「無題」 (四)―⑧

2012-06-04 14:22:51 | 小説「無題」 (一) ― (五)



                   「無題」


                    (四)―⑧


 美咲は京都の大学に合格が決まって家を出た。彼女は私の娘の役

を演じていたが、遂には私の子にはならなかった。いや、私が彼女

の父親になれなかった。私が仕事ばかりであまり家に居なかったこ

ともあってその隔たりを埋めることはできなかった。やがて、彼女

も変な気を遣い始めて心を開かなくなった。互いが感情をぶつけ合

って怒ることも泣くこともなかった。そして、笑顔を作る余裕を失

くした時は私を避けた。理性でかかわっていても感情で繋がってい

なかった。ついには言いたいことがあれば妻を通して伝えるように

なった。私は理解のある父親であったかもしれないが、それが返っ

て彼女を迷わせる結果になったのではないか。本当の親なら自分の

子どもをたとえ間違ったことでも責任など考えずに押し付けること

ができるはずだが、私の場合はその責任という意識が先に立ちはだ

かった。そうだ、私はもっと間違いを怖れずに彼女を迷わすべきだ

った。迷いの中からしか自分の生き方は見つけられないとすれば。


                                  (つづく)
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「無題」 (四)―⑨

2012-06-03 02:13:20 | 小説「無題」 (一) ― (五)


          「無題」


          (四)―⑨


 美咲が手首を切って自殺を図ったのは二年生の終わり頃だった。

彼氏にデンワで宣言してから自分の部屋で行った。すぐに彼氏が駆

けつけて、躊躇い傷は多数あったが致命傷でなかったので大事には

到らなかった。彼氏との別れ話が原因だった。早速、母の弘子が京

都の病院へ向かったが、私は仕事を休むわけにはいかなかった。二

週間あまりの入院のあと、独り京都に残すわけにはいかないので学

校に休学届を出して暖かくなるのを待って連れ帰って来た。思ったよ

りも元気そうだったので妻に言うと、妻は、そう装っているだけだと言

下に否定した。そうだった、彼女は明るい自分を演じるのが実に巧妙

だった。普段は闊達に振舞う彼女と、初めて会った子どもの頃に見せ

ていた臆病な暗い表情が私の中でどうしても繋がらなかった。私の目

には彼女の明るさが生まれ持った性格というよりも、過去の寂しさを

忘れようとして無理にそうしているように思えてならなかった。私は、

「それで、彼氏とはどうなったの?」

妻は、大きく手を振って、

「ダメに決まってるじゃない」

妻が言うには、一縷でもやり直せる望みがあれば彼女は決してそん

なことはしなかっただろう。入院中に彼氏が訪ねてきたが、彼女は

面会を断ったという。そして妻は、

「恋愛は同情とはちがうから」

とつぶやいた。

                                   (つづく)
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「無題」 (四)―⑩

2012-06-02 15:48:55 | 小説「無題」 (一) ― (五)

                 「無題」


                  (四)―⑩



 家を出て行った娘が、突然自殺未遂をして戻って来たことで誰も

がその対応に戸惑った。私と妻は何よりもまだ小学生の下の子に好

ましからざる影響を与えるのでないかと心配していた。実は、私は、

美咲との関係に悩んで色々と本を読んだりもして、中には、ある学

者は「人は十才で人間になる」と語り、それまでは自己形成を妨げ

る不安やストレスをできるだけ避け、親からのスキンシップやこと

ば掛けによって愛されているという安心感の中で育てなければなら

ないと言っていた。つまり、子どもたちはただ寝てばかりいるだけ

でもただ遊んでばっかりいるだけではないのだ。大事なのは親が側

に居て見守られながら学習と応用を繰り返して自己を形づくってい

く。そして、十才を過ぎると今度は自立心が芽生えてきて親の過干

渉が鬱陶しくなってくる。だから私は、己然とは、たとえ疲れてい

てもできるだけコミニケーションを図って十才までは寂しい思いを

させないように妻にも言い聞かせて心掛けていたが、ただ、残念な

ことに美咲を我が子として受け入れた時にはすでに彼女は十才を過

ぎて自己形成が不安定なまま自立心だけが芽生えていたので突然現

れた私と親子の絆は築けなかった。彼女には本当に悪いことをした

と思っている。ところで、昨今は、共働き夫婦が当たり前で、更に

は男女共同参画社会の実現などと謳い、大人の視点からしか社会の

在り方が語られないが、たとえ施設に預けても子どもは親と引き離

されることで少なからずストレスに感じているに違いない。我々は

霊長類が一産一子であることの意味を改めて思い出す必要がある。

子どもの側から言えば、母親であれ父親であれ、わが子を背負って

職場へ連れて行って仕事をしたって構わないと思うんだが。ま、そ

こまではしなくても、かつては、お母さんは道端であれ電車の中で

あれ豊満な乳房を人目を憚らず惜し気もなく曝け出して我が子に母

乳を与えていた。それを見ている男たちも誰も邪(よこしま)な想像

などしないで至極自然なことだと思っていたではないか。私は女子

が電車の中で化粧をしたって邪魔にさえならなければ全く気になら

ない。あれってそんなに悪いことなのかな?例えば、電車の中で泣

き止まぬ子に母親が突然衣服をたくし上げて乳房を曝して母乳を授

けたとすれば一体誰が非常識だと非難できるだろうか。それとも、

乳飲み子を抱えて電車なぞに乗るなとでも言うのか。意識の変化に

伴って社会のモラルも変わっていくのは分るが、ただ、物言わぬ子

どもが不在のまま行き過ぎた大人社会のモラルが形作られているこ

とに危惧の念を覚える。生物進化から言えば、大人とはただ子ども

の成長のためだけに生きているのだ。

                                  (つづく)
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「無題」 (四)―⑪

2012-06-02 02:51:06 | 小説「無題」 (一) ― (五)

