカット
したという妻からのデンワは、私が夢の中ででっち上げた幻想だっ
た。その夢幻から目覚めて車窓の景色を見渡せば、右には削られた
山肌が迫り新緑に彩られ、左には紺碧の大海原が広がり、その水平
線の上はどこまでも青空だった。そして、ハテ自分は何でこんなところ
に居るんだろうと、最前遭遇したばかりの人身事故さえもう既に忘れて
しまっていた。電車はもう乗客のために走っているというよりも、ただ時
刻表のために仕方なく走っていた。すでに乗客は疎らだった。
(つづく)