           「無題」


            (四)―⑪


 美咲は、京都の病院に入院中に担当医に勧められてメンタルヘル

スのカウンセリングを受けた。妻の説明によると、今は抑うつ状態

にあって経過を見ないと早計に診断を下すことは出来ないが、何ら

かの人格障害が隠れているのかもしれないので、自宅に帰って日常

を取り戻したら東京の精神科医を受診するように強く言われた。そ

こで妻は、自堕落な日々を送って愚図る娘を説得して、何ヶ所か診

療所を連れ回してついに美咲も納得できる医師の元へ通い始め、カ

ウンセリングを重ねたその結果、彼女は境界性人格障害だと診断さ

れた。私も、それから初めてその症例を確かめたが、その症状は様

々で一言では断定できないが、なるほど彼女の言動に当て嵌まった。

私は、何よりもまず二度と彼女にリストカットをさせないようにそ

の精神状態から抜け出させようと焦ったが、すると妻は、それが彼

女を追い込むことになるので良くないと言った。

「じゃあ、どうするの?」

「放っておくの」

彼女が再びリストカットをしても、それは彼女が納得してすること

だから周りの人間がとやかく言ってもどうにもならないことだ言っ

た。彼女にはもちろん死ぬ自由は与えられていたが、否、彼女にと

っては生きていることこそが束縛で、自由とは生きることから逃れ

ることだったのかもしれない。私は何時も彼女の自由の行使に怯え

ながら、ただ彼女が生きようとする本能に従うことを願いながら見守

るしかなかった。そのうちに、私にも美咲の苦しい思いが少しづつわ

かってきた。我々は何だってかくも生きることに縛られているのだろう

か?服従を強いられ自由を奪われても抗わないのは、ただ自分を生

きることに縛りつけているからではないのか?私は、もの心が付いた

時から教え込まれてきた社会の常識が徐々に崩れ始めた。

 夢幻はかくも冗長なる経緯さえも瞬時に再生させて、更に、私が

危惧していた予測までも演出した。つまり、娘が再びリストカット

したという妻からのデンワは、私が夢の中ででっち上げた幻想だっ

た。その夢幻から目覚めて車窓の景色を見渡せば、右には削られた

山肌が迫り新緑に彩られ、左には紺碧の大海原が広がり、その水平

線の上はどこまでも青空だった。そして、ハテ自分は何でこんなところ

に居るんだろうと、最前遭遇したばかりの人身事故さえもう既に忘れて

しまっていた。電車はもう乗客のために走っているというよりも、ただ時

刻表のために仕方なく走っていた。すでに乗客は疎らだった。


                                    (つづく)



「無題」 (五)

2012-05-30 15:38:57 | 小説「無題」 (一) ― (五)



             「無題」


             (五)


 間もなく、何度か家族で訪れたことのある温泉町の駅に停車する

と車内アナウンスがあった。私は、電車に飽いていたので降りるこ

とにした。平日のこともあって乗り降りは少なかった。そして、す

ぐに妻にデンワをした。

「美咲は居る?」

「どうしたの、急に?」

「ちょっと」

「ええ、居るわよ。さっきごはんを食べて部屋へ戻ったとこだから」

私は、もしかしたらあの電車に飛び込んだのは美咲じゃなかったの

かと気になっていた。安堵して、妻に今朝起きた人身事故のこと、

それから今日は会社を休むことになったと伝えた。すると、すでに

彼女は朝のニュースで聞いて知っていた。

「やっぱり、そうだったの」

記憶を遡りながら説明しているうちに、被害者、自殺した人も被害

者と呼ぶのが相応しいかどうかは知らないが、彼女のあの眼が再び

脳裏に蘇えってきて一瞬ことばを失くしたが、それは面倒だったので

言わずに、ただ、帰りの電車で寝過ごしてしまって今とんでもない所

からデンワしていることを伝えてから、折角だから温泉でも入ってか

ら帰ると言うと、

「なーに、自分だけ」

そう言われてみれば美咲が家を出てから家族四人揃って出掛けたこ

とがなかった。

「じゃ、いつかみんなで旅行でもしようか」

「いつ?」

「だからいつか」

「そんなのばっかり」

彼女が愚痴るのも分る。これまでは仕事ばかりでとても行けなかっ

た。たまの休みも専ら睡眠不足を取り戻すために横になりたかった

ので、下の娘を遊ばせることさえ気が重かった。だから家のことは

いつも先送りして「いつか」が口癖になってしまった。しかし、身

体を悪くして自分の仕事を人に譲ってからは暇を持て余すことの方

が多くなった。

「わかった。じゃあその時のために下見しとくよ」

お茶を濁してデンワを切ったが、自分の中では大きな変化を求めて

いることに気が付いていた。一言で言うと今の自分がつまらなかっ

た。生き甲斐と言うものがなかった。


                                   (つづく)
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